6
○台東区・上野公園──17時42分
ここにきて、雲の大きさが格段に膨張していた。積乱雲ではないはずだが、ただの雲でないことは見てあきらかだ。いや、これも積乱雲の一つなのだろうか!?
降る。まちがいなく……。
抜かされてしまったとはいえ、かつては最年少記録をもっていた自分の考えは、まちがっていない──。
井上忠信は、そう確信していた。
そのとき、携帯が鳴った。
『井上さん?』
男の声だった。
「そうですけど……ウェザーサービスの人ですか?」
さきほどの電話で、現地スタッフから連絡を入れさせる、と言われていたので、たぶんそれなのだろうと思った。
『そうだ。神崎だ』
ずいぶん、乱暴な口調だ。あまりいい気持ちはしなかった。
『そっちの状況は?』
「なんだか、すごく発達してます。けっこう荒れると思いますね」
『悪いけど、おたくの経歴は?』
「は?」
忠信は、不快げに声をあげた。この男は、自分のことをなにも知らない素人だと考えているのだ。
「大学生ですが、気象予報士の資格はもっています。一四歳のときに取得しました」
言いはしなかったが、当時は最年少記録だったんだぞ、と。
『そうか。いまそっちに向かってるから、落ち合おう。どこにいる?』
忠信は、いまいる場所を伝え、携帯を切った。なんだか、いまの男と会わなければならないことにストレスを感じた。
どうせ、教授のような不遜な人物にきまっている。
べつに義務があるわけでもないし、帰っちゃおうか……。
○気象予報室──17時47分
「どこかで聞いたような……」
斉藤純子は、心のどこかに引っかかりを感じていた。
『井上忠信』という名前。T.INOUEが、東城部長に電話で語った名に覚えがあった。いや……あるような気がする。
(ダメだ)
思い出せない。
「どうした、斉藤?」
芹沢に、異変を察知された。
「な、なんでもないです」
「またなにか隠してるんじゃないだろうな?」
「もうありません! それに、あれは隠してたんじゃなくて、芹沢さんが聞いてくれなかっただけです」
憤慨をそのまま声にのせていた。
○台東区・アスカビル──17時55分
台東区上野。駅からは、だいぶ離れている場所に建つ、三〇階の高層ビルディングだった。
駐車場は地下二階にあり、地下一階がレストラン街になっている。地上一階から五階までが、テナントの商業スペース。様々な企業が店舗を出している。六階から上が、高級賃貸マンションとなっていた。
台東区といえば、下町、というイメージがある。それを払拭するようなオシャレ感をうち出したいと意図しているようだった。
ユメはビルについたとき、正直この街には浮いてるな、と感想をもった。
「ユメちゃん、準備いい?」
声に急かされて、ユメは笑顔をカメラに向けた。久しぶりの民放生放送。このビルの地下一階にあるレストランを取材するのが、今夜の仕事だった。先週オープンしたばかりの店で、ニューヨークで評判になっているレストランの日本一号店ということだった。
今朝になって、突然入った仕事だ。本来、リポートをするはずだったグラビアアイドルが、季節外れのインフルエンザにかかってダウン。運よく、自分に話がまわってきたというわけだ。
つい一時間ほど前まで、べつのレストランで食事をすませているのだが、リポートの場合、一口ほど食べて感想を言えばいいだけなので、食欲がなくてもどうにかなるだろうと考えていた。
トルクメニスタン料理店とはちがい、これでもかと高級感に満ちあふれていた。
恵比寿とか、六本木とか、銀座とかが似合う店だ。この雰囲気は、台東区じゃないだろう。
そんな思考とは裏腹に、爽快な笑みを浮かべた。もう、こういうリポートはお手の物だった。かつてはアイドルとして、バラエティ番組を中心に活躍していたが、いまではキー局のスタジオにいるということは、夢のまた夢。
ロケ専タレントに、もはや成り下がっていた。
客はすでに何組かいたが、まだ早い時間なので、空いている席が多い。リポートをするには、ちょうどいいスキぐあいだ。
「もうすぐ、中継入るよ」
ユメは、より一層、笑顔をつくった。
○キャンピングカー・運転席──18時03分
電話で教えられたあたりに車を停めた。
雲が雷雲になっていることは、すでにあきらかだった。あと数分で降り出すかもしれない。
「着替えて待ってろ」
神崎は、助手席に座るなつきにそう告げると、車を出た。
すぐに、一人の青年が眼にとまった。
「井上さん?」
「は、はい……」
心細そうに、その青年は答えた。
「情報協力、感謝します」
東城からは、礼をのべておくようにと固く言われていたので、神崎はそれに従った。
「気象予報士めざしてる?」
「え、あ、いや……というより、大学院に残って、研究者になるのが希望ですが……」
自信なさげな様子だった。
「机にかじりついたって、天気のことなんてわかんねえよ。現場に出ろ」
「は、はあ……」
「いま、何年?」
「四年ですが……」
「なんだ、もうすぐ卒業じゃねえか。就職することも考えとけよ。そのときは、うちの会社に推薦しておいてやるから。まあ、おれにそんな権限はないけどな」
神崎は自分でも、それが冗談なのかどうかわからなかった。
「あっ」
井上という青年が、天を見上げて声を放った。
ポツリ、ポツリ……。
○気象予報室──18時07分
そこに留まっていた東城のもとに、神崎から報告の電話が届いた。
『いま、彼と合流した』
「そうか。で、どうだ? 空模様は」
『降りだしてきたようだ』
背後でも、モニターと格闘している芹沢が、「レーダーでも捉えた」と、言っているのが聞こえた。
「では、予報は変更ということだな?」
『そうなる』
「どれぐらいになりそうだ?」
『ハッキリとは断言できないが……ゲリラ豪雨になるかもしれん』
と──、
ゴオオオオオオオ!
という轟きが、携帯を通してまで響いてきた。
「そっちの準備は、大丈夫か?」
『命令があれば、いつでも中継を入れる』
「たのむ」
通話は、そこで切られた。
「予報が、はずれた……か」
芹沢の声は、まるで自分自身を責めたてているようだった。
「前例のない雲です。仕方ありません」
東城は慰めの言葉を口にしたが、彼ほどのキャリアがある者には、それがなんの慰めにもならないことを、よく理解していた。
しかし──。
これから繰り広げられる波瀾が、東城の想像をも遙かに越えることになろうとは、知るよしもなかった。
○地下鉄・千代田線車内──18時09分
いま乗り込んだところだった。
ホームで拓也には連絡を入れておいたから、金町駅についたときには迎えに来てくれているはずだ。
週末の夜なんだから、どんなにバカ丸出しの男が相手でも、楽しまなくては生きている意味がない。
社員の人たちは、明日の土曜にも仕事があるようだ。
完全週休二日というのも、派遣ならではの特権だった。
瑞穂は無理やりにでも、これからのデートを楽しもうと、自らに暗示をかけていた。