4 すみれ、ひとたば
僕が偶然その店へ行ったのは、今から三年ほど前になる。
その頃、僕は同級生の女の子と付き合い始めたばかりで、今思えば毎日フワフワしていた。
世界中にピンクのかすみがかかったような幸せな気分で、さぞしまりのない顔で暮らしていただろうと思う。
彼女の一挙手一投足がかわいくて愛しくて、どうしてこんなかわいい生き物がいるのだろう、彼女はこの世の奇跡だとさえ思っていた。……思っていた、本当に。
僕はその日、付き合い始めて一ヶ月になる記念に何かささやかな贈り物がしたいなと思いながら歩いていた。
そして薔薇色がにじむ夕映えの町で、偶然その店を見つけた。
開け放たれた扉の外に大きな藤のバスケットが置かれていて、片手で持てるほどのガラスポッドがたくさん、陳列されていた。
このガラスポッドにキャンディでも詰めてプレゼントしようかと思い付き、僕は足を止め、二、三歩店へと近付いた。
「いらっしゃいませ」
店の奥からはたきを片手に出てきた店主らしいおばさんと、僕は鉢合わせた。
見事な白髪をきちんと結い上げた、アイロンの利いた白いエプロンを身に着けたおばあさんに近いおばさんだ。
しゃっきりと背筋が伸び、動作がキビキビしていたから、もしかすると見た目より若いのかもしれないが。
僕はあいまいに笑って軽く頭を下げ、バスケットの中を指差して、これはおいくらですかと訊いた。
「ガラスポッドでしたら店内にもございますよ。よろしければそちらもご覧になってみませんか?」
柔らかくほほ笑みながら低めの声でそう勧められ、僕は、それならばと店の中へ入った。
店の陳列棚には、大小のガラスポッドや色のヴァリエーションも美しいグラス、水晶を削ったような一輪挿し、あるいは愛嬌のある顔をしたガラス細工のイルカや猫……などがあった。
ガラスの小物の専門店らしい。
涙型のペンダントトップや色ガラスの指輪、花をモチーフにしたガラスのイヤリングなども、別の陳列棚にあった。
彼女を連れてきたら喜ぶだろうな、と僕は思った。
逆に言えば、男が一人でうろうろするのはちょっと気恥ずかしいファンシーな店でもある。
早く買い物を済まそうと陳列棚のガラスポッドのひとつに手を伸ばそうとし、僕はそれに気付いた。
木を象った小さな置物だった。
リンゴの木らしい。
幹に対してアンシンメトリーに伸びた二本の枝のうち、少し高い位置にある長い方の枝にルビーのような輝きの赤い実がついていた。
「『はじまりの園のリンゴの木』、ですか?」
僕の視線をたどり、店主のおばさんが言った。
「これは二つで一対になります。恋人同士が一つずつ持つように作られているのですよ。この木の下で恋人たちは、本当に会いたい時にただ一度だけ、素直な心で会うことが出来るのです」
「……は?」
途中から彼女のセールストークがゆがんだ気がする。
会いたい時にただ一度だけ、会える?
それも『この木の下で』?……は?
どういう意味かさっぱりわからない。
ポカンとしている僕へ、彼女は穏やかにほほ笑む。
「お客さま。私は光と影の距離が限りなく近付くたそがれで長く魔法を商って参りました。これでもお客さまにぴったりの魔法を見立てるのには、自信がございますのよ」
ますます意味がわからなくなり、さらにポカンとしている僕へ、彼女は笑みを深める。
「いずれにせよ、大切な方への贈り物に相応しい品であることは確かではないかと思います。恋人への贈り物ですよね?」
恋人への贈り物、に僕はうろたえた。
確かにそうなる訳だが、『恋人』という言葉はまぶしい。
そんな言葉が僕たちの間柄を指すのか思うと、急激に頭に血が昇った。
結局僕は赤い顔で、『はじまりの園のリンゴの木』なるガラスの置物を一対、買った。
てのひらに載る程の小さな置物は、思っていたよりは高価だったが、当時高校生だった僕でも小遣いをはたけば買える、美しいが儚い、安物のファンシーグッズだった。
彼女は喜んでくれた。
『はじまりの園のリンゴの木』が一対だと知り、それぞれの下に敷くコースターを作ってくれた。
彼女のコースターは赤、僕の方は紫で、隅に黒でイニシャルが刺繍されている。
『はじまりの園のリンゴの木』とイニシャルが入った紫色のコースターは、しばらくの間、僕にとって一番の宝物だった。
どんな素晴らしい料理も毎日食べていれば厭きる。
厭きるが言い過ぎだったとしても、慣れる。
世界からピンクのかすみが晴れる頃、僕たちは互いが日常の一部になり、そして少し贅沢になった。
遠慮がなくなり、要求が増え、かわいかったはずのあれこれが鼻につくようになり……笑って許せていたことが、何故か許せなくなる。
とげとげしい口調で言い合うことが増え、半年。
もうこれ以上は続けられない、とお互いに思った。
僕たちは話し合い、別れた。
これで清々した、はずだった。
なのに、胸には途轍もない空白があるばかりで、どういう訳かちっとも楽しくないのだ。
あれほどたくさん言葉を尽くしたはずなのに、大事なことをまったく伝えられなかったような後悔が、別れてしばらく経った今になり、くり返し襲ってくるようになった。
これではいけない、と僕はある日、無理やり身体を動かして部屋の大掃除をし始め……あの不思議な店で買った儚い置物を、本棚の隅で見付けた。
(『本当に会いたい時にただ一度だけ、素直な心で会える』……確かあの店の人はそんなこと言ってたっけ?)
苦笑いをしながら僕は、ガラスの枝から埃を払い、そっと磨いた。
(もしかすると……今こそ本当に、彼女と会いたいかもしれないな)
会いたい時にはいつでも会える、あるいは、もう顔を見るのもイヤだと思っていた時には伝えられなかった言葉が、ある。
ぼんやりそんなことを思いながら、輝きの戻った『はじまりの園のリンゴの木』を棚板へ置いた、瞬間。
くらりと眩暈がした。
ぼんやり目を上げると、何故か僕は、すらりとした木の根元に座っていた。
枝に実っている赤い実が、明るい陽に照らされて宝石のように輝いている。
辺り一面、じゅうたんを敷き詰めたような感じで紫色が広がっていて、その紫は風が吹くたび優しくゆれているのだ。
(……すみれ?)
目をしばたたき、まじまじとそれを見て僕は驚く。
春先に道の片隅で咲いているすみれの、何倍もある大きなすみれの群生だった。
すみれたちはそれぞれしゃっきりと茎をのばし、みずみずしい花弁を風にそよがせている。
なんだか彼女に似てるな、と、ふと僕は思った。
その時、向こうからかすかな足音が響いてきた。
振り向く。
彼女だった。
「ええと。こんにちは」
きまり悪そうに目をしばたたき、彼女は言った。
「……ああ」
僕もきまり悪くなって目をそらし、挨拶にならない挨拶でごまかした。
所在なげに立っている彼女に、
「ここに座らない?柔らかい草が生えていて、座り心地がいいよ」
と声をかけ、少し身をよじって場所をあけた。ややためらった後、彼女は、そうだねとつぶやき、僕からちょっと距離をあけて座った。
僕らはしばらく、梢越しに黙って空を見ていた。
白っぽくかすんだ空。
陽射しはあたたかく、柔らかい。
春から初夏にかけての気候を思わせた。
ささやかなお弁当を持って、一緒にピクニックに出かけた晩春のある日を思い出す。
「……会いたいなって、思ってたんだ」
スルっと僕の口から本音が出てきた。
「肝心なことをちゃんと言わないまま、さよならしてしまった気がして。……大好きだった。本当だよ。大切だった。それも本当だ。だけどいつの間にか、愛してるんだから愛し返して欲しい、見返りが欲しい……そんなことばかり思うようになっていた。与えるよりもらうことばかり考えるようになっていて……ごめん。今更だけど、ごめん」
彼女はゆっくりとかぶりを振る。
「同じだよ、私も。……ごめんね」
お互いに目が合い、苦く笑う。
ふと思いつき、立ち上がると僕は、キラキラ輝く赤い実をもいで差し出した。
「これ、あげる」
彼女は驚いたように目を見張った。どうしようか迷うように瞳をゆらしたが、ひとつうなずいて受け取ってくれた。
「ちょっと待ってて」
そう言うと彼女は、すぐそばで咲いているすみれの花を丁寧に摘み、小さな花束を作ると僕へ差し出した。
「どうぞ。今までありがとう」
花束を差し出す彼女の笑顔は、初めて恋した日と何も変わらなかった。
その事実に軽く驚き、僕は、初恋に戸惑う少年のようにおずおずと、彼女からすみれの花束を受け取り……。
ハッと我に返る。
僕は自室のベッドに普段着のまま寝転がっていた。
しばらくぼうっと、見慣れた天井を意味もなく見ていた。
(夢、か……)
なんてセンチメンタルな夢だろうと我ながら呆れたが、胸に開いた空白は、鈍い痛みを残しながらも柔らかく埋まっている気がした。
苦笑いを浮かべながらベッドから身を起こし……、ギクッとする。
僕は右手に、今摘んだばかりだとしか思えない、みずみずしいすみれの花束を握りしめていた。