13
○水元公園・水元大橋付近──20時31分
こんなにまで天気の急変を体感したことは、生まれて初めてのことだった。
つい数分前までは晴れていたはずなのに、この変わりようは、なに!?
避難する時間もなかった。
瑞穂は、近くの公衆トイレに向かって走り出した。拓也もあとからついてくる。
激しい雨。恐ろしい落雷。
ドカンッ! 少し離れただけの木に、電流が走ったのがわかった。頭のすみで、雷が落ちるということは、こういう現象なんだ、と冷静に考えている自分がいた。
そのすぐあとに、とてつもない恐怖がわきたってきた。ここまで近くに落雷があった経験は、もちろんない。このまま死んでしまうのではないか……。
「こ、こわい……」
素直に、言葉が吐き出された。足もすくんでしまった。
拓也は、もっと情けなくて、大きな木の幹に抱きついてしまった。そこから動こうとしない。
「そこは、危険よ!」
木の真下はダメだ。テレビでやっていたのを見たことがある。
側撃電というので感電してしまうそうだ。
たしか、幹から四メートル以上離れて、しゃがみこむように座るのがいいと専門家が言っていた。とにかく、心臓を守るようにしゃがむ。心臓に電流を通さないようにすれば、助かる確率もあると。
それをする? わたしに、そんな勇気はある!?
(やっぱり、あのトイレまで走ったほうが……)
拓也を木の幹からひっぺがして、瑞穂は再び駆けだした。
その直後、いままでいた木に電流が走った。
拓也の悲鳴を聞きながら、必死にトイレをめざした。
やっとたどりついたとき、かなり息があがっていた。公衆トイレの女子のほうに入ったが、拓也もこちらについてきた。しかし、それを咎めるような状況ではない。
「はあ、はあ……」
これから、どうすればいい!?
このまま、ここにとどまるか。それとも、もっと安全な場所に逃げ込むか……。
こういう通り雨は、時間にして一〇分から二〇分程度でどこかへ行ってしまうものだ。ここにとどまるのが正解だと思う。
そう考えたところで、すぐとなりの樹木に雷が落ちた。
鼓膜が破れるのではないかと思うほどの振動!
こんなところで、じっとしているのはイヤ……。
それに、トイレの入り口に扉はない。ここに落ちたら、感電してしまうのではないか!?
(個室に入ったら、安全かもしれない)
しかし、個室も密閉されているわけではない。上はあいてるし、電流がどういうふうに流れるかわからない。
瑞穂は、自分でも考えすぎだ、と感じていた。入り口が無いにしても、こういう建物のなかは安全なはず。
(でも、雷の電圧は……)
そうだ、今日、社員の人が言っていたことが、ここにきて頭のなかで、ずっと繰り返されている。
『雷の電圧は、とんでもないんだって』
『全身を絶縁体で覆っても、感電しちゃう』
本当に、ここは安全なの!?
雷のとき、一番安全な場所は──。
(車のなか……)
けっこうな長さを歩いてきたから、駐車場までは相当な距離がある。
そこまで走るのは、現実的じゃない。
(やっぱり、ここにいたほうが……)
そう考えがまとまったところで、拓也が声を震わせて言った。
「に、逃げようよ……」
「ここのほうが、安全よ!」
怒鳴りつけるように、瑞穂は応じた。
この男に対しての苛立ちが、頂点に達していた。
ドカンッ! また落雷。すぐ近くなのはわかったが、それがどこなのかを確認する勇気は、もはやなかった。
はやく、雷雲がどこかに行ってくれるのを祈るしかなかった。
ふと、周囲の景色が眼に飛び込んできた。雨で霞んでいるが、確かに見えた。
ハナショウブの植えてあるエリアの前に、雨除けの屋根がついているベンチがある。そこに、二人の女子学生の姿があった。遠目だからさだかではないが、高校生のように感じた。学校帰りには時間が遅いので、塾かアルバイトのあとに友達同士で話し込んでいたのだろう。
「あ、あそこは……」
ああいう屋根だけのついたベンチは、危ないはずだ。そういう事故が、むかしあった。
「あなたたち──ッ」
瑞穂は、大声で叫んだ。だが、まったく届いていないようだ。ただでさえ距離があるし、絶え間ない落雷と雨音で、かき消されてしまう。
このままでは、彼女たちの命が……。
自分でも不思議なぐらい、すんなりと足が動いていた。
ベンチに向かって──。
「ねえ、あなたたち! そこは危険よっ!」
近づいて彼女たちに呼びかけるが、パニックを起こしているようで、こちらの声は聞こえていないようだ。
「キャ──ッ!」
「イヤッ! 助けてっ!」
それぐらいの落雷だ。空は、休む間もなく光りつづけている。
稲妻が、くっきり見える。
轟音が止まらない。腹まで揺るがす地響き。
雨粒は、天から降る槍のよう。
ピカッと光った刹那、常夜灯に落ちた。
「瑞穂! こえーよ──っ!」
どういうわけか、拓也までついてきてしまった。勇気があるわけではなく、あきらかにこの男もパニックを起こしている。トイレにいたほうが安全だという冷静な判断もできていない。
ただ、わたしが飛び出してきたから、置いていかれると思って……。
「もうダメだよ~ッ!」
女子高生たちがいるベンチまでたどりつくと、拓也はしゃがみこんでしまった。ここまで情けないと、むしろ笑いを誘った。
「あなたたち、ここは危険なの! あっちのトイレのほうが安全よ! あそこまで行きましょう」
いままでいたトイレを指さして、瑞穂は訴えかけた。しかし彼女たちは、ただ怖がっているばかり。
これが普通の雷雨だったら、雷程度で大袈裟な、と自分でも感想をもつのかもしれない。が、今日のこれは尋常ではない。バカ男の怖がりようは理解できないが、彼女たちの恐怖はよくわかる。
「拓也、車の鍵!」
「え!?」
拓也は、なにを言われたか、わかっていないようだった。
「いいから、鍵!」
瑞穂は、拓也から車のキーをひったくった。
このベンチからは、公衆トイレよりも、公園の外──周囲を走る道路に出たほうが近い。ならば、駐車場まで行って、拓也の車で、ここから近い出口まで来たほうが、彼女たちを安全に避難させることができる。
「待ってて!」
そう言い残すと、瑞穂はオンボロ車が置いてある第四駐車場へ向かった。
いや、そうしようと踏み出した直後に、予感のようなものがした。ちゃんと見えていたのか、それともそんな気がしただけなのか。
公園の南東端から水元大橋のあたりまでは一方通行になっていて、北へ向かうことしかできない。だから、このぐらいの時間になると、交通量はとても少なくなる。
しかし、遠くのほうから車のヘッドライトの灯が見えたような……。
ここから第四駐車場まで戻るよりも、その車に助けを求めたほうがいいのでは……!?
稲光を錯覚したのかもしれない。
もし車だったとしても、協力してくれない可能性のほうが高い。
だけど……なぜだか、瑞穂はそれにかけていた。