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○レストラン内・天井裏──19時19分
ここも、かなりヤバイ状況になってきた……。
みんな中腰で天井裏のさらなる天井に頭をつけて、なんとか顔を水の上に出している。
このままでは、あと一〇分ももたない。
ライトがわりにしていただれかの携帯で、すでに助けを求めているが、救助隊が来そうな気配はまるでなかった。
「死ぬ……死んじゃう」
ユメは、無意識のうちにつぶやいていた。
「この状況は、666だ……」
○キャンピングカー前──19時20分
「ム、ムリですよ!」
井上忠信は、大きな身振りで断っていた。いま神崎から、ナツキのかわりにリポートをしろ、と言われたのだ。
「いいからやれ」
そんな命令をうける義務はないのだが、神崎は一方的に押しつけてくる。
「撮ってる人間が、リポートするわけにはいかないだろ」
「そんなこと言われたって……」
と、そのとき──携帯電話が鳴り出した。
「出ますよ」
一応、神崎にことわりを入れてから出た。内心、無茶な注文から逃げられた、と安堵した。
「もしもし?」
『井上さん、ですか?』
「そうです」
どこかで聞いたことがある声だ。すぐに、だれだかわかった。さきほどかけてきたJWSの女性職員だ。
『あなた、あれですよね? わたしの記録を破った中学生ですよね!?』
「は、はい?」
なにを言っているのか、まったく意味不明だった。
「……なんのことでしょう?」
『だから、気象予報士の試験』
「え?」
『わたし、あなたに記録を破られた高校生よ』
そう言われて、どうにか理解することができた。そういえば、自分が最年少記録で合格したときに破ったのは、女子高生の記録だった。
『やっぱり、やるわねぇ。すごい、才能あるよ。神崎さんに見込まれるなんて』
「い、いやぁ……」
反応に困った。
『ねえ、うちに来るんでしょ? 待ってるから。でも嬉しいなぁ。わたしの記録を破った子が、同じ会社に来るなんて。なんか、運命感じちゃう』
電話の女性は、一人で盛り上がっている。
『当時はショックだったけど、あなたが立派な気象予報士になってくれるんなら、むしろ誇らしく思えるわ』
なんだか、意外なことを言われたような気がした。
自分が破った記録は、もうすでに破られている。そのことを思い返すたびに、なにか空虚感のようなものが心に漂っていた。
自分は、もう価値の無い人間なのではないか、と。
自分のことを破った人間のことは考えても、自分が破った人間のことを考えたことはなかった。
『がんばってね』
そう励まされて、電話は切られた。
「どうした?」
しばらく無言でいたから、神崎に声をかけられた。
「あ、いえ……やります」
「そうか、頼むぞ」
どうして、そう口にしてしまったのか……忠信は自分でもよくわからなかった。
『誇らしく思えるわ』
ただ……自分が破った人にだけは、失望させたくなかった。
○アスカビル・入り口──19時21分
なつきは、ようやくここまでたどりついた。水量は腰のあたりまできている。歩くのも一苦労だった。すぐ外では、中継車と思われるワンボックスカーも、タイヤの上まで水没していた。
地上でこの量なのだから、地下は一体どうなっているのだろう。考えるのも恐ろしかった。
出てくる寸前まで見ていたニュースでは、ユメたちロケチームが助けを求める映像が繰り返し流れていた。ユメが救助を要請したところで、店内に濁流がなだれ込んできた。そこで、中継が途切れたのだ。
ビルに立ち入ってすぐに、地下へと続くエスカレーターを確認できた。両脇のベルトのところが、かろうじて水面から出ていた。
潜水をするしかない。
はじめて、ゲリラガールの衣装が水着だったことをよかったと思えた。
インターハイの出場経験を、まだ身体が覚えているだろうか。
そのとき、ザー、という雑音が右耳に残っていることに気がついた。ビルのなかに入ったために、それまでの雨音が小さくなったことで、ようやくわかった。
ワイヤレスイヤホンをつけたままだった。
受信範囲は二〇メートルほどなので、キャンピングカーから離れてしまったいまでは、もう必要のないものだ。このまま水没させることもないだろう。なつきは、イヤホンをはずそうと指をのばした。
ノイズの向こうから、だれかの声がした。
『──なつ──さん』
「……稲森さん?」
いまのいままで会話をしていた声だから、まちがうことはない。どうにか電波を受信しているようだ。しかしマイクのない現状では、こちらの声を届けることはできない。
『こっち──CM中──聞いて、あなたに泳ぎのことを──言うことはないだろ──ど、あなた潜水も得意──でも、距離──時間を──』
稲森さやかの言いたいことは、途切れ途切れでも、よくわかった。
かつてのライバル。インターハイで負けた相手は、彼女だった。それがいまでは、キャスターとお天気リポーターという関係図で、再びあいまみえている。
稲森さやかのほうは、当時のことを隠したがっているようだ。なつきが、どうしてなのかをたずねると、
「わたしは、知性派で売っていきたいの。インターハイ優勝なんて、運動バカみたいじゃない」
と、軽くあしらわれた。プロフィールでも、高校のときは箏曲部に所属していたことになっているらしい。
それを聞いたときは、かなりムッとしたものだ。彼女にとっては消したい過去でも、自分にとっては、悔しくも良い青春の思い出なのだ。
だがそんな彼女も、むかしのスイマーとしての情熱を、まだ忘れていなかったようだ。
『潜水が得意だったあなたでも、距離と時間を計算しないと、生きて帰れない──』
そう言いたかったはずだ。
ザー、ザー。もうイヤホンからは、雑音しか響かない。
なつきはイヤホンをはずして、水没を免れているエスカレーターのベルトの上に置いた。
潜水も得意──。
以前、バラエティ番組で、潜水にチャレンジするという企画に出場したことがある。当時の女子日本記録である117メートルという記録を叩き出した。
正式な競技名は、ダイナミック・アプネア・ウィズアウト・フィン。
フィンをつけずに、潜水でどこまで遠くに泳げるかを競うものだ。
現在では、大幅に記録がぬりかえられてしまっているようだが、パレット時代、なつきは日本で一位の記録保持者だった。
決意を胸に、なつきは潜りはじめた。エスカレーターを手でさぐりながら、下へ進んでいく。
水中メガネがなく、ライトもないから、まったく視界はきかない。
神崎から受け取った防水携帯のことを思い出した。
防水とはいっても、水のなかで使うようにはできていないと思ったが、なつきは携帯を操作した。ちゃんと液晶が光を放った。メーカーの技術力に、心から感謝した。
素で潜れる時間は、二分から二分半ぐらいしかないはずだ。うまくいっても、三分。
なつきは、急いだ。
このビルには来たことがない。ユメのいたレストランの名前も知らない。三分以内に探し出すことは難しい。
と、そのとき──。
前方から、黒い影がぶつかってきた。
人だ。
なつきは、慌てて引き返した。
もとの場所に浮かんだ。
バシャ! という音を響かせて、何者かも水上へ顔を出した。男性のようだった。
「あなたは!?」
なつきは、瞬間的に問いかけていた。
「あ、ナ、ナツキちゃん!?」
それは、なつきも知っている人物だった。
タレント時代に会ったことがある。
「たしか……ADの」
「あ、いまはディレクターです」
その人物は言った。だがいまは、そんな肩書のことなど、どうでもいい。
「どうしたんですか!?」
「水流が弱まってきたから、ここまで泳いできたんだ……」
雨はいまだに激しいが、水はすでに地下を満たしてしまったので、流れ込む水量も弱まったということだろうか……。
「ほかの人は!?」
「とりあえず、泳げるかどうか、ぼくが試してみることになったんです……」
ディレクターは、疲労困憊といった様子だった。
「もどらないと……」
とても、そんな体力が残っているようには思えなかった。服を着たまま泳いだのも、体力を奪った要因だ。
「あなたは、休んでてください。わたしがいきます」
「ム、ムリだ……男のぼくでも、やっとだったんだ……」
「わたしなら大丈夫です」
「そ、そうか……泳ぎは得意だったんだよね……」
「店の位置は?」
「地下に降りて、すぐに左だ。客席の奥の天井があいている……みんなは、そこにいる」
なつきはうなずくと、再び潜水にチャレンジした。
携帯の灯を頼りに、地下へ潜る。
(すぐ左……)
あった。扉は、あきっぱなしになっていた。店内に入る。
ここまでで、一分ほどかかった。残りの息を考慮したら、ここで選択を迫られることになる。戻っておいたほうが安全なのはまちがいない。しかし帰り道は、知っているぶん、短い時間でたどりつける。
まだ余力は、充分あった。とはいえ、行くなら、行ききるしかない。
稲森さやかの言葉が、頭のなかで繰り返されていた。
(距離と時間を計算するんだ)
行くべきか、戻るべきか……。
決めた。
勇気をもって、さきへ──。
これも、ゲリラガールでつけた度胸のせいだろうか?
天井を注意深くさぐっていく。
奥。四角く空いている一画が存在した。いや、この暗闇では、錯覚かもしれない。
泳ぐスピードをあげた。苦しくなってきた。
もつ!?
もたせなきゃ!
(でも、あのなかに上がっても、息ができるとはかぎらない……)
不吉な考えが脳裏をよぎった。
(考えるな、よけいなことは!)
四角い穴は、確かに存在していた。ただし狭い。しかし、なつきは人魚のようにすり抜けて、上がれるところまで上昇した。
「ぷはっ!」
限界だった息が、いっせいに吐き出された。
眼の前には、すぐ壁がある。天井裏の天井ということか。
「ナ、ナツキ!」
ユメの声が、耳に届いた。
水面から天井までは、顔一個分ぐらいしかない。
「だ、大丈夫だった!?」
ユメの顔を携帯で照らした。
泣いていた。
「ナツキィ……もうダメかと思った……」
「何人いるの!?」
「いまは、一三人……」
けっして広くはない空間に、それだけの人数がひしめき合っている。携帯の灯だけでは全員を確認することはできなかった。
「泳ぎが得意な人は?」
客とスタッフ、シェフのなかで、得意だと答えた者は、二人だけだった。
「ある程度、泳げれば大丈夫よ。一分だけ息を止めて泳げればいいの」
なつきは説得した。一分というのは少し厳しいが、人間は一分半ぐらいなら、普通の人でも充分、息を止めていられる。こういうアドレナリンが出ている場面では、なおさらのことだ。
距離にしたら三〇メートルほどしかない。なつきが本気を出したら、二〇秒ほどで泳げてしまう。もちろん視界も悪いし、障害物も多いから、プールで泳ぐのとはちがう。
だが、ルートはもう頭に入っている。
一般人でも一分、遅くても一分二〇秒ほどで行けるはずだ。
すると、わたしも、ぼくも、と数人が名乗りをあげた。
合計で、九人。ほとんどが男性だった。女性も一人いたが、ユメをはじめ、ほかの女性たちは、ムリだと主張した。
ユメが、あまり泳ぎが得意でないのは知っていた。立ち泳ぎや、顔を水面に出して平泳ぎをするのなら、それなりにできるのだが、水のなかで息を止めているのが苦手なのだ。
「わ、わたしは……行けないよ……」
「わかった。必ず助けに来るから、待ってて……!」
とにかく、泳げる九人を外に連れ出すと決めた。
携帯が鳴った。
「もしもし、神崎さん?」
『あ、いえ……ボクは井上です。どうですか? 大丈夫ですか?』
そういえば、神崎の携帯は、自分がいま使っていたのだった。
「こっちは平気。いまみんなを泳いで連れ出すから」
『あの……この電話、番組のほうにそのまま流れてます』
「そんなこと、どうでもいいわよ」
じゃあ、頑張ってください──と言って、むこうのほうから切った。
「みなさん、脱げる服は脱いでください。洋服を着たままだと、泳ぐのが大変です」
行くといっていた女性が、拒否の姿勢を示した。だが、彼だと思われる男性に説得されて服を脱ぎだした。
狭いし、ほぼ身体が水に浸かっている場所なので、服を脱ぐだけでも、重労働のようだった。
どうにか、みんなが下着姿になった。
「三人ずつに別れてください」
さすがに九人だと多すぎるので、三グループに分割することにした。
男女のカップルと、ロケの音声さんが最初の三人になった。
「じゃあ、行きますよ。わたしのあとについてきてください!」