2 ここではないどこか
俺は疲れていた。
やってもやっても仕事はなくならないし、ようやく自分の仕事に終わりが見えてきたと思ったら、他人から仕事を押し付けられる生活。
文句を言っても、だったら辞めろ君の替わりはいくらでもいると言われ……いや。
正確には、言われる、訳ではない。
そんな言葉が聞こえてきそうな、冷たい目でジロッと見られるだけだ。
富士山まで届きそうな不満を押さえつけ、飲み込み、俺は自席へ戻って大人しく仕事をする。
そんなことを、もうどのくらい繰り返してきただろう。
気付くと学生時代から付き合っていた女は、四六時中仕事に押しつぶされている俺にあきれ果て、いなくなっていた。
夕映えの町をとぼとぼ歩く。
本当を言えば、今日だってまだまだ仕事をしなくてはならなかった。
だがさすがに限界だ。本気で疲れた。
いっそ死んだら心ゆくまで眠れるのに、とくり返し思っているのに気付き、力なく苦笑いする。
永眠でもいいから眠りたいなんて、我ながら病んでいる。
明日出社しても、俺の席はないのかもしれないと思う反面、なら勝手にしろとも思う。
俺はじゅうぶん頑張った、これ以上は無理だ。
くびにしたければ勝手にしてくれ。
西の空を染める茜色を見つめ、俺はぼんやり歩き続ける。
最初は自宅へ帰るつもりだった。
が、歩いているうちにどこへ行きたいのか行くつもりだったのか、自分でもよくわからなくなっていた。
そしてハッと気付くと、俺はとある店の中にいた。
飴色の空気の中、ショーケースのガラスが光る。何気なく覗き込んだ。
「チケット、か?」
思わずつぶやいた。
新幹線や航空機の乗車券、イベントやコンサートなどの入場券、あるいは各種プリペイドカード。
そんな感じのものが古めかしいショーケースの中、整然と静かに陳列されていた。
なるほどチケット屋かと俺は思う。……何故そんな店に来たのかはまったくわからなかったが。
しかし今まで出張の為に何度か利用したチケット屋のような、ごみごみした雰囲気がまったくない。
チケット屋というより、アンティークの時計や宝石を売る店のような雰囲気だ。
「いらっしゃいませ」
不意に柔らかな声がし、俺は驚いて声の方を向く。
あかぬけない地味な服を着た、白髪を綺麗に結い上げたおばさんがショーケースの向こうに立っていた。おばさんはにっこり笑うと
「買い取りですか?」
と言った。
「あ、いえ……」
あいまいに首を振りかけたが、その時に俺は、手の中に何か持っているのに気付いた。
名刺ほどの大きさの、乗車券らしいもの。よく見ると二枚あった。
『絶望』行き
『徒労』行き
薄いグレーのカードに、素っ気ない黒の活字でそう印刷されていた。
意味がわからず、俺は手の中のチケット……チケットのようなもの、を何度も見直した。
ひっくり返して裏も見たが、よくある乗車券のように素っ気ない無地だった。
「『絶望』と『徒労』ですか?買い取りは可能ですけど……」
「ああいえ、その……」
なんとなくきまり悪くなり、俺は手の中の二枚のチケットを慌てて上着のポケットへねじこんだ。
その瞬間、ショーケースの隅で異彩を放つ、真っ黒なチケットに目が惹かれた。
『ここではないどこか』行き
闇を思わせる漆黒に、白の素っ気ない明朝体の活字でそう書かれていた。
「……そちらをお求めですか?」
店長らしいおばさんが、少し困ったように俺へ声をかけた。
「正直に申しまして、あまりお勧め出来ませんが。『ここではないどこか』への旅は、終わりのない旅になります。宗教家か芸術家か冒険家か……普通の幸せに背を向けるやり方でしか生きられないお客さま用の、特殊なチケットになりますので」
「は?」
言葉の意味はわかるけど、内容はよくわからない。
俺は間抜け面でおばさんを見返した。
おばさんは熱を出した幼い子を見守る母親のような目で、じっと俺の顔を見た。
「……そうですね。今のお客さまにはこのチケットが一番相応しいのかもしれません。でも『ここではないどこか』への旅を続けるのには、強い信念や衝動が必要なんです。このまま逃げるみたいに旅に出られても、『絶望』と『徒労』のチケットがお客様の手の中で増える可能性が高いとお見受けします」
よくわからないままに俺は、ひどいショックを受けた。
所詮お前は凡人で、明日も会社へ行ってこき使われるしかない人間なのだと言われた気がした。
「……かまいません」
自分でも思いがけない言葉を、気付くと俺は言っていた。
「どうせこのままここにいても、『絶望』と『徒労』が増えるんですよ俺なんか。だったら『ここではないどこか』へ行って、『絶望』と『徒労』に打ちひしがれて野垂れ死にした方がマシです」
この店の女主人であろうおばさんは一瞬、駄々をこねる幼児を見るような目をしたが、すっと表情を改めた。
「わかりました。お売りいたします。ただ、お客さまが今お持ちになっている『絶望』と『徒労』のチケットを、こちらで買い取らせていただきます。その二つの買い取り額では少し足りませんので……」
と彼女は、普段ちょっと手が出ない上等の酒……くらいの値段を言った。
俺はポケットのチケットを渡し、財布の中から札を引っ張り出して渡した。
そして黒いチケットが手渡され……。
気付くと俺は、病院のベッドに横たわっていた。
後で聞いた話によると、なんでも俺は道で倒れていたのだそうだ。
通りすがりの人が救急車を呼んでくれたおかげでこの病院へ運び込まれ、治療を受けた。
心身共にひどく疲れていて、目を覚ました後もしばらく、意味の分からないことをブツブツつぶやいていたのだそうだ。
俺の状態は会社へ伝わり、問題になっているらしい。
くびにはならなさそうだったが、これ以上あの会社に勤めたくないなと俺は思っている。
仕事は別に、今まで勤めてきた会社でなくても出来るのだ。
そんな当たり前のことが、霧が晴れるように俺に見えてきた。
治療の賜物だろう。
そろそろ退院、というある日。
ベッドに寝ころんだまま、俺は、かたわらの小卓の引き出しから財布を出した。
カード入れになっている部分を開き、ざっと確認した。
運転免許証やクレジットカードの他に、名刺大の黒いカードがある。
そっと引き出し、眺める。
『ここではないどこか』行き
漆黒の地に、白の明朝体で書かれている。
あの日の彼女の声が耳に響く。
「このチケットは、お客様ご本人が『旅に出る』と決心された時点で効力を発揮します」
感情のない、淡々とした声だ。
「逆に言えば『旅に出る』とお決めにならない限り、始まりません。……どうぞお持ち下さい。お客様の場合、お持ちになっていること自体がお守りになるかもしれませんね」
アルカイックスマイルを浮かべる彼女は、何故か恐ろしい。
「このチケットが必要なくなれば、どうぞ再び当店へお売り下さいませ。私は光と影が限りなく近付くたそがれで、長く魔法を売り続けております。たそがれに心を染めれば、きっと再びご来店いただけるでしょう。お待ちしております。当店は今までもこれからもおそらく……」
永遠に、営業しておりますので。
彼女がその言葉を言う前に、俺は、黒いチケットをカード入れへ押し込んだ。
そして頭から布団をかぶり、強くまぶたを閉ざした。