1 朝もやのレース
今日、好きな人が結婚します。
と言っても私の完全な片思いで、彼は私の気持ちなどまったく知りません。
だから職場のみんなに配られた招待状が、私の手元にもあります。少し考えましたが、出席に丸を付けました。
この日の為に用意した衣装を確認します。
真っ白なドレスシャツ。
紺色のダブルのパンツスーツ。
真紅のネクタイ。
黒い革靴。
小ぶりな黒い繻子のバッグ。
さあ、これで大丈夫。
私は紳士の気持ちで、彼の門出を祝えるでしょう。
会場へ向かいます。
開始は宵からの、職場の気の置けない仲間を中心にした二次会です。
馴染みのない場所なので、遅れないよう早めに来たのは確かですが、いささか早く来すぎたようです。
夕映えの街角で、私はちょっと立ち止まりました。
このまま真っ直ぐ会場へ行っても、スタッフの方に迷惑かもしれません。どこかでお茶でも飲んで20~30分、時間をつぶしましょう。
きびすを返し、来た道を戻ります。
今日は夕焼けがとても綺麗です。
駅の方向へ向かえばカフェなりなんなりあるだろうと、私は歩きます。
しかし、昔ながらの喫茶店は何軒かありましたが、一見の客が気楽に入れそうなたたずまいの店は見当たりません。
どうしようかと思った時、私はその店を見つけました。
古めかしい、少しゆがみの感じるガラスがはまったショーウィンドウに、ため息が出るような繊細な細工のレースの小物が並べられています。
つけ襟が数種類、手袋にハンカチーフ。
とろりとした飴色の光の中、レースの白さが際立ちます。
気付くと私は、ガラス戸を押して店に入っていました。
「いらっしゃいませ」
穏やかなアルトの声。
店主らしい白髪のマダムが正面にいました。
私は曖昧に頭を下げ、少し見てもいいですかと小さい声で言いました。
「どうぞ。気になる商品はぜひお手に取って御覧になって下さいませ」
店内にはガラスのショーケースがいくつかあり、黒いベルベットを敷いた陳列棚には白いレースの小物が並んでいました。
触れると溶けるのではないかと心配になるような、とても繊細な細工です。
「お客さま、今日はパーティですか?」
マダムの問いに私は、ええまあと諾います。
「パーティにパンツスーツも粋ですね。でもここにこの……」
言いながら、彼女はショーケースの中から白い手袋を出しました。
「レースの手袋を合わせられるとか、いかがですか?このままでも素敵ですけど、少し寂しい感じが。そのお召し物にレースの手袋やポケットチーフなど、フェミニンな小物を足すともっと華やぎますよ」
私は少し困りました。
マダムの言葉は所謂セールストークなのでしょうけど、不思議と押しつけがましさは感じませんでした。
私自身もこの装いが、カジュアルな二次会とはいえお祝いの席に出るには華やぎに欠ける、と思わなくもなかったからかもしれません。
でも私は今日、華やかである必要はないのです。
紳士の気分で彼を祝えれば、それでじゅうぶんなのですから。
逡巡する私を柔らかく見つめ、マダムはほほ笑みました。
「お客さま。私は光と影が限りなく近付くたそがれの店で、長く魔法を商ってきました。どのお客さまにどの商品が相応しいかの見立てにかけては、誰にも引けは取りませんよ」
「……は?」
私はポカンとマダムの、しわがあるからこそ美しいその笑顔を見つめました。
ところどころ、単語の意味がわかりません。
「朝もやを紡いだ糸で、アラクネの系譜に連なる娘たちが編み上げた逸品です。ぜひご利用下さいませ。朝もやが晴れた後には、綺麗な青空が見えてくるものです。きっと素晴らしいパーティになりますよ」
気味が悪いと思っても良かった筈です。
でも私は、浮き世離れたマダムの売り込み方が気に入りました。
『朝もやを紡いだ糸で、アラクネの系譜に連なる娘たちが編み上げた』手袋。
ため息が出そうなくらい儚げなレースの手袋に、ピッタリの『お話』ではありませんか。
試しに値段を聞いてみると、上等の紅薔薇が4、5本、買える程度の値段でした。
私は手袋を買い、さっそく身に着けて店を出ました。
手袋はしっとりと冷たく、でもすぐあたたまって手になじみました。
万雷の拍手の中、新郎新婦が現れます。
私はハッとしました。
朗らかに乾いた拍手の中で、私が打つ拍手だけが重く湿っているのに気付いたからです。
タキシードの彼は白いウェディングドレスの花嫁の腕を引き、笑っています。
幸せの絶頂を思わせる彼の照れた笑みに、ああ負けた、と私は思いました。
私ではきっと、彼にあんな甘い顔をさせることは出来ないでしょう。
拍手に力を込めます。
私の涙を吸い込んだような湿った音が、やがて皆のと同じ朗らかに乾いた音になった時。
手袋は、すっかり消えていました。