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○アスカビル・地下レストラン──18時31分
「これが、この店の名物ですね? シェフ」
ユメの生リポートは、順調に進んでいた。といっても、一〇分ほどの出番だから、もうじき終わる。
テーブルに並んだ料理を次々に紹介していたが、最後のところでディレクターが、待て、と手で合図を送ってきた。
どうやら、中継が途切れてしまったらしい。
「どうしたんですか?」
「大雨の情報が入ったみたいだ」
インカムで指示を受けていたディレクターが、そう伝えてきた。
「いまスタジオでは、大雨のニュースをやってる」
「え? でも、今日は日本各地で、にわか雨の心配はないんじゃ……?」
ユメは言った。ナツキがあの仕事についてから、よく天気予報をチェックするようになったから、まちがいない。
「降ってるってよ」
「どこですか?」
「ここ」
ディレクターは、他人事のように答えた。
「え?」
「台東区の一部だって」
ユメは、店内を見回した。この店に入ったときと、お客さんの数が、ほとんど変わっていなかった。ということは、新しく入店してくる人がいないのだ。
「記録的だってよ。落雷もスゴいって」
「そんなに?」
地下にいるからか、雨音や雷の音すら聞こえてこない。
そのとき、だれかの叫び声があがった。
「入ってきてる!」
なんのこと? ユメは、声のほうを見た。入り口付近の席にいたお客さんだった。三〇代のカップルだ。
なにが入ってきているのか、ユメもすぐに悟った。
水。雨水?
浸水してる……ここが!?
入り口の両開き扉は閉められているが、その隙間から水が入ってきているようだ。中継車からのケーブルも通せるほどなので、防水壁の役割は果たせそうにない。
「お、おい……逃げなくて大丈夫か!?」
どこかで、そういう言葉が聞こえた。
そうよ、逃げなきゃ!
「つながるぞ!」
走り出そうとしてたユメを、ディレクターの声が制止させた。こんな非常事態でも、スタジオとの中継を続けるつもりのようだ。
「なにを伝えろっていうのよ!?」
思わずユメは、声を荒らげた。
「雨の状況だ」
「知らないわよ! ここにいるんだから」
まわりの客たちが逃げ出していく。
扉は開け放たれ、水が滝のようになだれ込んでいた。
ユメのかたわらで立ち尽くしているこの店のシェフも、どうしていいものか戸惑っているようだ。
「つながった」
ディレクターは、なにかしゃべれ、と手でジェスチャーを送ってくる。
ユメは、とりあえずカメラを見た。
カメラマンの表情も、複雑なものになっている。
イヤホンから、スタジオの声がする。
『ちょうど、そちらでは大雨が降っているようですが、状況はどうなっていますか?』
「ええ~と、ですね……ここは地下なので、よくわからないのですが……」
と、悲鳴が入り口からあがった。
逃げていった客たちが、いっせいに戻ってきたのだ。
「み、水が店内にも流れてきてます!」
ユメがそう伝えるのと、ほぼ同時に、それまでとは比べ物にならないほどの水が浸入してきた。慌てて戻ってきたのもうなずける。
あっというまに、膝上ぐらいまでの水位になってしまった。流れも激しく、立っているのがやっとだった。
店内の扉を客たちが閉めようとしているが、水圧で押し戻されてしまう。
「テーブルに上がるんだ!」
だれかの声に、ユメも従った。
カメラマンも、ユメの正面のテーブルに登る。
しかし、水流は衰えない。
すぐに靴が浸かっていた。このままでは、数分もすれば大惨事になってしまう。
入り口から流れ込んでくる水の量を考えれば、外へ逃げることも困難だ。このままでは本当に危険だ。
「ここは、危険です! 助けをお願いしますっ!」
ユメは叫んだ。
はたして、まだこの映像はスタジオに届いているのだろうか。
イヤホンから、大丈夫ですか!? と、しきりにアナウンサーが呼びかけてくる。どうやら、音声はつながっているようだ。
「助けをお願いします!!」
○上野公園──18時45分
いったん中継を終え、なつきたち三人はキャンピングカーに戻っていく。
とてつもなく激しい雨。
雷の轟音。
いや、今日の降り方は、本来、最大の敵である落雷よりも、恐怖を感じているのではないか。
こんなにまで凄い雨を経験したのは初めてだった。
なつきは、やっとの思いで、車までたどりついた。濃い霧のなかをさまようように、前が見えない。
なんとか扉をあけて、車内に入り込んだ。
ドアを閉めた瞬間に、ピカッと光った。と同時に、ドカ──ンッと落雷が地響きをたてる。
車のなかでも、それだけの音がするということは、すぐ間近に落ちたということだ。
なつきは、レインコートを脱ぎ、とにかくタオルで身体を拭った。神崎と、井上という青年も同じようにしていた。ただ、なつきの場合はコートの前を開けていたので、なおさら濡れてしまっている。
なつきの部屋である車内の床は、びしょ濡れになってしまったが、そんなことを気にしているどころの降り方ではない。
神崎は、運転席のほうに向かった。今後の指示を受けるためだろう。
広い部屋に、今日初めて会った青年と二人きりになった。よく見れば、青年の身体が小刻みに震えているのがわかった。
「大丈夫?」
そう声をかけずにはいられなかった。
「だ、大丈夫です……すみません」
とても大丈夫なようには思えなかった。
とはいえ、この雨と雷では、おびえてしまうのも致し方ない。
「ナ、ナツキさんは……こわくないんですか!?」
「こわいわよ」
素直に、そう言葉が出た。
「と、とてもそんなふうには……見えませんでしたけど……」
「なれよ、なれ」
「もうなれたから、こわくないんですか?」
「なれても、こわいにきまってるでしょ。ただちょっと度胸がついただけ。それに……」
「それに?」
「カメラの前では、どうにかなっちゃうものなのよ、元アイドルの習性で」
青年は、笑みを浮かべた。ただし、恐怖はまだ残っているのか、引きつっていた。
「おい、移動するぞ」
神崎が戻ってきた。
「アスカビルって知ってるか? そこだ」
「たしか、上野にできたって、ヤツですか? 下町なのに、恵比寿をめざして周囲の景観をそこねてるっていう」
青年が答えた。
「あ? そうなのか? とにかく、そのビルの地下が水没してるらしい」
「それ、中継するんですか?」
「おいしいだろ?」
なつきの問いに、神崎は不謹慎にそう答えると、再び運転席に向かった。
○葛飾区・金町駅──18時47分
中古のオンボロ車で、拓也は待っていた。
南口のバスロータリーに堂々と駐車していた。やって来たバスからクラクションを鳴らされても、動こうとしない。
水元公園は北口のほうが近いのだが、狭いので南口を待ち合わせにした。それが災いしたようだ。いや、彼なら、どこでも同じことになるか……。
瑞穂は、恥ずかしさと申し訳なさで、素早く車に乗り込んだ。
「はやく出して!」
その声を聞いても、拓也は悠然としている。
「仕事で疲れてない?」
そんな気遣いよりも、大勢の人たちに迷惑かけていることを気にしてもらいたいものだ。
ようやく車は発進し、そのスペースにバスが停まった。
「じゃ、水元公園ね」
なにもなかったかのように、拓也は言った。
ここから公園までは、車を使えば五分ほどで着いてしまう。車中での会話は適当にしておけばいい。
問題は、公園のなか。
どういう話でつないでいくか。
この男と会っている時間がストレスになっていることに、薄々は勘づいていた。
だが──、そうではない。彼のことが好きなのだと、強引に思い込もうとしていた。
いまは、はっきりと断言できる。
(ダメだ、この男)