二股と箱館
新政府軍の侵攻が始まった。
土方は二股に布陣する。激しい戦いが始まった。
一方箱館に残った勇だったが、思わぬ刺客に襲われる。
土方は守衛新撰組や衝鉾隊、伝習歩兵隊らを率いて市渡へと出陣する。
早速二股まで進軍すると台場山に本陣を置き前衛を天狗岳として陣を築きはじめた。
そして、翌日には二股口に築いていた天狗岳と台場山の胸壁はほぼ完成した。それを眺め渡して土方は満足げに頷いた。V字型に張り出した形で築かれた胸壁は、互いに補うことで死角ができにくいように作られていた。土方の考案だ。五稜郭を見て思いついている。
元々、天狗岳は前哨戦で破棄することも考えてある。
「調子に乗ってくれればもうけもんだ」
台場山の本陣が主力である。天狗岳を抜いたと思って出てきてくれれば一斉射撃でつぶせる、と土方は読んでいた。
天候も崩れてきたため土方は市渡へ引き上げることにした。
馬上にあって土方はふっと勇のことを思った。あいつは確かに言った。二股は決して負けないと。
思わず笑みが漏れた。
「どうしました総督。何かおかしいことでも?」
傍らを歩く隊士が怪訝そうに声をかけた。
「この戦い。勝つぜ。負けるわけにゃいかねぇ」
「勝てますか」
「勝てる。戦っていうのはな、意気と勢いと」
土方は振り返りながらニヤリと笑った。
「要領だ」
その笑みに隊士は確信を持った。
……この人の下にいれば間違いはない。
だが。
市渡に着いた土方は、大野右仲、大島虎雄ら指揮官を呼び集め会議を開いた。
「明日、明後日ぐらいには奴らは攻めてくるだろうさ」
静かな、冷静とも言える口調で土方が話す。
「まぁ、俺達の兵の数には限りがある。対してあっちは限りがねぇ。ここでの戦いにゃ勝てても最後には必ず負けるってのはわかってるさ。だがな、任せられた以上、みすみす負けるのは武士としての恥ってもんだ。俺はこの身でそれに殉じるつもりだ」
土方は並ぶ指揮官を眺め渡す。
「付き合わせて、悪いな」
「いえ、とんでもありませんよ」
「俺達の意地を見せつけてやりましょう」
漢達は口々にいう。
土方はふふっと笑ってそれを見ていた。
その夜、市渡の宿にいた土方は、市村に何気なく声を掛けた。
「なぁ、市村。お前は、三日後、斬られて死ぬって言うのと、いつかわかんねぇが遠からず死ぬってのとどっちが怖い」
その言葉にむっとした顔で振り向いた。
「俺は武士です。死ぬのなど怖くありません」
「はは……。言い方が悪かったな。じゃ、どっちが嫌だ?」
「そう……ですね。どっちも死ぬのは変わらないんですね。なら、いつかわからないと言うほうが好きじゃないです」
「何でだ?」
ほう、と言う顔で土方が問う。
「覚悟ができません。わかっているなら心構えも、身のふりもできますが。いつかわからぬ、何でかわからぬではどうしようも、何しようもないではないですか。ただ不安なだけです」
「ただ不安なだけ……か」
「はい……」
……勇はずっとその不安につきまとわれてるって事か。それは……辛いな……。
土方は箱館の街のほうへと目を向ける。
木々に遮られて町の灯は見えない。
一人残してきた勇のことが気にかかる。
この時代にただ一人放り込まれてしまった娘。何の力も、寄る辺もない。
……不安、か。
あいつはいったいいくつの不安を背負わなければならないのだろうと、土方は思った。
箱館病院で過ごすようになって数日経った。
「勇君の見回りはいつかって言う患者が増えて困ったもんだ」
水場で包帯を煮沸している勇の横で、水を飲んでいる凌雲がこぼしている。
「俺が包帯を換えに行くと露骨にいやな顔しやがる」
「わかりました。後から水差しの水換えに回りますから」
「頼むよ。連中に一回は顔見せてやってくれ。五月蠅くてかなわん」
そう言うと診察室へと戻っていった。
勇は包帯を干すと水差しの水を換えにまわりはじめた。
箱館病院で過ごすのにもなんとか慣れた。
新政府軍との戦端が開かれ、戦地から怪我人が大量に運び込まれてくる。勇は病院の戦力として駆け回って過ごしていた。
夜にベッドを見て回るのも怖くはない。手先が器用な分、包帯替えも凌雲先生の次なくらいにはやい。部活でのバンテージをやっていたおかげだ。
患者の中には勇が回ってくる鈴の音を心待ちにするものも少なくない。
戦闘が始まって以来、搬送されてくる兵士の数は一気に増えた。
大きな怪我をしているものも増えた。運び込まれてくる、血まみれの姿にも慣れてしまった。
包帯を替え、傷を消毒し、替えた包帯を洗った後煮沸する。
アルコールで傷を消毒すると言うことを凌雲に進言し、強い焼酎を手配してもらったり、殺菌の概念を伝え、使った包帯を煮沸することを始めたのは勇だ。水分の補給という考えを持ち込んできたのも、砂糖と塩でつくった飲みものを患者に飲ませ始めたのも勇だった。
これらは、皆、勇の知る現代の常識からでている。
凌雲は、思わぬ知識に勇への認識を新にしていた。
もっとも、五稜郭に出入りしていたために、勇のことを知る者も少なからずいる。
治療の手伝いで走り回る勇を、彼らが目で追う。声を掛けてくる。
彼らの支えになれているのだろうかと、ふと思った。
ちりりりと腰の鈴を鳴らしながら外に干してあった包帯を回収に病院を出た。空の一部はまだ青い。
軍服の上着は脱いで白衣を羽織っているがシャツとズボンはそのままだ。白と黒のモノトーン。その中で腰に結んだ緋色の下げ緒だけが鮮やかだ。
腕にいっぱいさらしや包帯を抱えて病院内の廊下を歩く。使いやすいように巻き直さなければならない。急いで部屋に向かう。
「歳三さんのいる二股は戦闘が始まったのかな……」
勇は小さく呟きながら、窓ガラス越しに海の向こうにある台場山の方へ目をやった。
曇った空だったが台場山は何とか見える。 今はすでに山桜も散っただろう。もう初夏だ。
……歳三さんが戻ってきたら……その時には、全てを委ねよう。
勇は心を決めていた。
実際の所、土方の裸は見慣れていた。着替えの手伝いは毎度のことだし、万屋で入浴する際の背中を流す役目は勇にふられていたのだ。
「隊士に背中流すためだけに来いたぁ言えねぇし、丁サの人間にさせるってのも変だろうが」
そう言う土方の言い分も至極もっともで、結局の所勇は自作の紐パンと胸にぎりぎり巻いたさらしといういでたちで、これはビキニの水着だと自分自身に言い聞かせ、三助役に専念するしかなかった。
別にからかうわけでもなく、平然としている土方の態度に救われたが。
しかし、改めて土方の裸を思い出し……、その胸に抱きしめられ、その腕に包まれることを想像すれば。
顔が真っ赤に染まるのを止めることはできなかった。
その時、板張りの廊下はわずかに音をたてた。
「近藤勇というのはどなただろうか?」
ふいに後から男の声で呼びかけられた。
「近藤、は私ですが。何かご用でも?」
振り向いて答えたときだった。
人影がいきなり踏み込んできた。勇は反射的に数歩後へ飛びすさる。が、
「!」
左脇腹に焼け付くような痛みが突き抜けた。体の中まで火が走った様な熱さ。声が出ない。
ちりりりりと鈴が鳴った。
「勇ちゃんかい?わりぃが包帯換えてくれよ。解けちまった」
横の部屋から声がかけられる。
男はもう一度仕掛けようとしたが、部屋から人が出てくる気配を感じると、舌打ちをしてくるりときびすを返すと駆け去る。
勇はぼんやりと離れていく男の背中を見送る。脇腹が熱い。足をつたって暖かいものが流れ落ちる感覚がある。パタパタと液体の落ちる音が聞こえた。
かくんと足の力が抜けた。
立っていられない。そのままぐらりと倒れた。
一面に白い包帯が散った。その下をじわじわと紅い池が広がっていく。
「な……ん……で」
目の前が暗くなる。床に倒れたまま動けない。広がる暖かい血が体を濡らした。
遠く引き戸を開ける音がする。悲鳴、怒号。先生、と叫ぶ声がした。
「刀傷だ。一体誰が」
手術の支度をしながら凌雲が吐きすてる。
「病院内で人を斬るたぁどういう了見だ」
手術台に寝かされた勇の傷はかなり深かった。麻酔を使わないので口に布を噛ませる。助手に手足をしっかり押さえ込ませた。すでに意識のない体だが、体は反応する。
以前使った薬は尽きてしまっている。
傷を注意深く縫っていく。腹の中にある傷も。
凌雲はその傷を見ると顔が曇った。
……あまりよくねぇな。深すぎる。
最悪の結果が頭をよぎった。
この日、四月十三日。
そして、その手術の行われている午後。
二股口には新政府軍が攻撃を仕掛けてきていた。
圧倒的な物量。兵の数は三倍はあった。
地の利をいかして戦っていたが、天狗岳の陣は迂回して裏から襲ってきた長州兵のため台場山に退く。
しかしこれは、土方が想定していたことだった。
勢いに乗って進んできた新政府軍に、台場山陣地からの一斉射撃が待っていた。
官軍来るの報に市渡の土方が駆けつける。「土方提督。提督のおっしゃるとおりでした」 顔を紅潮させた隊士が銃に弾を込めながら言う。
「我々は負けませんよね」
「ああ、当然だ。決して負けねぇ」
腕組みをした土方は言いきった。
激しい銃撃戦が続く。
ひっきりなしの発射音。弾の木々の葉をかすめる音が、まるで雨が降っている音のように聞こえる。木の幹に当たる爆ぜるような音。 互いの陣地は火薬の煙で白くけぶり、互いの距離は三百歩も離れるか離れていないかの至近距離だ。その間をいくつもの火線が行き交う。
夜ともなると天候が崩れた。
大雨の中、銃撃戦は続く。離れてみれば二つの陣営の間に光が見えるだろう。
土方軍は新政府軍に比べ旧式の銃だ。雷管が湿って使えなくなるのを防ぐため服の中に入れて乾かしながら使っていた。
やがて、朝日が昇った。
そして。
新政府軍は退いていった。
陣のあちこちには費やされた三万五千以上もの薬莢が散らばっていた。
兵士達は銃の火薬の煤で顔と言わず体中真っ黒になり、それを見たフォルタンがブリュネあてに書いた報告書で悪党もどきと冷やかしていたくらいだった。
そんな徹夜の攻防戦も、新政府軍が退いたために収束した。
「退いたか……。ま、また来るだろうが」
土方は呟くと、市村を呼んだ。
「五稜郭へ行く。付いてこい」
五稜郭に着いた土方は、榎本に戦況を報告し、兵の増員と物資の補給を要請した。
そして。
土方は自分の室で市村に向かって言った。
「市村。お前に一つ命令がある。骨の折れるもんだがやってくれ」
「はい、なんでしょう」
土方直々の命である。市村は緊張して土方の前に立った。
「お前はこれから江戸の日野宿の佐藤家に向かえ。この写真とこいつを持ってこれまでのことを伝えてくれ」
そう言いながら腰に差していた兼定を外した。
市村は驚いた。まさかこんな命が下されるとは思ってなかったのだ。
「俺に……落ちろと言うんですか」
「……」
「嫌です。そんな命令は受けることできません。俺は最後まで先生と共に戦います」
「市村ッ」
黙って聞いていた土方だが、ふいに怒鳴った。
「言いてぇことはそれだけか?」
低く静かな声で言う。凄みのある口調。
「嫌だッてんなら……ここで斬る」
手にしていた兼定をすらりと抜いた。
鋭い眼光。殺気がこもる。本気なのだと、わかる。
市村はがっくりと肩を落とした。
「なんで……なんで俺なんだ……」
やがてしゃくり上げると泣き出した。目を何度も腕で擦る。
「俺は……先生といたかったんだ……」
呟く口調は、諦めているものだった。
市村は土方の命令に従うことを了解した。「日野の佐藤家の彦五郎さんはお前の面倒を見てくれるはずだ。気をつけて行けよ」
市村はぐいと目を拭った。
「あの、土方先生。一つお願いが」
「何だ?」
「あの……勇に……会っていっても……良いでしょうか」
俯いたままだが耳が赤くなっている。
「そうだな。会っていってやれ。ついでに俺は無事だといっといてくれ」
「はい」
「夕刻までには戻れ。俺の馬を使ってかまわねぇから」
市村は飛び出した。
馬を駆けさせて箱館の町、箱館病院に駆け込んだ。
「お願いいたします」
市村は声を張り上げた。
やがて足音が聞こえ、箱館病院に詰めている藩医の一人が出てきた。
「怪我人か?病人か?」
「あの……こちらにお世話になっている近藤君に面会を……。今忙しいのなら待ちます」
市村の言葉にその男はうっ、と言葉に詰まる。
「少し待ってくれ」
慌てた様子で中に入っていく。市村は邪魔だったのだろうかと不安に思った。が……、「市村君か……」
そう言いながら出てきたのは病院頭取高松凌雲だった。浮かない顔を見せる。
「面会か……。いずれは知れることだ」
小さく呟くと、
「あがりたまえ」
そう言った。
凌雲が前を歩き、市村がついていく。
廊下を通り診察室を抜け、診察室の奥にある戸に手をかけた。
市村は不思議に思った。
ここで手伝いをしているはずの勇に会いに来たはずなのに、なぜ。
「大きな声をたてるなよ。あと……、取り乱さないで欲しい」
そう言うと凌雲が戸を開けて畳の小部屋へと入っていった。
市村が後について入ったのだが、そこで息をのんだ。
微かに、だが確かに血の匂いがする。
小さな部屋の端に、布団がひかれている。 そこに横たわる小さな姿。
「い、勇……」
呆然とその姿を見つめる。
「三日ほど前、病院に入ってきたものに斬られた。どうも彼女が目的だったらしい」
「何で……何でです。こいつは隊士じゃないし、武士じゃない。斬り合いなんて縁がないはずなのに」
「……」
凌雲が黙り込む。ややあって、
「すまん」
と、頭を下げた。
「あ、いえ。すいません」
市村は慌てて謝った。
「側にいてもいいですか」
「ああ、無理させなければかまわんよ」
市村は腰から刀を外すと勇の枕元に座った。
苦しげな息で目を閉じている姿を自分は何度見ただろうかと思う。
そっと手をとった。
熱いかと思っていた手は、ひやりとしていた。
「何で……お前がこんな目に……。戦場に行ってる俺が無事で、町にいたお前が斬られなきゃなんないんだよ」
手を握る手にぐっと力がこもる。
……どくん、痛い。……ドクッ、痛いっ。
脈拍に合わせてえぐられるような痛みが体を走る。
勇は、ふと顔に触れる物がある感覚に目を開けた。
見えたのは悲しげな目で見つめる顔。
「いち……村君」
「よお、目が覚めた?」
頬に手があてられている。指が目のあたりを拭っているから、きっと自分が泣いていたのだろうと想像した。
「何でいるの?」
「今、二股から戻ってきてるんだ」
そう言う市村の目に見る見る涙がたまっていく。
「土方先生に……落ちろと、江戸に行けと言われた」
たまった涙が頬をつたって流れた。
「先生は、俺を……」
「そっか。今日は十五日なんだ」
「今日この後五稜郭を出ないといけない。だから勇に別れを言いにきた」
「そうか。日野に行くんだ」
「知ってるのか」
「うん」
市村は唇をかみしめる。
「何で俺なんだよ。俺だって最後まで戦いたいんだ。みんなと最後まで戦って……土方先生となら死んだっていいんだ。なのに……何で俺に日野になど行けと言うんだよ。俺じゃ役に立たないって言うのか?足手まといだって言うのか?ガキだからって……」
「それは……違うよ」
勇がきっぱりと言った。
「市村君。君が役立たずだからとか言うんじゃない。君にしかできないから土方さんは言ったんだ」
「俺にしかできない?」
「市村君……君、京で巡察にでてたことある?」
市村は虚をつかれたように顔を上げた。
「え……。いや……。俺、両長付きだったし、ガキだったし……巡察には……」
「だろうね。だからだよ」
「?」
微笑む勇に怪訝そうな顔を向ける。
「東京は今、薩摩長州などの新政府の兵がいっぱいなんだ。今、新政府の中心は東京だからね。まして日野や多摩は元徳川直轄の場所だよ?監視が厳しい。そんな中、新撰組にゆかりのある佐藤家に行くんだ。ものすごく危険なことなんだ。わかる?」
「……」
「でも、どうしても土方さんは伝えたいんだ。新撰組がどう戦ったか、何のために戦ったか、そして、土方さんがどう生きたか。忘れて欲しくないんだ。何としても伝えたいんだよ。故郷の人に。そんな中に行けるのは彼らに顔を知られていない君しかいないんだよ。君を信用してなくてどうする?」
「俺を信じてくれてる……のか?」
「大体、君を落ち延びさせたいだけなら、先日まで会ってた酒井様や懇意にしてるブラキストンさんに託せばいいんだ。いや、そんなことしなくても、隊の誰かに君と一緒に落ちろと一言命じればいいだけだよ。何のために君一人で日野まで行けなんて言う必要がある」
勇の言葉は強くて反論できない。
「そう……なのか?土方先生は……俺に……俺を信じて……」
「そうだよ。そして君はやり遂げる。日野へ確かに彼らのことを伝えるんだ。彼らの生き様、戦い、土方さんの生き方を。君が一番土方さんの側にいたんだ。君が一番知ってるはずだよ」
勇は大きく息を継いだ。遠い目をする。
「あたしは……君の届けた兼定を見て育ったんだよ。あの朱鞘の刀を。あたしはきっと幼い頃からあこがれてたんだろうな。その刀の持ち主に」
手を伸ばし市村の手に触れる。
「そして、市村君が苦労してあたしのためにみんなを集めて写真を撮った時。その時撮った土方さんの写真がずっと残っていくんだ。だから、この役目はとても大切なんだよ。君は、新撰組の戦いを伝えたことで歴史に名を残すんだ」
「俺の……役目」
「君がやらなきゃ新撰組はただの人斬り集団で終わってしまうよ?薩長の連中はそんなふうにしか記録に残さない。それでもいいの?」
「それはできない」
市村は叫んだ。
「わかった。俺、行くよ」
ぐいと目を拭う。
「まったく……最後まで手がやけるよね。市村君は」
「お前に……勇に言われたくねぇよ」
ぷいと横を向く市村に勇は微かに笑った。「市村君、携帯取ってくれる?」
市村が黙って携帯をわたす。
受け取った勇は苦労してストラップを外す。ラピスラズリの小さな丸いプレートがついているもの。それを市村の手に落とした。
「持っていってよ。これ、守り石だからきっと市村君を守ってくれるよ。根付けのようにりっぱなのじゃないけど、あたしが今あげられるのはこれくらいだから」
市村はじっとそれを見た。
「ありがとな」
市村はゆっくりと立ち上がった。
「じゃ、俺もう行くから。早くよくなれよ」
「市村君、お願いがあるんだ」
「何?」
「あたしのこと、土方さんに言わないでね」
意外なことに市村が目をむいた。
「何でだよ。気にしてるぜ」
「だから。いらない心配はかけたくない。この後も二股での戦いが続くんだ。負担になるようなことは少しでも少ない方がいい」
「お前、それでいいのか」
「うん。約束だよ」
市村はため息をつきながらうなずくと出口へと向かった。
「あ、と。市村君。あともう一つ。約束して欲しいことがある」
市村は戸に手をかけたところで振り向いた。
「鹿児島に……薩摩には行かないって約束して。絶対に薩摩の地は踏まないと、今ここであたしに約束してよ」
「薩摩?何で」
「何でもいいから。絶対に薩摩に行っちゃ駄目。約束してよ」
勇の知る市村は、やがて鹿児島でおこる西南戦争に身を投じ、そこで……命を落とす。
「わかった……約束する。俺は薩摩には行かない」
その言葉に勇はにっこりと笑った。
「ありがと。鉄、元気でね」
「ああ、お前も早くよくなれよ。また、東京で会おう」
そう言うと戸をくぐる。
襖を後ろ手に閉めた。
顔を上げると高松凌雲が目の前にいた。
「もう、いいかい」
「はい……。勇は……あいつの具合は……」
「……手は尽くした。俺のできるのはここまでだ」
その言い方に不吉なものを感じる。
「多分……もたねぇ」
聞きたくなかった言葉が告げられる。
「そんな」
「手術のあと気がついたときも、土方さんに言うなとうわごとみたいに言っていた。何でそこまで人のことを気にするのか。辛いだろうに」
「辛い……」
「斬られた傷が深くてな。痛いだろうが痛みを紛らわす薬もねぇ。だが、あの子は言わないからな」
市村は手にしたストラップを握りしめる。
「よろしくお願いします。あいつを……死なせないでください」
凌雲は市村の頭を二三度叩くと玄関まで見送りにきてくれた。
「君も気をつけて行け」
そう告げる凌雲に市村は深く頭を下げると馬を駆けさせた。
五稜郭に着いた頃には日は西へと沈みかけていた。
「遅かったな。勇とちゃんと別れはしてきたか」
優しげに声をかける土方に思わず本当のことを言いそうになる。
「はい。あいつ餞別だとこれをくれました」
手の中のストラップを見せる。
「そうか、ではこれを頼む」
手渡されたのは紙に包まれた物と畳まれた手紙。そして袋に入った刀と金の入っているらしい巾着だった。
「こいつはホトガラだ。この書付には彦五郎殿への文がしたためてある。こいつを落とさねえよう肌身につけて持っていけ。英国商館は知ってるな。勇が懇意にしてたとこだ。そこの主人に話がつけてある。あの人の所にきた船が数日中に横浜へ向けて出航するそうだ。そこに乗せてもらえるよう話はつけてある。これは金。五十両ある。路銀だ」
土方はてきぱきと手はずを伝えていく。
「さて、そろそろ暗くなってくるな。いい頃合いだ。すぐに行け。行ったらすぐに船に乗るんだぞ」
市村の肩をぽんと叩いた。
「気をつけていけ。元気でな」
「あっあの。土方先生」
「ん?」
市村がせっぱ詰まったような声で土方に声をかけた。が、何を言えばいい。勇は自分のことは言うなと言ったのだ。なら……別れを告げればいいのだろうか。言葉に詰まった市村が俯いて肩を振るわせる。
「俺は……俺は土方先生が好きでした。人は鬼だとか怖い人だとか言いましたが、誰より優しい方だと俺は知ってます」
顔を上げた。
「死なないでください」
土方は優しく微笑んだ。
「お前もな」
市村は一礼すると土方の部屋を出た。
誰とも話さず、そっと本陣を出る。
五稜郭、その門をくぐった。半月堡の所で振り返る。ずっと共に過ごしてきた場所だ。
「あれ、は……」
城門の側。土方が立っている。
何気ない風で。まるで風に当たりにきたような姿で立っている。
市村はその姿に一礼すると駆けだした。そして、その姿は宵闇に紛れて見えなくなった。
「行ったか……」
そっと呟くと土方は本陣へと足を向けた。




