契約、試用期間、大神田家
「いてぇえ」
「ごめん」
バイクを置いてから屋敷に入る間、椎哉は耳を押さえながら文句を垂れていた。
一度目に注意をしていたにも関わらずスピーカーの音量を上げてからの絶叫は確実に椎哉の鼓膜にダメージを与え、カンナも平謝りするしかない。でも、注意をされていても大声を出してしまうほど屋敷というよりお城という建物は大きかったのだから仕方がなかった。
「屋敷なんて言うから、日本的な建物が端っこの方にあるのかと思ったのに……」
高揚しながら建物を見上げているカンナを尻目に、見飽きているゆえ椎哉はため息交じりに扉へと近づく。
「早く来い」と言いつつ扉に手を掛けると、「え、ちょっとまって」小走りで近づいてきたカンナを正面に立つのを待ってから、その扉を椎哉が開閉させた。
建物に入室してからのカンナは城を見上げていた時よりもその動きを少なくして、目をぱちくり信じきれない様子でいた。
「ここ、ダンスホールか何か?」
「いや、ここ日本だし、玄関だし」
「玄関なんて表現が似合うわけないじゃない!」
カンナが叫んでしまうほど広い。円形上に平がる空間の両サイドに緩やかに伸びる階段が備わり、奥はさらに続いていた。その間に何本かの廊下があり、そこからいくつかの部屋に結びつくような作り、一階だけでもそれだけの広さを誇っているのに上もその広さの分だけ部屋と空間を有している。
「なんか私の今までの一般的って概念を全て蹴散らされたような気分」
「ここ基準じゃそうなるかもな」
精根を吸い取られた挙句に平気そうに言う椎哉の言葉にカンナはため息しか漏れない。そのまま椎哉が一本の廊下へと歩き進み、カンナも付いていこうと旅行カバンを引っ張る。するとガラガラ音を立てているのに、なんとなく“汚い”なんて言葉が頭に浮かんだ所為で、旅のお供を一度眺めてから居た堪れない気持ちにさせられ、引きずりながら歩くには気が引けた。
大して中身の入っていないカバンの取っ手を縮めてカンナは旅行カバンを抱きしめるように持ち上げ小走りで離れた距離を縮める。
「何してんだ?」
金持ちにはこんな気持ち分かるわけない、とカンナは思いつつ「……別に」とそれだけ答える。
カンナの行動でその意味を椎哉は察したようで、軽く笑いかけた。
「気にするようなことじゃないと思うけど」
「いいのっ」
強くカバンを抱きしめるカンナの姿に「そっ」と返事を返した椎哉は、手を伸ばす。
「なに?」
「持ってやるよ」
「い、いい! いいからっ」
さすがに言葉遣いは注意されるまでこのままでいようとカンナは決めていたけれど、さすがにこれから使用人として働く立場の人間がそこまで気を遣われては困ると全力で断る。
ところが、
「いいから貸せって、大事なもんだってここでは盗まれたりしないっての」
やっぱり考え方から違うんだと思わさせられる勘違いでカンナの荷物は椎哉の手に渡ってしまった。
「違うのに……」とカンナが小さくなった声を零しながら、奪われてしまっては取り返すまでできるわけもなく預けるしかない。そのまま先頭を歩く椎哉の後ろ姿を見ながら「心は広い人なのかな」と聴こえないように呟いていると通り過ぎてきたいくつもの部屋の端っこにたどり着く。
そこで椎哉は立ち止まった。
「ちょっと待ってくれ、俺の部屋に必要なもの取ってから部屋に案内するから」
「あ、そっか、うん」
住み込みということは自分の部屋も用意されるんだ、と改めて住み込んで働くことをカンナは思い出した。
椎哉が部屋に入ると扉を開けたまま何かを探し始めている。開いたままなので別に覗いてもいいのかと恐る恐る中をカンナが覗いてみると不思議な光景が広がる。
一言でいうなら『和』。
その部屋は完全なる和室だった。小さな玄関口のような靴を脱ぐ場所があると思えばその先は畳が敷き詰められ、布団もベッドがあるわけでもない畳の上に畳んで置かれている。
外見が城と表現できる建物にあるとは思えない和空間にカンナは驚くよりも唖然とする。その場の雰囲気というものがこの部屋一つで違和感がより強くなってしまった。
椎哉はちょくちょく日本的言葉を使っている。だから、日本マニアの影響か何かなのかとカンナは思いつつも椎哉は見た目通りの紛れもない日本人。日本的には間違ってはいないけど、外来のものが往来する日本でこれは珍しかった。
「もうわけわかんない」
他の部屋もこんな風になっているとすれば外観はなんだったのか、つくづくお金持ちのすることは分からない。
カンナの呆気にとられた様子に椎哉が自分の部屋を眺めてから、
「ん、ああ、この部屋は俺が改造しただけだから他はこの屋敷通りの部屋だぞ」
事情を話しながら何やら紙切れを持ち出し戻ってきた。
「そうなの」とカンナが疲れた様子で返事を返して決定的に変なことに今になって気が付いた。
この部屋は一階の端にある部屋だ。言ってしまえば特に目立った利点もあるような位置ではないし、何よりこの城の割に部屋が小さい。ではなぜか……、考えるだけ無駄だった。結局は何を考えているのか分からない立場にいる人間、それだけでもうすべては解決してしまう。
「んじゃ、カンナの部屋に案内するか。といっても俺の部屋の隣だけどな」
もうカンナは何も言わずにただついていく。全ては慣れが解決してくれることを信じて、
「ここだな」
椎哉が言った通り部屋は隣だった。
先導する椎哉が入った後で入室をする。
「荷物ここに置いとくぞ」
「ええ、ありが…………と?」
驚き疲れた後の反応は絶句。
さっきの椎哉の部屋と違って洋テイストの部屋は圧倒的に美しかった。中央に一人で寝るには大きめのベッドが備え付けられ照明器具やら置かれている机やらどれをとっても高級感溢れる。なにより、さっきの椎哉と同じくらいの広さだった。
「ここ?」
「ああ、嫌か?」
ぶんぶんと頭を振りながら即刻否定する。嫌どころかつい先日まで住んでいた自分の部屋よりも広い部屋を前に感激すらしている。
「とりあえず、契約書読んでサインしてくれ印鑑はいらんからな。俺は着替えてくる」
棒立ちしている間に冗談交じりで離れていく椎哉にお礼を言うことすら忘れ、カンナは一人になった。
静まり返る部屋の片隅の机に契約書が置かれ椅子に腰かける。慣れない空間でも一人隙を見せることができる状況になってようやくカンナは全身から力を抜くことができた。
一息ついてから、契約書に目を通す前にもう一度部屋を眺めてみる。一日でことごとく世界観が変わっていく様にただただ戸惑いを抱くしかない。
これからは覚悟が必要だとカンナは思う。働くことはもちろん、これから起きる事全てを受け入れる覚悟だ。
思いっきり空気を吸った。
そのまま目を瞑り限界まで吸い続けた空気を一気に吐き出した。
「よしっっっ!」
受け入れた。起こりうる全てを受け止める。
ゼロの振出し、これからは一人で生きていく。家族とは連絡すら取れないだろう。友達とは…………。
「あ、あれ、学校どうなるんだろう」
決めたばかりの覚悟に影が潜んだ。
高校中退、最悪仕方がない。
でも手続きは? 連絡は? あの親がその辺の細かいことをやってくれたとは思えない。というか絶対にやってはいない。
「そう、そうだ。携帯」
連絡をしようと取り出した携帯電話を開き時刻は五時半より少し前、しかも差し押さえられた項目の中に携帯の契約打ち切りも含まれている。今や携帯電話はただの時刻を確かめる時計へと成り下がっていたことを忘れていた。
「そうだった、学香にも連絡できないんだった」
一番仲の良い友達に状況を伝える事すらできないことに携帯電話を静かにテーブルへと置くしかない。働いてすぐにでも再契約しないと、友達の学香に心配かけたままではあまりに申し訳なさすぎる状況だった。
そのための一歩、携帯電話の隣に置かれた契約書を手に取り細かく書かれた内容を流し読みしていく。
だが、たった一枚に書かれた内容の割に文章は多い。全部読むだけで相当な時間を使ってしまうだろう。椎哉の口ぶりからするに着替えたら戻ってくるだろうし、それまでには済ませておくべきことだ。
備え付けのペンへと手を伸ばす。一本適当に選んだだけなのに、それすらもボールペンなんて一〇〇円で買えるような品物ではなく、万年筆と高級そうなものだ。
この程度はこの城を見た時に比べれば大したことはない。
「ここでいいのかな」
書き慣れない道具で歪な文字になりながらも、漢字でサインを書きなぐった。
雇用契約の用紙だから詐欺まがいはないと判断できる。ましてやこれだけ大金持ちの雇用、そんなみみっちい真似をするはずがない。だからか、契約書の内容を把握せずに契約が成立する。
「ん」
と、完了してから所々に細い線でマーカーが引かれていることにカンナは遅れて気が付いた。真新しい雰囲気からするに椎哉が引いてくれたものかなと思い、ポイントポイントで引かれている所だけを再度契約書を確認すると、
1、『この契約は使用人としての試用期間を契約するものである』
――試用期間が終わると同時主人側の判断で正式な契約へと進む。反対にこの契約で使用人となったものの判断で辞職を願うことも可能である。
「つまり、試用期間が終わるとクビが言い渡される。逆に私が辞めたいって言ったらそこで終わりってことなのかな」
読みつつ、主人側の判断のみに委ねる形になるとカンナは思う。自分から辞めたいと言えるだけの生き抜く生活力は現段階では全くなかった。
2、『身の周りの生活が著しく変貌するであろうが、働いている間そのほとんどの権利は主人のものとする』
――本契約に進むまで部屋の改造とうはできない。その代わり生き行く必要以上のものは主人側で用意し、健康かつ安全な暮らしを保証する(仕事の中身に関してはその内容を受けないものもある)。
「なんか、ここだけやけに物騒な物言いね。それに、部屋の改造なんてどうでもいいんじゃ」
3、『情報漏洩対策――使用人の守秘義務』
――いかなる場合においても主人の情報を流してはいけない。それは主人の生活面も含まれ、主人に関して『全て』とする。これは使用人としての立場が無くなっても永遠に続き、守られない場合それ相応の罰則が与えられる。
「まぁ、お金持ちだし当然と言えば当然かな」
主人の守秘義務は当然として、他は契約破棄なんてことはないことを祈るぐらいだ。
もう一度最初から契約書を確認してもマーカーが引かれている個所はこの三つ、サインした後でもこれぐらいだと契約書をテーブルに戻すとタイミングよく部屋にノックが響いた。
『入るぞ』
「あぁ、椎哉か。はいどうぞ」
一人になって気を抜きすぎたかと反省しつつ椎哉が部屋に入ってくるのを立って待ち受けた。
「ん、別に立ってなくても……お、契約書書き終わったのか、わかりやすく線引いておいたしな」
実はそれを見る前にサインしたとは言えず、苦笑いを誤魔化しておく。
「ん、携帯か番号訊いていた方がいいな」
テーブルに置いてあった携帯電話が眼に入った椎哉から、当然訊かれるであろう番号を尋ねられた。
「あ、これ実は……」
なんとなく久しぶりに思い出されたカンナの羞恥心が家の破産状況を伝えさせない。とりあえず、携帯電話の契約が切れたままで使えないとだけ説明する。
「あははは」
そして、最後は笑って誤魔化した。
「どっちにしても番号は教えておいてくれ、今日中には使えるようにしておくから」
「え、でも」
「外に出た時仕事に差し支える場合があるから、使用人としての仕事の内だ」
そう言われれば教えないわけにもいかず、赤外線で情報を交換する。そのなかに元我が家の住所も含まれていたが、その辺は今更どうでもいい。そのまま携帯電話本体も渡し、使えるようになるまで預ける。
そして、
「色々心遣いありがとうございます!」
出会いは偶然で、まだ友達のようなフランクな状態を崩すためにカンナは頭を出来る限り低くする。これから雇われる身として態度は改め直す必要があるのだ。携帯電話の件でもそうだが、流れるままに使わずにいた敬語も契約が完了した以上けじめは必要。
これからは主従関係の立場に別れるのだからこそ、より明確に線を引く必要があった――はずなのだが。
「は?」
そのいきなりの態度の変化に椎哉は呆れたように、そして「何を勘違いしているのかこいつは?」といった感じの流し目で見られた。
「え? あれ? その服」
「今頃気がついたのか?」
カンナは椎哉の服装を目をぱちくりさせながら確認する。高級感は確かに溢れているがタイをビシッと締め紺色の執事服。さらには服の胸の部分に家紋をイメージした刺繍。
その姿はどこからどうみても、
「使用人?」
「俺がここの家柄なわけないだろ。だいた外で会ったとき普通の服装だっただろ」
言われて初めて椎哉に会った時の服装をカンナは思い出す。上はTシャツ、下はジーンズと質素な格好というか、一般的というか、庶民的というか、カンナにも見慣れた服装をしていた。でも、それすらも金持ちの考えることは分からない、の一言で片づけてしまっていたのだ。
「うそ……、」
呟きながら、今までの砕けた喋り方も態度も全てが納得できる。
「あー、ってことはここが誰の家か知らないってことだな。噂では聞いていたけど、この家は本当に伝説扱いされてるんだな」
今更、本当に今更になって、広大な敷地と城のような屋敷の持ち主の名前が明かされる。
「ここ大神田家の敷地な」
世界でも名高る富豪の一家。現当主が日本人だけという理由だけで日本に本家を構え、日本の財政にも一役買っているという、日本に限らず世界でも有名なトップクラスの大金持ちの名前。
その事実、地域住民からは畏れ多く近寄り難い存在となった所為か、一般的な住民からはまはや伝説的な曖昧な存在として、逆に存在を忘れられていた。
「うっそぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
そんな一般住人の一人としてカンナも当然知らなかった。