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二股を退く

第二次二股戦。戦いは持ちこたえていたが、味方の退却で退くことに。

箱館に戻った土方は、勇が襲われたことを知る。

 土方は二股へ向かった。

「今度来るときは気合い入れてくるだろうな」

 二三日五稜郭で人員、装備の手配をした後、

 二股につくと、指揮官を集め土方が言う。 二十三日。夕闇の迫る頃。

 銃声が響いた。

 新政府軍の攻撃だった。

 増援をうけた新政府軍との戦いは前回以上に苛烈なものとなった。

こちらも伝習歩兵隊が増援になってるとはいえ、相手はこちらの三倍はいる。

 激しい銃撃戦になった。

 前回は天候が悪かったが、今回は晴れている。

 前回は銃身が雨に濡れていたから気がつかなかったが、銃というものは連射すると熱を持つ。火薬で弾を飛ばしているのだから当然だ。

 激しい銃撃戦が続く内に、銃が手で持てないほどに熱くなった。

「おい、大きな桶を持ってこい、沢から水を汲んでこの中に溜めろ」

 土方は指示を飛ばす。

 熱くなった銃身をその桶の水に漬け、冷やしながら撃ち続ける。

 やがて、日は沈み相手からの砲撃がまばらになった。

 暗くて見えないから撃っても当たりにくいのだ。無駄弾を撃つことはない。ただ、完全に止むことはない。

 その時、土方が兵に酒樽を運ばせてきた。

「お前ら。今日の戦いはご苦労だったな。ま、お前らにすりゃガキの遊びみたいなもんか。以前、会津での戦はもっと大変だったもんなぁ。それに比べりゃ、な。で、お前らにちょっとばかりの褒美をやる。酒だ。でも今は戦中だ。酔っぱらわれて規律を破られちゃたまらねぇからな。一人一杯だけ、だぞ。いいな」 土方は笑いながらそう言うと、茶碗一杯づつ酒を配り始める。

 自分は飲まない。

 もともと下戸であるが、自分の分も兵に廻すような性分である。

 ここ、箱館に来てからというもの、酒、女にはほとんど縁がない。 

「総督は飲まれないのですか。お持ちしますが」

 一人の隊士が、酒を配る場所から一人離れ木にもたれている土方に声を掛けてきた。

「俺はいらねえよ。もともと下戸なんだ」

 ふふっと笑う土方だった。

「そうは見えませんが。新撰組の方々は皆お強いと……」

「酒好きは多いが、全員じゃねえさ。近藤局長なんかは酒が苦手な甘党だったし、島田もそうだ」

「そうなんですか」

「だから遠慮なく皆で分けな。ただし一杯づつだからな」

 土方は笑いながら念を押した。 

 日が再び昇った。

 明るくなると戦闘が再開される。

胸壁内で指揮を執っていた土方のもとに顔色を変えた隊士が駆け込んできた。

「何だって?内輪もめ?」

 呆れたような声と共に一つため息をつくが、次の瞬間には厳しい顔になって身を起こすと、

「何処だ。すぐに行く。案内しろ」

 ピンと張った声で命じた。

いさかいのおおもとは、戦いが思うにまかせないことだった。

 武士なのに動かないまま銃を撃っているだけだ。不満も募る。

 なかなからちのあかない戦いに業を煮やした伝習士官隊の滝川が、隊士を率いて斬り込みをかけた。いきなりのことに新政府軍の兵士は追い散らされた。

 だが、軍監である長州の駒井がその攻撃を受け止める。そのことに滝川達は引き際だとして陣に戻っていったが、滝川を追いかけてきた駒井は土方の陣から放たれた銃弾によって撃ち抜かれた。

 敵の軍監を討ったが、滝川が斬り込みを掛けた際に隊士を数名戦死させてしまっていた。その時味方の隊士の死体の目をくりぬかれ、耳をそがれるなど辱められたとして、同じことを相手に仕掛けている。

 それを見ていた伝習歩兵隊の大川が責め立てたのだ。

 勝手に出ていったあげく部下も失い、相手の死体に狼藉を働いたのだ。腹に据えかねた。

「総督の命があったか。このような無謀な行為は軍法会議ものだ。上官の命に背くなという法度にあるのを忘れたのか」

 大川が滝川を責め、滝川は言葉がない。

 もとより伝習隊であっても士官隊と歩兵隊は今ひとつそりが合わない。

 その場に慌てて駆けつけた土方は、

「大川君の言うことは正しい。だか、まぁ滝川君の戦況を打開しようと自ら討って出たのもわからねぇ訳じゃねぇさ。どっちも戦場じゃ必要なことだ。規律も勇気もな。ここは俺の顔を立てて双方退いてくれ」

 そう言う土方に両者は納得しかねるという表情を浮かべたが、とりあえずお互い矛を収める。

 それを一瞥すると土方は背を向けた。

 そして数歩歩くと足を止めた。

 肩越しに振り向く。

「ただ、自分のやったことを、自分の孫に誇らしく語れるようであれ」

 それだけ言うと歩み去る。

 その言葉に、二人は思い知らされたような顔になる。

「子、ではなく孫か。土方総督も厳しいことを言う……」

 大川は呟いた。

 戦況は膠着状態が続く。

 と、後方からラッパの音がひびいた。

 敵の背後からの攻撃かと、陣地内が動揺する。逃げ出そうかと立ち上がるものも出た。

 しかし土方は、攻撃されることはない、陽動だとこれを見抜いた。

「折角こっそり後ろにまわったってのに、攻撃かける前にラッパを吹くバカはいねぇよ。これは陽動さ。みな持ち場に戻れ。もし逃げようとする奴がいれば俺が斬る」

 各胸壁へと伝令を飛ばす。

 退く者は斬る、この土方の言葉は過去に宇都宮で事実となっていたから、陣地内の動揺は沈静化した。

「さすがですね。土方副長」

 安富が誇らしげだ。

「だてに生き延びてねぇよ」

 苦笑する土方に、

「本当のところは戦況的に……」

「後ろにゃ回り込めねぇよ。後ろにも偵察用に兵を配置してあるからな。もし来たなら報告があるはずだ」

 土方の用意周到なことにひたすら感心する。   

 戦闘は夜通しまでひたすら続いた。

 やがてもうすぐ夜が明けるかという頃になって、ようやく新政府軍は退いていった。

「結構、今回はしつこかったな」

 止んだ銃声に腕を組みながら胸壁から身を乗り出して土方が言った。

「危ないこと止めてください。撃たれたらどうすんですか」

 立川が慌てて後ろに引きずり倒す。

「退いてるよ。やつらは。再開は日が昇ってからというとこか。ただ……」

 心配なことが土方の頭をかすめる。

 箱館に侵攻するための道はここと、海に近い矢不来だ。

 矢不来は大鳥が指揮を執っている。

 松前城攻略の際に海からの艦砲射撃の威力を見た。

……大鳥さんに持ちこたえられるとは思えねぇ。

 事実、有利に進んでいた木古内での戦闘も、防戦に不利と判断し箱館近くの矢不来まで退いていた。

……押しの弱い人だからな。危険を避ける方にいきやすい。頭はいいんだが、腹が据わりきってねぇと言うか、腰が軽いというか。

 この陣を退くことも、そう遠いことではないだろうと思った。

 土方の読み通りに再び新政府軍が攻撃をかけてきたのは日が昇ってしばらくした後。

 どうやら二股の陣が難攻不落なのをみて対策を練っていたらしい。

 何しろ三倍以上の兵力をつぎ込み、戦う相手よりも性能のいい新型の銃器を使用しているのに抜けないのだ。あまつさえ、軍監を撃たれ、相手よりはるかに多くの犠牲者を出している。  

 今度の戦いは短時間で収束した。

 攻撃してはみたが、やはり難攻不落であると言うことを確認できたに過ぎなかったということだ。

 新政府軍は短時間で撤退していった。

……やな予感がする。

 土方はあっさりと退いていったことに不安を覚えた。

 そして。

 この陣を守ること数日。

 一人の隊士が顔色を変えて駆け込んできた。駆け続けたのか息も絶え絶えだ。

 周りにいた隊士達に抱え込まれる。

「伝令、伝令。土方総督はおいでですか」

 その声に土方が出てきた。

「どうした」

 隊士はその長身の姿を見てほっとしたのか、膝ががくりと折れた。

「矢不来が抜かれました。矢不来の軍は七重浜まで撤退」

 その言葉に、土方は端正な顔を曇らせた。

「……ここまでだな」

 そう呟くと、腕を組む。

 判断は速い。

「よし、俺達も退くぞ。後ろをとられたらやっかいだ。軍を三隊に分けて五稜郭まで退く」 凛とした声で指示を出す。

 土方は無敗を誇った二股の陣を、最期まで負けることなく離れることになる。   

二股の陣に地雷を仕掛けると、三隊に分けた土方軍は静かにそして整然と離れていく。

 第二隊と共に退くとき、土方は台場山の自分たちの陣に目をやり、軽く頭を下げた。

「俺達は……よく持ちこたえたな」

 よくやったが運命と言うものには逆らえないものらしい。

……だが、まだまだこれからさ。   

 土方は遠くなっていく胸壁に、一人小さな声で言った。

 その日、四月二十九日。

 二股口を放棄し、五稜郭にたどり着いたのは五月一日になっていた。

 榎本と会ったとき、傍らにいた大鳥が頭を下げた。

「すまん。支えきれなかった」

「やむおえんでしょう。艦砲射撃があったら俺だってもちこたえられない」

 ねぎらうような言葉をかけると、部屋から出ていこうとする。

「土方君。ご苦労だった。しばらく体を休めてくれ」

 背後からかけられた榎本の言葉に、軽く頷くと戸を閉めた。 

 

 土方が箱館病院に顔を出したのは、五稜郭を辞して弁天台場にいる新撰組隊士に会った後のこと。

 新撰組に今夜の有川での夜襲を命じた後丁サへと戻り、とりあえず体を休めるために一風呂浴びて、こざっぱりしたなりに着替え、軽く一眠りした後のそろそろ夕刻になろうかというときだった。

 土方の顔を見た高松凌雲は大きく息をつくと先に立って案内する。

 戸に手をかけたとき一度だけ振り向くと静かにあけた。

 そこにひかれた布団に横になる勇のすがたに一瞬目をうたがった。

 土方が部屋へとはいると気配に気がついたのか目を開け、顔を向けてきた。

「あ……土方さん。」

 微かな声で勇が話す。

「気分はどうだ?」

 刀を外し枕元に腰を下ろすと土方は優しげな顔を向けた。

「大丈夫。心配いらないのに」

 勇はそう言うが顔は血の気が無く蒼白で、紅梅の花びらのような紅色だった唇は紫がかっているくらいに色がない。肩で息をしているのがわかる。

「大げさだなぁ凌雲先生も。すぐ起きられるようになりますって」

「無理するな。今はゆっくり体をいとえ」

 そっと手を勇の額に当てる。目にかかっていた髪を横へとすいてやる。そのまま頬に手を当てた。

「何かして欲しいことはあるか?」

「手を握って。落ちていきそうで……怖いんだ……」

 切なげな顔で勇がねだった。そして、布団から出ている手を微かに動かした。

 黙ったまま土方は勇の指先を握った。

 力のない指先。その華奢な指がすり抜けていきそうな感覚に、思わず指を絡ませるように握り直すと包み込む手にくっと力を込めた。

 勇の指が、握り返す力すら無いことに土方は胸を突かれた。

「あり……がとう。大きいね土方さんの手」

 自分の手を包む土方の手を嬉しそうな表情を浮かべて見ている。

「歳三でいいぜ。今は誰もいねぇ」

「ここ万屋じゃないんだけどな」

 勇はくすっと笑った。

「あたしは、死なない。だって、歳三さん許さないでしょ」

 少し泣きそうな顔で勇が言う。

 しばらくの沈黙が流れる。勇の息をする音だけがやけに大きく聞こえた。

「そうだな、お前にはまだ大事な役目が残ってるんだ」

「役目?」

 怪訝そうな表情を浮かべる勇に、

「なに言ってやがる。一番大事な役目だろうが。お前は『土方の嫁になる』ンだろうが」

「だって、帰る方法、分からないよ……」

 半分呟くような微かな声。

「あのな……、目の前にも一人、土方がいるだろうが」

「え?」

 思わず目を見開いた勇に、

「なんだ?俺じゃ不服だってのか?」

むっとした声で応える。

「え、歳三さんにはもっと大人で上品でしとやかな人が……」

「俺は、ちっとばかり跳ねっ返りでも元気で真っ直ぐな奴がいい」

「ひどいなぁ、あたし跳ねっ返りですか?学校じゃ温厚で物静かで通ってたんですよ」

「ちょっと目ぇ離すと何しでかしてるかわかんねぇような奴が言うようなことか」

「う……」

 言葉がない。ここに来てからの自分は確かにそうかもしれないと勇は思う。

 何をするにも必死で、自分自身を押さえるようなゆとりなどなかったのだ。

 土方は黙り込んだ勇を見つめてふっと笑う。 

空いている手を支えに勇に覆い被さるように顔を近づけて……耳元に口を寄せた。

「来年の春、梅を見に行こう。二人だけでな」

耳元で囁いた。

「梅、ですか」

「ああ、満開の紅梅は綺麗だろうな。そして……」

 土方は一瞬言いよどんだ。が、再び耳元で、

「ガキが出来たら『誠』の文字を付けよう。俺達新撰組の誠と。だから約束しろ、俺に。一緒に梅を見に行くってな」

と囁いた。

 土方は鋭い眼差しで勇の目をじっと見つめている。

 勇にはこの言葉のいわんとしていることがわかった。

「……約束する」

「よし」

 土方が笑みを浮かべた。だがじっと見つめる目は逸らさない。

「口を吸う、ぜ?いいだろ?」

 いきなりの言葉に目を見開く。じっと土方を見つめていたが、つい、と視線を逸らした。

「そんなこと訊くんですか?」

血の気がない顔の頬のあたり、少し赤みがさしている。

「そうだな。訊くだけ野暮ってもんか」

 ふふっと笑うと、顔を近づける。

 だが、勇は慌てて顔を振った。

「やっぱり待って。あたし歯箒使ってないから」

 口を押さえようとしても、片手は握られもう一方の手の方は土方の手があるためもってこれない。

「ンなこと気にするな」

 土方は目を閉じると、勇の唇を包み込むように唇を重ねた。

 乾いてひび割れた唇をゆっくり舌で濡らしていく。

……キスだって言うけど、本当はあたしの唇を気にしたんだ。まったく歳三さんは……。

 その細やかな気遣いに呆れてしまう。これが鬼の副長と言われた人と同じ人間とは思えないくらいだ。  

……本当に優しい人だよ。

 やがて唇が十分に濡れたのを確かめると口づけが滑り込む。唇を割って入り込む舌が勇の下を絡め取るように絡ませてくる。

 激しい口づけに体からすうと力が抜ける。

 口づけでくらくらしたのか、眠気なのか、それとも……傷のせいなのか。頭がぼんやりしてくる。考えないのと考えられないことの境界が限りなく曖昧になっていく。

 やがて土方がゆっくり唇を離したのだが、次の瞬間まじまじと勇の顔を覗き込む。

「俺も、今までいろんな女とつきあいがあったが……口吸いの途中で寝ちまった奴ってのは初めてだ」

 勇はすうすうと小さな寝息をたてていた。

 頬に手を添え、指で髪を梳いてやるとゆっくり腰を上げた。

 戸を開けて部屋から出る。

 出たところで高松凌雲が土方を待っていた。

「土方さん……すまん」

 深く頭を下げる。

「お、いや、いきなり何なんだ。何で高松さんが頭を下げる」

「あんたから預かったのに……あんな目に。大事なもんだったんだろうが」

 その言葉に慌てた。

「いや、高松さんが謝ることじゃないだろう。あんたに責任なんてねぇ」

「いや、俺がもっと早く気がついていれば……こんなことには」

「どういう意味だ?」

 その言葉に土方が反応した。

「勇君がきて、次の日ぐらいから出入りの店の者、町の者などが言ったのさ。黄泉返しの巫女に会わせてくれってな。拝ませろと言われた」

「よみがえし」

「ああ、死人を生き返らせる呪いをするそうだなと言うんだ。俺ぁ、ここは病院で医者はいるが巫女なんていねぇ、大体拝むだけで怪我や病気が治っちまうような便利な奴がいるなら俺が会いてえと言ったんだが。そんとき思いつかなかったが……あとになって考えてみるとそいつは」

「勇のことだというのか」

「憶えてるだろ、伊庭君の一件だ」

 土方はあっと思った。

「あの子は理屈にあったことで不思議でも何でも無いという。あの子の知識の中では普通のことなのだろうな。だが、俺達にすると」

「呪い……か」

 高松がうなずく。

「出入りの店の者で、小耳に挟んだという者もいてな。数人の男達が、巫女を殺すと息巻いていたんだそうだ。何でも死んだ兵士をここに運んできて、生き返らせた後また前線に送り込むような悪行を止めさせるなどと言ってたらしい。誰が死人を生き返らせるかいって笑い飛ばしてたんだが……。すまん。俺の落ち度だ」

「そう、か。なるほどな。勇が狙われたのはそう言うことだったのか」

「狙った連中は……」

「多分、遊軍隊の人間だろうな。箱館に結構入り込んでるらしいからな。で、勇の具合は……」

「……はっきり言えば、あまりよくない」

「よくない?」

「意志の力で保ってるようなもんだ。だから、気力が尽きれば……」

「……そうか」

 土方は思わず俯いてしまう。

 こんなことなら、二股に連れていけばよかったと思っても後の祭りである。獲物を狙う野犬の群の前に、裸で投げ出したようなものだ。いつもなら守っていた新撰組隊士の姿もないのだから、襲おうと思えば容易いことだ。

「土方さん。できる限り顔を見せてやってくれ。あんたも忙しいだろうが、あんたの顔を見るだけであの子は元気になる。何とか」

「わかった」

 土方は軽く頭を下げると、勇を頼むと言い置いて帰っていった。


 満月の照らす夜道を土方は丁サに戻ってきた。

 離れの自室に入る。

「寒い……」

 部屋に入ったとき感じたのは、肌寒さだった。

 部屋には店の者が入れた火鉢に火が入れられている。何より、季節は春へと変わりつつあるのだ。冷えているわけがない。なのになぜか冷え冷えとした感じがする。

 何するでもないので、布団に横になったのだが。

「静か……だな」

 一人きりなので物音がしない。遠く店の音までが聞こえてくる。

 いつもこんなにひっそりしていただろうか。いや、静かすぎるのだ。

 いつもは勇が用事をこなしている物音や気配、そして時折小さな声で口ずさむ自分の知らぬ歌らしきものが聞こえていた。

 それがいつも自分の周りを取り巻いていたのだ。

……そういえば、落ち着いているようでもそそっかしいとこもあったからな。時折でけえ音たててたか。しっかり者なのかおっちょこちょいなのかわかんねぇ奴だ。

 ふと、そんなことに気がついた。 

……歳三さん。

 呼ばれた気がして隣の部屋、勇の私室の方へと目を向けた。

 いるわけがない。今勇は箱館病院でふせっているのだ。

 気がついたことがある。勇は、ここにいるときは客がいない限り、自分のことを歳三と呼んでいた。

 人前では土方と呼べと自分が言ったのもあったが、それ以外では勇は自分のことを名前を呼んでいた。自分を名前で呼んでいたのは勇ぐらいだったのだ。

 改めて思い知らされた。

 ここでは、自分が陸軍奉行並の土方でも、総督でも、まして、新撰組の土方でもなくただ土方歳三であったと言うことに。

 一人の人間としてだけここにいられた。

 一人の少女の前に一人の男として。

 真っ直ぐに見つめてくる大きな黒い瞳。

 その瞳にこもる自分への絶対の信頼。それにどれだけ力づけられたか。

 その瞳は、確かにあの近藤の眼差しに似て自分を暖かく包んでいた。

「やたらと寝言言う奴だったからな」

 いつだったか。

 小さな声に起きて枕元に行ったとき、眠りながらも母親を呼んで泣いている姿を見た。

 その涙を起こさないようそっと拭ってやったのも一度や二度ではなかった。

 そういえば、ある日。

「やだ……だめ……やめて」

 と言う声に慌てて枕元に行くと、  

「容子……だめだって。……それ、あたしのチョコ。食べちゃ駄目……ああ。……それ、ゴディバの高い奴なんだぞ。……小遣い半分つぎ込んだのに……。ばかぁ。今度駅前の……パフェ……それで……手を打つ……」

 うなされているその内容。おもわず笑ってしまい、腹を押さえ悶絶したことがあった。

 次々と思い返されて、目がさえてきてしまう。

 何度か寝返りを打ったあげく。

 布団から起きあがると軍服を身につけた。

 布団を片づける。

 部屋を出ると、夜道を新撰組屯所の称名寺へと向かった。

「土方副長」

 蟻通が驚いて声を掛けた。

「どうされたのですか」

 屯所は篝火が焚かれ隊士達がひしめいている。今から有川へ夜襲を掛けるのだ。

「夜襲を掛けろって言ったろ?俺が言ったんだ。俺が指揮を執る。てめぇら、気合い入れて付いてこい」

「総督自らですか。命令だけのはずでは」

「そのつもりだったんだがな。気が変わった。たまには新撰組の土方に戻るのも良いだろうさ」

 駆け寄ってきた島田ににやりと笑いながら土方は言う。

 土方は馬にまたがると兼定をかかげる。

「向かうは有川。薩長の連中に一泡ふかせてやろうじゃねぇか。遅れンじゃねぇぞ」

 土方の声が響いた。  


 敗色濃厚となったため、フランス人軍事顧問のメンバーは戦線を離脱し母国へと帰ることとなった。

 ブリュネ達は榎本や大鳥に別れの挨拶を済ませた後、丁サにいるはずの土方に挨拶に向かった。

 が、いない。

 店の者に訊くと、箱館病院に行っているという。不思議に思いながらも病院に着くと、横たわる勇とその枕元にいる土方がいた。

「ムッシュヒジカタ。お別れに来ました。我々はこれから港にいるフランスのコエトロゴン号に乗って横浜へ向かいます」

 ブリュネが土方の側に腰を下ろすと声を掛けた。

「そうか。色々世話になったな。感謝する」

 土方も穏やかな笑みを浮かべ頭を下げた。

 ブリュネと共にカズヌーヴも勇の枕元に膝をつく。 

「マドモアゼルイサミ。お別れです」

 ブリュネが勇の手をとりながらその甲に唇を押しあてた。

「お元気で。ブリュネさんにカズヌーヴさん」

「ああ、オルレアンの乙女よ。私は君を連れて行きたい。フランスは美しいところ。パリの町を是非みせてあげたい」

 カズヌーヴが厳つい顔をくしゃくしゃにして勇の手を握りしめる。ごつい体の割に純なところのある男なのだ。

「パリは知ってます。見たことはあります。行ったことはないけど」

「マドモアゼル。君は不思議な子だ。私は君が大好きだったよ。君が命じるなら私は君に剣を捧げこの戦いで命を懸けてもいい」

 ブリュネが自分の右手を胸に当てて、覗き込みながら言う。

「命じてくれないか。君のために死ねと。そうすれば私は騎士として君のために戦おう」

「それは駄目ですよ。ブリュネさんにはまだしなきゃならないことがあるのだから。ただ、願うなら……戦をした国だけど、この国を嫌いにならないで。日本を嫌いにならないで欲しいの」

「君のいる国、君が愛した国をどうして嫌いになるものかね。私は日本が好きだよ。ここで知り合った侍達も全部ね」

「ありがとう……」    

 勇が穏やかに微笑む。

「願えるなら……君の頬にキスをする事を許してもらえないだろうか」

 ブリュネがちらりと土方の方に目をやると言う。

「君の唇はすでに誰かのためのものらしいからね。頬だけでも許してもらえないか」

 勇は、えっ、という顔をしたが困ったようなため息をつくと頷いた。

 ブリュネとカズヌーヴは勇の上に屈み込むとその頬に軽く唇で触れる。ひやりとした感触がしたのだろう。一瞬ブリュネの表情が曇った。

「元気になってくれたまえ。是非、また会おう」

「はい、お元気で」

「ムッシュヒジカタも。この戦を生き抜いてくれ。戦い抜き生き残ることこそが意味があるのだから。生きることも戦いなのだよ」

 土方は黙ったまま口の端を微かにあげた笑みを浮かべる。

「君たち侍は命を粗末にしすぎる。死んではいけない。人は生きるものなのだ」

「潔い、というのが武士なんだがな。まあ、心に留めておこう」

 二人のフランス人軍人は戸口まで歩くと戸を開けた。そして振り向くと、帽子を手に、もう一方の手を胸に当て、最上の礼をする。

「君には、マドンナリリーこそふさわしい。聖なる乙女よ。私は君に会えて幸せだったよ」

 そして姿は戸口に消えた。

この後ブリュネ達は船に乗り箱館を離れた。

 後にブリュネは再度日本へと来ることとなる。そのことを知る勇は、

「また、会いましょう」

 そう答えたのだった。


 昼もとうに過ぎた箱館病院の診療室。

 盆に乗せた碗を手にした、介護手伝いの女性と難しい顔をした高松凌雲がいた。

 高松は大きくため息をついた。

「よわったな……」

 碗の中にはたっぷりと入ったままの重湯がある。

「何口だ」

「三口、です」

 それを聞くと高松は再びため息をついたのだった。

 土方が入ってきたのはそんなときだった。

 連夜の夜襲で目の下にはくまが出ていた。

「邪魔をする」

 声をかけたとき振り向いた高松が開口一番、

「土方さん、あんた寝てないね」

言い放った。

「俺は確かに来てくれとは言ったが、睡眠時間を削ってまで来いたぁ言ってないんだが」

 土方はその言葉を聞き流した。

「何か難しい顔をしてるがどうしたんだね」

 逆にそう聞き返す。

「勇君がほとんどものを口にしないんでな」

 高松の言葉に土方は目をむいた。

「昨日、食べたと言ってたが」

 午後に来たとき、勇は昼を食べたかと土方に言ったのだ。自分は終わってしまったから一緒に食べられそうにないと。

「土方さん。それはあんたに心配かけたくないから……。今じゃ重湯を食べることさえ辛そうなんだよ」

 物を食べないと言うことは……。

 慌てて枕元に行くとうつらうつらと眠っている。確かに会うごとに起きている時間が短くなっていた。

 体力が保たず起きていられなくなっているのかもしれない。

 土方は病院を後にすると、向かった先はフランス商会だった。

 再び箱館病院に来た土方は、眠ったままの勇の枕元に腰を下ろした。

 長マンテルのポケットから紙に包まれた物を取り出す。

 それはチョコレートだった。

 紙包みを開くと板状のチョコレートをぱきりと割った。

……勇は、自分じゃ食えねえだろうな。

 その欠片を見つめると自分の口へと入れた。

 かみ砕き、すっかり溶かすと勇に口移しで飲ませる。。

 やがてゆっくりと喉が動き飲み下したようだった。

 勇が目を開ける。

「あ……。何?甘い」

 土方に気がついたのか、驚いたように目をパチパチとさせる。

 土方は勇の唇の縁に残るチョコを指で拭うとぺろりと舐めた。

「甘いな」

「チョコ?」

「好きだろ」

「うん」

 ぽつぽつと話していると高松が入ってきた。

「目が覚めたのかい。気分は?」

「先生……。良いです。起きられそうです。起きちゃっても良いですか」

「無茶と無理はいけないと何度も言った気がするが?」

「高松さん。これを食べさせても良かったか」

 土方は手にしていたチョコレートを見せた。

「ああ、土方さん。ン?それは……ショコラか。懐かしいなぁ。パリじゃよく食べたもんだ。ああかまわないよ。それは滋養もある。砂糖が多く入っているから体にもいいだろう」

「だ、そうだ。よかったな」

 土方が勇に笑いかけた。

「もう少し食うか?」

 その言葉に小さくうなずいた。

 そっと手を伸ばしたが、土方はそれをちらりと見ただけで、チョコレートを再びぱきりと割るとその一欠片を自分の口へと放り込んだ。

 勇が怪訝そうな顔をした。

 暫くかりかりとかみ砕く音がしていたが、やがて勇の頭の後ろに手を添えると屈み込む。再び口移しでチョコレートを飲ませる。

「!」

「こんな固てぇもの噛めねぇだろが」

「含んでれば溶けます」

「……いいじゃねぇか。それとも俺が口吸いするのはいやだってのか?」

「いじわる……」 

 少し拗ねたような口調の勇の姿を見ると、凌雲はお邪魔だねと言って出ていった。

 頬を染めた勇がその後ろ姿を見送ったあと、土方の頬に手を伸ばしてきた。

「寝てませんね、歳三さん」

 少し責めるような口調だ。

「寝ないと駄目ですよ。目の下くまがあるじゃないですか。あたしの見舞いより寝るべきです」

 土方はその言葉に軽くため息をつくと、 「わかった」

と、言いながらいたずらっぽい笑みを向けた。 いきなり上着を脱ぎ出す。

 あっという間に下帯一つになってしまう。

「なっ、何すんですか」

 慌てる勇に、

「お前が寝ろといったんだ。ここで寝るさ。幸い布団がここにある。お前の見舞いもできるし、ここからなら屯所も近い。軍服じゃ寝られねぇからな」

 そう言うと、勇の寝ている布団へと潜り込む。勇の頭を胸元に抱き寄せると髪に顔をうずめた。

「沈丁花の匂いがする」

「え?」

 いきなりの言葉にとまどう勇に土方は目を閉じたまま続ける。

「お前は、温かい」

 そう言うと瞬く間に低いいびきが聞こえてきた。

……疲れてたんだ。

 力のこもらない手を必死にのばし、土方の体に布団を掛けた。 

「おやすみなさい」       

 その寝顔に声をかけ、自分も目を閉じた。

 土方は思っていた。

 眠っている勇は時折苦痛に耐えるように苦しげな様子を見せた。息も荒くなる。辛そうに呻き声もあげる。

 だが。

 目を覚まし、土方の姿を見ると笑うのだ。

 元気だったときのようなぱあっとした笑顔ではなく、微かなふわりとした笑みではあるが、確かに笑うのだ。まるで、辛くも痛くもないのだというように。

 血の気のない、抜けるような白い頬。

 体を抱いたとき感じた。

 ひやりと冷たいその肌。

 大鳥たちから救い出したとき、怪我を負っていたが、そのときの体は熱を帯び熱かった。 こんどはうって変わり、冷たいからだ。

……俺の熱を少しでも、いや、全部やってもかまわねぇ。

 温もりを与えたかった。ヒヤリとした躰が温かくなってほしかった。

 抱き寄せる腕に力を込める。

……怖い。

 ふいにそう思った。

 腕の中にあるはずの躰がさらさらと消えていきそうな感覚がする。

……なくしたくない。

 二人の近藤勇。

 もう失いたくはなかった。   

だが近づく運命と言える死の影になすすべを持っていなかった。


その日の夜、土方は新撰組を率い有川の夜襲をかけ、四日には五稜郭へと戻っていった。

 結局、戦い続けて休むことなどできなかったことになる。


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