五月十一日、箱館
箱館総攻撃が始まった。土方を救おうとする勇だったが、時の流れはそれを許さない。
勇はあの日、心を決めた日からずっと考え続けてきた。
五月十一日。一本木関門。その時に絶対に負けられない賭。
土方を貫く銃弾。そればどこから来る?何発来る?伝わっていることはあまりに少ない。腹部を貫いて、土方の命を奪ったとだけだ。
……あたしはどちらに立てばいいんだろう。 一発か二発か三発か。歳三さんを貫いたという弾。あたしの体でその弾を止められるか。
ぐるぐると頭の中で思いが巡る。
自分が盾になることは怖くない。ただ、失敗することが怖い。土方が血に濡れて横たわるのを絶対見たくない。
……神様。あたしの命を捧げます。だから……歳三さんの命まで持っていかないで。
指を組んで祈った。
朝日に染まる障子が白い。
やがて医師が入ってきた。
「無茶をするな君は」
呆れながら傷の処置をしてくれた。
勇はその時傷に巻くさらしを普通の倍以上にしてくれるように頼んだ。躰を支えるためと偽りの理由を付けたが、実際の所は少しでも躰をごつくするためだ。
あと、油紙でくるんだ写真を胸元に巻き込んでもらう。絶対なくしたくない物。
最期まで持っていたい物だ。
手伝ってもらって市村が残していった新撰組隊士の服を身に纏う。
やがて安富が部屋に迎えに来た。
「迷惑かけますが、よろしくお願いします」
勇はこれ以上はないといった笑顔で、言った。
五稜郭。
日も昇らぬ早朝の曇天の元。
箱館奉行所、今は旧幕府軍の本陣の前に兵士が二十名ばかり集まっている。
これから箱館の町へ、弁天台場へと向かうのだ。
午前三時の暗い内に艦砲射撃が始まった。
日の光もまだ射さない午前四時頃には箱館山裏手から新政府軍が奇襲上陸を開始し、応戦できないまま新撰組は弁天台場へと押しやられている。
箱館の町は戦場になった。
土方の放棄した二股口から侵攻してきた軍と、有川から侵攻した軍とが五稜郭を目指している。
艦砲射撃が響き渡って暫くすると榎本達が五稜郭に戻ってきた。
その頃にはすでに目を覚ましていた土方が隊士に準備をさせていた。
大鳥の指揮の元各場所へと迎撃部隊が配置された。
そして。
孤立した弁天台場を救出に土方が激戦区の箱館の町へと今出陣するのだ。
土方が栗毛の馬に乗っている。
いつものように抱きかかえて前に乗せようとするのを勇が止めた。
「戦の指揮をするのに邪魔ですよ。今日は後ろに乗ります」
勇は決断していた。
弾は後方から来る、と賭けた。勘、だ。
安富の手を借りて土方の後ろに乗ると、左右の手を緋色の下げ緒で括った。絶対落ちるわけにいかないのだ。
「何してんだ」
怪訝そうな声で土方が訊く。
「落ちたら格好悪いじゃないですか。括っとけば落ちずにすみます」
そんなもんか、と言う土方の背に頭をつけて息を整える。
ここで置いていかれるわけにはいかない。
「先読みの巫女がいるんだから、大船に乗った気でいてくださいね」
少しおどけたように言って見せた。本当は貧血で目の前が暗くなるくらいなのだ。
「しょうがねぇなぁ。よし、行くぞ。千代ヶ岡台場に寄る」
土方が号令をかけ、兵士達は騎馬を進めた。
五稜郭の門を出、堀に架かる橋を渡る。
……もう、ここに来ることはないな。
勇は振り向いてその目に焼き付けた。何度も来た場所。
ここに来て良かった。迷うことなくそう言える。
半月堡で向きを変え、もう一つの橋を渡り五稜郭周りにあった武家屋敷の通りに出る。
ここから真っ直ぐ延びた道は一本木関門へと続いている。
その中間に中島親子が指揮を執る千代ヶ岡陣屋がある。
真っ直ぐな道。周りにあった家は切れ、ただ緑の大地が広がっている。
遠くむこうに町が見える。
箱館の町。
この時代に来て良かったと、言える。現代に残した家族にだって胸を張って言える。あたしは間違っていないと誇らしく。
ふと、風にあおられた隊旗がかすめた頬にぴりりと痛みが走った。
……静電気?
顔を上げて見ると、土方の黒羅紗の軍服が微かに青白く見える。横に目をやると、傍らに立つ兵士の肩に担う銃の先端が淡くぽっと光る。時折ぱちっと光が走った。
……セントエルモの火。
慌てて空を見上げる。
たれ込めるように黒く波打つ雲。そして、自分の頭上に垂れ下がるように渦巻く雲。
だがその雲の一部が切れているのか、自分たちに向かって光が注いで、あたりより白く見える。
……まさか、あの時と同じ!
そう思った瞬間、強い力で引かれた。
引っ張られたなどというもんじゃない。
……落ちる。
体が垂直になった。空に向かって落ちていこうとしている。土方の腰に回した手を下げ緒で巻いて括っていなければそのまま引き剥がされていただろう。
傷のある右肩が悲鳴を上げる。あっけなく傷口は開き血が流れはじめた。
血は下へと、手のほうへと伝っていく。
兵士達は土方の背中で垂直に空に引っ張られる勇を見て呆然としている。
勇は力もこもらない腕を必死に曲げて体を引き下ろそうとする。が。
土方は黙ったままで勇が手に巻いた下げ緒をほどいた。
「やだ。やめてよ、土方さん」
勇は悲鳴を上げた。
「いやぁ、放さないでッ」
叫ぶ勇を無視して手を解き放った。勇は懸命に土方の腰のベルトを握ろうとする。しかし体を支えきれない。手が離れた。体が空へと落ちていく。
勇の手が懸命に何かを握ろうとする。
その手を土方が握った。
勇がほっとしたのも一瞬だった。
「お前は……帰れ」
土方がきっぱりと言った。
「やだっ。帰らない」
勇も即座に言い返す。
「……今帰らねぇと、二度と帰れねぇかもしれねぇぞ。帰りたくねぇのか」
「かまわないよ。今は……今だけは嫌だっ」
「駄目だ。お前を待ってる奴がいるんだろう」
一瞬勇は言葉に詰まったが、
「かまわない。今、ここを離れたくない。みんな戦いに行くのに、あたしだけ安全な所に行けないよっ。もう少しでいい。もう少しだけでいいんだ。一本木までだけでいい。連れてって」
土方の目が動いた。
「一本木までとはどういう意味だ」
「……」
黙り込む勇に、ふっと土方の口元がゆるむ。
「お前は、言わないと決めたことは口が裂けてもいわねぇ奴だったな」
土方が左腕を伸ばし、空に落ちていこうとしている勇を繋ぎ止めている。
ぴんと伸ばされた勇の右腕をつたって流れた血が土方の手に伝わった。
「帰れ。ここにいたら、おめぇは死んじまう。俺はそんなのは嫌なんでな」
その言葉に勇は唇を噛む。
ぽたぽたと落ちる涙が土方の頬にかかった。
胸元のポケットから何かが滑り落ちた。
赤い……落ちてきた物を土方が受け止める。携帯だった。
その携帯を片手で受け止めたとき、サイドボタンに触れたのだろう。携帯は土方の手の中で勢いよく開いた。
思わず土方がそれに目をやったとき表情が変わった。
携帯のディスプレイが生きていた。
そこには明るく笑う勇と、それを後ろからふわりと抱きしめている、優しい笑みを浮かべた青年。
「こいつが、歳也か」
どこか自分に似た面差しの青年。
……笑ってやがる。ここじゃ泣いてばかりなのによ。
土方は持っていた携帯を、腕を伸ばして勇に示す。
「ほら」
勇の目が携帯を見つめ、驚いたように大きくなった。
「携帯が……生きてる」
勇が左手を伸ばして携帯を受け取った。
「帰れるんだぜ。そいつが証だろ?」
勇はおもい知った。
土方は自分をとどめておくつもりはないのだと。
自分には何もできないのだと。
土方が手を放してしまえば自分はこの時代からいなくなるしかない。そして、土方は絶対に手を放す。自分を抱きとめてはくれないのだと。
「わら……って」
絞り出すように呟いた。
「笑ってよ、歳三さん」
叫んだ。
涙があふれて視界が曇る。でも指先は携帯のボタンの上を走りカメラ機能を起動させる。
腕を伸ばした。
ディスプレイに穏やかに微笑む土方が写っている。
勇はボタンを押した。
軽い電子音のメロディがひびく。画面が保存を問う。確定を押す。
その間も勇の目はじっと土方に注がれたままだ。
「あたしは……一緒に……」
「駄目だ」
そう短く土方が言いきると胸元から何か引き出して勇の右手に握らせた。
「幸せになれ」
そう言うと土方は手を放した。
勇の体はすっと土方から離れる。
「お前のトシと。もう泣くんじゃねぇぞ」
体は空へと加速度をつけて上がっていく。どんどんと二人の間の距離は開いていく。
「いやあぁぁぁ。歳三さん。歳三さんっ」
勇は血を吐くような叫びをあげて、土方の名を呼ぶ。
「としぞう……さんっ」
見る見る小さくなっていく姿。
叫ぶ声は小さく尾を引いてやがて聞こえなくなった。
雲に紛れ姿は……消えた。
勇の体は見る間に小さくなり、たれ込めた雲の中に消えた。
「いっちまいましたね」
勇の消えた空を見上げながら額兵隊の星が言った。
「帰しちまうんなら、俺がもらったのに」
その言葉に土方は馬上から目だけで見下ろす。
「やらねぇよ。あいつは……俺のもんだ」
「そ、そいつはずるいですよ、総督」
不満げな顔の星に一瞥をくれると空を見上げた。
「……よしや身は蝦夷が島辺に朽ちるとも……魂は東の君やまもらむ。守って……みせるさ。もし、また会うことがあったら、そん時はずっと側にいてやる。守り抜いてやる。いや、もし、じゃねぇ。必ず、だ」
掌に残る血を舌で舐めとった。最後に残った勇の痕跡を自分の中にしまい込む。
勇の消えたところの雲は切り裂かれ、亀裂は見る見る大きくなり、その場所から青空が広がっていく。
空を覆っていた雲はやがて拭われたように消えていった。
「晴れましたね」
安富才輔が土方に声をかけた。
「行くぞ」
土方は馬の腹を蹴った。
箱館の町は春。道の周りには緑が広がる。
だが、これから戦いに行くのだ。ただ、勇は帰っていった。戦いに巻き込まずにすんだ。それが土方の心を軽くしていた。
千代ヶ岡陣屋に到着する。
中島親子が土方に声をかけてきた。
「勇殿は五稜郭に置いてこられたのか。まさか箱館の町におられると言うことはないであろうな。戦に巻き込まれるなどと……」
「勇は……帰りましたよ」
「帰ったとは」
「あいつのいるべき場所に。戦のない場所に。だから心配は無用です」
「そうか。良きかな良きかな」
中島はにこにこと頷く。陣羽織が風になびいた。
「弁天台場を助けに行きます。兵を貸していただけるか」
「良いでしょう。必要なだけお連れください。ただ、約束していただけますかな」
「何でしょう」
「無駄死にはなさるな。土方殿は我らの希望だ。あなたがいる限り我らは負けぬと信じていられる。何があっても」
「……わかりました」
互いにうなずくと背を向ける。
土方は額兵隊を預かると一本木関門へ向けて進む。
そこから先は、戦闘区だ。
途中、援軍を求めて戻ってきていた大野と共に、一本木関門に到着した。
……あいつは、ここまで来ると言い張ってたな。何か、あるのか。
退却してくる伝習士官隊を滝川から引き受けると、進軍を開始しようとした。
その時、箱館湾で新政府軍の軍艦朝陽が蟠龍の砲撃をうけて、轟音をたてて撃沈した。
「この機を逃すな。大野君、伝習隊を連れて進撃しろ。俺はここで逃げる奴を斬る。お前はこいつらを率いて戦え。後は気にかけるな」
大野は箱館の町へと兵を率いて進んでいった。
やがて、後方から兵が駆けてきた。
「七重浜方向から敵が来ます」
「なに」
土方は鋭い眼差しで振り返る。
海上ではただ一隻で新政府軍とやり合っていた回天が撃沈され、乗組員がこちらへと向かっている。
彼らを危険にさらすわけにはいかない。
「よし、ここにいる奴、何人か残して迎撃するぞ。速さが命だからな。騎馬の巧い奴で銃の腕の立つ奴一緒に来い」
土方は馬首を返すと兵を連れて走りだす。
七重浜方向へと向かうと海岸沿いの村に新政府軍が寄せてきていた。
土方は馬上にあったまま刀を抜く。
「銃、構え。撃てッ」
駆けてきた兵達が一斉に銃を構え馬で走りながら撃った。押し寄せてきていた新政府軍の兵士達はいきなりの攻撃に体勢を整える間もなく撃ち倒されることとなり、慌てて退いていく。
「蹴散らせっ。だが深追いはするな。銃、構え。撃てッ。」
馬上で土方が大きな声で指示を出す。
「提督、村に朝陽の怪我人がいるようですが。イギリス軍の者が治療をしているようです」
新撰組隊士立川主税が土方に声をかけた。
「俺は怪我人に手はださねぇよ。放っといてやンな。そんな暇はねぇ。ある程度押し返したら一本木に戻るぞ」
「はい」
散り散りになって新政府軍の兵士が退いていったのを確認すると土方達は馬を返す。
この状態なら回天の乗組員が上陸しても大丈夫だろう。
「回天の連中が五稜郭へ向かうのを確認しておけ」
そう、配下の一人に指図すると馬の腹をけった。
休む間もなく駆け続け、一本木まで戻る。
その頃、五稜郭から三人の兵が間道を駆けていた。
伝習隊から大川正次郎によって選び抜かれた優れた射手達だった。
彼らは一つの命をうけていた。
それは昨晩のことになる。
別杯の交わされていた『武蔵野楼』でのことだった。
「大川君。一つ頼みがある。内密の頼みだ」
大鳥が武蔵野楼の二階の廊下で庭に向かいながら小声で話す。
庭を見下ろす廊下は薄暗い。
大川は大きな体を心持ち屈めるようにして側に寄った。
「銃の腕の立つ者を三名、選んで欲しい。今夜中に。口が堅い者を」
「何故でしょう」
大鳥はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「土方を撃つ」
さすがに大川が息をのむ。
「土方総督をですか。何故」
「この戦はもう終わりだ。俺達の負けでな。だが、土方は降伏などしないだろう。あいつは戦い続けるさ。そして、まずいことに兵達も土方がいると戦い続けるだろう。土方は負けてないからな。兵士達の希望みたいなもんだ」
「いけない……ことでしょうか」
「俺は、これ以上無駄に死人は出したくねぇのさ。俺は医者の出だからな。人が死ぬのは嫌いなんだよ。土方は薩長に膝を折ることをよしとしない。第一、この戦が終わったときには、土方は生きていたくないだろうさ。」 大鳥は大川に向かってふっと笑う。
「勘違いするなよ。俺は土方は嫌いじゃない。いや、好きな方だな。あいつは真っ直ぐな奴だ。だが、あいつがいることで戦が長引いてしまうのさ。それは……受け入れられない」
「……わかりました」
そう言うと大川はすいと下がり、夜の闇に消えていった。
その大川の目にかなった男が三名、スペンサー銃を肩に駆けている。
土方を撃つ。
それが戦を終わらせるためだと解かれ、信じた者達だ。
やがて彼らは一本木関門の見える場所まできた。
一本木に戻った土方は、遙か前方で繰り広げられているだろう戦端を思った。
ここからは見えない。
ただ遠く音だけはひびいてくる。
「土方さん。馬から降りてくださいよ。丸見えじゃないですか」
安富が声をかけるが、
「何言ってやがる。指揮官が怖がってりゃ世話ないだろうが」
と、笑い飛ばす。
その時、乾いた銃声がひびいた。
立て続けに三発。
その時、立川の目には馬上の土方が一瞬伸びをしたように見えた。
のけ反るように反り返る躰。
そして、土方の躰はゆっくりと地面へと落ちていった。
……熱い。
地面に横たわりながら、ぼんやりと土方は思った。
腹部を貫いたであろう鉛の弾。その傷口から流れる血が熱い。傷は痛みより熱さだ。
遠く、安富や立川が叫んでいるのがわかる。
やがて体中を貫く痛みが襲ってきた。
躰を安富に抱き起こされた。
「しっかりしてくださいっ。副長っ」
「結構……いてえ……もんだ……な」
息がとぎれる。
……勇の奴。あいつは、痛いと言ったっけ?言わなかったな。あいつ。
土方は頭の中で思った。もう、声は出せない。ふと、一つ思い返した。
……もしかして、あのやろうが後ろに乗るなんて言いやがったのは。
だが、その少女も帰っていった。
巻き込まずに、ましてや死なせずにすんだということだ。
……上出来じゃねぇかよ。
勇を帰してやれた。今度は『近藤勇』を守れたということだ。
……そういや、弁天台場の島田や相馬にあいつが帰ったと教えてやれなかったな。あいつら可愛がってたんだが……。
弁天台場には、もう行けそうになかった。
「すま……ねぇ」
土方歳三の、それが最後の言葉だった。




