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○JWS本社内・廊下──17時08分
東城は、六階にある気象予報室に向かっていた。
予報室のフロアには、扉はついていない。出入口からは、ひっきりなしに人の移動がある。いまも東城の前を、何人ものスタッフが走りまわっていた。
パーテーションで区切られた関東区域のエリアを眼でさぐった。この時間の責任者である芹沢が、いくつもの画面と格闘しているのが見えた。
ほかにもせくせくと部下たちが情報を集めているようだが、パソコンを睨むように見ている女性スタッフが、なぜだか気になった。
たしか、斉藤純子といったはずだ。
「なにかあったか?」
東城は、彼女に話しかけた。
「ぶ、部長!?」
インターネット部門と予報室は切っても切れない関係ではあるが、直接、ネット部門の長である人間が、この部屋に来ることは、まずない。
東城自身も思いをめぐらせたが、ここへ実際に来た記憶はなかった。
「めずらしい。大雨でも降るんじゃないっすか」
芹沢の皮肉が飛んできた。こうして、じかに会うことは稀だが、電話やメールではよくコミュニケーションをとっている。ある意味、信頼できる仲だ。
画面に集中しているはずだが、東城の姿もちゃんと見えているらしい。
「そうかもしれないですね」
「でも、いまのところ、その兆候は確認できませんよ。東城さんの企画した《ゲリラガール》の出番も、おあずけっすよ」
東城と芹沢の会話は、聞いている者に少し違和感をあたえる。
芹沢のほうが年上だが、東城のほうが役職は上、という関係のために、おたがいが敬語になってしまう。ただし芹沢の使う敬語は、かなり砕けているが。
「ないんですか、兆候は?」
その問いに、芹沢が鋭い視線を向けてきた。
「なにかあったんすか?」
「北東に雲がありました」
「たぶんこれだ。レーダーにも映ってますが、まだなんともいえませんね」
「発達する確率は?」
「おれは、数学者じゃないっすよ」
「でも、なにかを感じてるから、そんなに必死な眼をしてるんじゃないですか?」
フン、と鼻を鳴らして、芹沢は視線を画面に戻した。どのモニターに合わせたのかはわからない。
「あ、あの……」
小さい囁き声が、東城の耳に届いた。
「この雲……ですか?」
とても、自信なさげだった。
「なんだ、斉藤、さっきから。言いたいことがあるなら、さっさと言えよ」
芹沢が、声だけを飛ばす。
「ですから、この雲……」
東城は、斉藤の見ているパソコンに映し出された画像を視界に入れた。
「これはいつ?」
「はい?」
彼女には質問の意味が、最初伝わらなかったようだ。
「だから、いつ!?」
「は、はい……四時ごろです、送信されてきたのは」
「芹沢さん、これ」
東城は、芹沢に呼びかけた。
芹沢が重い腰を上げた。
「なんだこれ」
芹沢の顔つきが変わった。
「なんで、もっとはやく報告しなかった」
「ですから……忙しそうだったので……」
「バカか、おまえ!」
「だから、なんども言おうとしたんです! でも、芹沢さんが忙しいって……!」
斉藤が逆ギレしそうになったので、東城が二人に水をさした。
「それはいい。送信者は?」
「ええ~と、T.INOUEさんですね」
「ほかには、なにか?」
「あっ」
その声で、それ以外にもあったことがわかる。
「もう一枚、送信してくれてます」
「大きくなってるな」
芹沢が言った。一枚目から三〇分後に撮影されたものらしい。
「送信者に連絡を取れないか?」
東城の意見がよほど奇妙に聞こえたのか、斉藤の表情があっけにとられた。
「え、か、可能ですけど……」
○台東区・上野公園──17時18分
不忍池沿いの歩道で天を見上げていた井上忠信は、えも言われぬ不安にかられていた。
雲が螺旋状に大きくなっていくさまが、よくわかる。それは、一分間では、ほんのわずかなものでしかない。だが、もう観察をはじめて一時間以上になるだろうか。それぐらい長く経過を見つづけていると、確実に発達していることを理解できる。
通常の積乱雲ともちがう。
このまま螺旋が地上に降りてきて、竜巻になってしまうのではないか……そんなことを感じさせる不気味な雲だ。しかし、それは常識ではありえない。もし、これが竜巻だったら、アメリカで発生するようなトルネード級になってしまう。
そのとき、携帯が音をたてた。
「もしもし」
『ジャパンウェザーサービスの斉藤といいます。T.INOUEさんですよね、フレンズの?』
「そうですけど……」
想定外のところからの電話だった。JWSから直接連絡があったのは、もちろん初めてだ。というより、そういうことが起こりえるものだと考えたことすらなかった。
なんの用件だろうか?
「あの……なんでしょうか?」
『いま、どこにいらっしゃいますか? さきほど送信していただいた画像なんですが、あれの現在の状態を知りたいのですが』
「ここから見えます」
忠信は答えた。
『それではですね、あっ──』
電話のむこうで、なにかがあったようだ。
『それを観察しつづけてもらいたい』
女性だった声が、男に変わっていた。
「は、はい?」
『お願いします。こっちのスタッフも派遣しますが、それまで、その雲を監視してください!』
男性の声から強くお願いされてしまった。
「わ、わかりました……とりあえず、画像を……いえ、動画を送ります」
『ありがとう! 謝礼はします。名前は、井上さんでいいですか?』
「そ、そうです。井上忠信です」
○都内駐車場・キャンピングカー車内──17時27分
心地の良い仮眠を警報音にぶち壊された。緊急出動の際に鳴らされるアラームだった。
「なんだよ、今日は、なんにもないはずだろ!?」
苛立たしげに、神崎は口に出した。
『おまえに見てもらいたい雲がある』
パソコン画面の前に座った神崎に、そう語りかけた人物がいた。てっきり斉藤純子だと思っていたから、一瞬、唖然とした。
「なんの冗談だ? そこの部屋に寄りつくなんて、最前線に戻りたくなったか?」
『そんな嫌味はいい。これを見ろ』
東城の顔から、画面が切り替わった。動画のようだ。
雲。まだ大きくはないが、螺旋を描いて、天空に伸びている。どこか不気味だ。
『トルネードの専門家なら、なにかわかるだろ?』
「専門家、ねぇ……」
自虐めいて、神崎はつぶやいた。
「大丈夫だ。竜巻の雲じゃねえ」
『本当に、なにもない雲か? 気象庁のデータベースでも、こんなものは見たことがないぞ』
「アメリカでもないさ」
『どう思う?』
「わかんねえよ、見たことねえんだから」
『とりあえず、台東区に向かってくれ。いまどこだ?』
「四ツ谷だよ」
『彼女もいっしょか?』
「友達とメシ食ってる」
『じゃあ、彼女には悪いが、いっしょに向かってくれ』
「なんにも起こんなかったら、どうすんだよ。せっかくの数少ない友人との食事なんだぜ」
『埋め合わせはする、と伝えてくれ』
「まったく、人使いが荒いな」
通信を終えると、神崎はキャンピングカーを出た。夕焼け、というよりも、まぶしい西日が煌々と強い。正直、これから崩れるとも思えなかった。
車は、大型でも停められる駐車場に入れてある。駐車場から、新藤なつきのいるレストランまでは、歩いて一〇分ほどだ。
車で行くか、徒歩で迎えに行くか。
レストランのある通りは、キャンピングカーを駐車するには交通量が多すぎる。しかし、東城の危惧も気にかかった。あの男も、百戦錬磨の気象のプロだ。なんの根拠もなく不安を口にはしない。
神崎は車の運転席についた。前方は、東の空になるだろうか。台東区は、このさきだ。
確かに、気になる雲だった。遠目でもわかる。
駐車場を出ると、彼女のいるレストランまで三分ほどで到着した。外堀通り。やはり、停車するスペースがない。
「どうすっかな。歩いてくるべきだったか」
後悔しかけたときに、店内からなつきが、ちょうど出てきたところだった。信号も、タイミングよく赤だ。むこうのほうから、助手席に乗り込んできた。
「なんだ、もういいのか?」
「友達、これから仕事なんですって。けっこうまえに帰っちゃいました。一人で食事もなんだから、持ち帰りにしてもらいましたよ」
そう言うと、はい、と言って、なつきは手にしていた包みを差し出してきた。
「神崎さんの分です。わたしって、やさしいから」
なんだか腹が立ったので、礼は言わなかった。
「中身は?」
「トルクメニスタン料理」
「どこだか知ってんのか?」
「知りませんよ。中央アジアの独裁国家ってことしか。それより、なんで迎えにきてくれたんですか? わたしが出てくること、わかっちゃったとか? 好きすぎて」
「は!?」
声が、車内中に響いた。
「これでも元アイドルなんですから、ちょっとは気を遣って、大切にあつかってくださいよ」
「おまえの現役時代を知らない」
アメリカにいたからだ。
「そういえば、日本にいなかったんですよね? むこうで、なにやってたんですか?」
「どうでもいいことだ」
神崎は、吐き捨てるように言った。
アクセルを踏み込む。
「どこ行くんですか?」
「仕事が入った」
「え? だって、今日は当番なしでしょ?」
「それが、そうでもないらしい」
なつきの心底イヤそうな顔が、神崎に向けられた。
「そんな顔するな。うれしそうな顔をしろ」
気持ちもわからなくはないが──と、心のなかだけでつけたした。
「それに、まだ決まったわけじゃない。とりあえずは、現場に向かう」