宮古湾海戦
いよいよ戦が始まった。
三陸沖の嵐にあった土方達は仲間の船とはぐれたった一隻で奇襲をかけることになる。兵力にも劣る彼らは次々と倒れていく。
回天は夜の闇を進む。
土方の船室のドアを叩く者があった。
「誰だ」
「俺です。もうお休みですか」
「野村か。入れ」
ドアを開けて野村が入ってきた。
船室にはランプが灯され、淡い光に包まれている。
「話が……あるんですが」
「何だ。改まって」
「副長に聞きたいんです。あいつのこと……勇のことどう思ってるんですか」
「何だよいきなり」
椅子に座ったまま口の端に微かな笑みを残して土方が言う。
「夜中に来て聞くことか?」
「俺には……時間がないんで」
「?」
「俺は……あいつが愛おしい。ずっと守ってやりたいと……そう思ってました」
「なら良いじゃねぇか。俺ぁお前に託しただろうが」
「でも、俺じゃ駄目なんだ」
「どういうことだ」
静かな野村の声と逆に、土方の声は荒くなった。
「あいつは……副長、あんたに惹かれてる。あいつの目はあんたを追ってる。あいつにとっては副長、あんたは最初から特別だったんだ。会ったときからあいつにとってあんたは別格なんだよ。俺じゃ駄目なんだ」
野村の声はだんだんとイライラしたものになっていった。思わず土方の胸ぐらを掴む。
「あんただって。あんたにとってもあいつは特別なはずだ。会ったとき。はなっからあいつは別格だったはずだ」
「……だからどうだと言うんだ……」
土方の声は押し殺したように低い。
「何であんたはあいつの思いに応えてやらない。あいつは、遠からず自分の気持ちに気がつく。そんときあんたが応えてやらなきゃあいつの心はどこに行きゃいいんだよ」
「だからお前に託したんだろうが……」
「俺じゃ駄目なんだって……」
野村の声のトーンが下がった。
「泣き言か?だらしねぇな」
「副長っ」
怒鳴った野村に、土方は静かに話し始めた。
「俺は、薩長の連中に頭なんか下げねぇ。奴らの元に下ることはねぇ。大体、あいつらに許されたりなんかした日にゃ地下の近藤さんに合わせる顔がねぇ。俺はこの戦が終わる頃には生きてるつもりはねぇんだよ」
顔を上げた野村に土方は微笑んで見せた。
「だからお前に託すんだ」
それを聞いた野村はふっと目をそらし寂しげな笑みを浮かべた。
「俺には……無理です。俺は……この戦いで死ぬようですから」
「なっなんだと」
土方の目が大きく見開かれた。
「どういうことだ」
「あいつが……言ったんですよ。甲鉄に近づくなと。死んじまうと。もっともうわごとで言ってたことなんで、あいつはわかっちゃいないんだろうが」
「野村……。なら、おめぇは攻撃に関わるな」「何言うんですか。俺は武士です。逃げるような無様なまねはしたくねぇ」
くってかかる野村に、ふと土方が気づいたように、
「ん?まてよ。斬り込みかけんのは高雄と蟠龍だぜ。回天は他の船を牽制するための役目だ。甲鉄に乗り移る役目は振られちゃいない」
と言った。
「副長。運命ってやつは皮肉だ……。今、俺は回天に乗っている。あいつが乗るなといった回天に。賽の目はどう転ぶかわかりゃしない。俺は……、ずっとあいつの側にいてやりてぇ。あいつは思う以上に脆い奴なんです。強そうな風を装うけど誰より傷つきやすい奴なんだ。だから……守っていてやりてぇ。だから死にたくはねぇんだ。だが、それ以上にあいつに胸のはれる男でありてぇ。漢らしい男でありたいんだ」
「野村……」
「すいません、副長。愚痴っちまって。言っておきたかっただけなんです。……ああ、まったくっ。今日の俺はどうかしてる。あいつの口、吸っちまったり、嫁になれと言っちまったり」
頭をがしがしとかきむしる。
立ち上がると、てれたような顔を向けた。
「バカなこと言っちまいました。すんません」 野村は頭を下げるとドアを出ていく。
「野村」
その時土方が声をかけた。
「生きろ。何があっても死ぬんじゃねぇぞ」 野村は一つ頷くとドアを閉めた。
三鑑は南へと進んだ。鮫港に寄港し、ついで大沢港へと進路を向けた。
だがその日から、海は荒れ始め、暴風雨に三鑑はばらばらになっていく。
風と波にもみくちゃにされながら回天はかろうじて進んでいる。
「まったく、俺達は天に嫌われてんのか……」
揺れる艦内、壁に何度も叩きつけられながら土方は呟いた。
二十四日大沢港に着いたとき、回天一隻だった。やがて高雄が入港してきたが、蟠龍はいくら待っても現れない。
「甲鉄は宮古湾に入っているそうだ。もうこれ以上待てん。蟠龍は捨て置いていく」
今回の攻撃責任者である甲賀は全員に向かって告げた。
「出航する」
回天と高雄の二鑑で宮古湾に向かうが、高雄が機関部の故障で脱落していった。
二十五日。
回天一鑑のみで宮古湾へと侵入した。
朝日もまだ昇っていない、夜明け前の紫色の空。
海上に蟠龍の影はない。
結局は、勇の告げたとおり回天が攻撃を仕掛けることになったのだ。
「ふ……。結局回天が斬り込みをかけるか……。皮肉なもんだな。斬り込みっていうと新撰組におはちがまわってきやがる。おい、野村。おめぇは下がってろ」
嵐で外装をむしり取られた外輪の回る様を見つめながら土方が言った。頭上にはアメリカの国旗がはためいている。
見ると、遠く港の側に甲鉄の姿がある。戊辰や春日全部で八鑑。そこにたった一鑑で攻撃を仕掛けようというのだ。無謀とも言えるのはわかっている。
マストが折れて二本しかなくなっていたため回天だと気がつかれることもなく鑑は進む。
「アボルダジェ」
星条旗が下げられ日章旗に替えられたとき甲賀が叫び、砲撃をしながら甲鉄へと突っ込んでいった。
しかし、回天には大きな障害があったのだ。 甲鉄の甲板との高低差である。かるく二メートルは超す高さに斬り込み要員の足が止まる。しかも、艦首から突っ込んだため飛び降りられる場所がおそろしく狭い。二人同時がやっとである。
ぐずぐすしているとき、大塚波次郎が名乗りを上げて飛び降りた。海軍の意地である。 他の兵士にハッパをかけようと土方が息を吸い込んだときだった。
自分の横を駆け抜けていった者がいる。
「新撰組、野村利三郎。参る」
目の前を野村が叫びながら、抜刀して飛び降りていった。
「ばっ、あのバカ野郎っ」
土方が思わず身を乗り出した。
甲鉄へはぱらぱらと斬り込み隊が飛び降りはするが、大勢は斬り込めない。圧倒的に多勢に無勢である。甲鉄甲板で繰り広げられる白兵戦は数少ない旧幕軍の者達の奮戦によってかろうじて拮抗しているかに見えた。
「ぐっ」
野村は胸に強い衝撃を受けてはじき飛ばされた。一瞬息が止まり意識が飛んだ。
「おい、大丈夫か」
相馬の声がする。
「あ……。ああ、大丈夫だ。何があったんだ」
起きあがると、周りを見回した。少し影になっているところへ相馬が引っ張り込んでくれたらしい。
「当たったらしいな。怪我はどうだ」
相馬が刀を構えながら野村に顔を向けた。 そう言われて野村は胸元を見た。
穴の空いた軍服。だが……胸元からかちんと音がして鉛の欠片が落ちた。
「?」
手を当てると固い。ボタンを外すとそこには碧玉のプレートがあった。一部欠けてヒビが走っている。
……勇の守り石か。あいつが守ってくれたのか。
腕を広げ相手に立ちはだかる姿が見えるようだ。
……ありがとうよ。
野村は立ち上がった。
と、バララという音が聞こえてくる。
その音のするほうへと目を向けると、
「な……ガットリング砲か」
連射式のガトリング砲が火を噴き、甲板にいる斬り込み隊をなぎ倒していた。
「くそっ」
野村は刀を握り直すと飛び出した。
「野村ッ」
後を追ってきた相馬が足を打ち抜かれもんどり打って倒れる。
野村は弾が顔をかすめたがそのまま駆け続ける。ガトリング砲へ向かって。肩を、脇腹を弾が貫いた。焼ける痛みが走る。だが止まらない。
「この野郎」
野村はガトリング砲のハンドルを回していた砲手を切り伏せた。砲の向きを変えると敵方に向けて弾をばらまく。
あっという間に弾は尽きる。
野村は刀を振り上げると、機関部のハンドル部分の歯車に向けて突き立てた。そして自らの刀の刃を折った。
「へっ、ざまぁみやがれ。暫くこいつは使えねぇぜ」
言い捨てると、倒れている相馬の元へと駆け寄る。
「おい、生きてるか」
「勝手に殺すな」
相馬が苦笑いをする。
「お前は回天に戻れ」
肩を貸しながら回天の下までたどり着くと、見上げて叫ぶ。
縄ばしごが投げられた。
「しっかり捕まってろよ」
相馬にいうと、引き上げるよう叫ぶ。
ゆっくり引き上げられる相馬を見送る。
ふと見上げると土方が見下ろしていた。
「野村、お前も上がれ。甲賀さんも撃たれて死んだ。この戦いは失敗だ。退くぞ」
土方の声に野村は首を振る。
「俺は殿をやります。一人でも鑑にもどさねぇと」
ふいに斬りかかってきた兵士を脇差しで一刀の元斬り捨てた。
回天の外輪が逆回転をはじめ鑑はきしみながら離れていく。
生きていた最後の一人をロープに縛り付け、野村がその端に掴まったときだった。
野村達の掴まっているロープを引き上げるために身を乗り出している土方に向けて銃口を向けている者がいる。
「くっ」
野村は手を離すと、脇差しを抜き投げつけた。投げられた刀は射手の胸を貫き、向きの変わった銃口から発射された弾丸は土方の頭上を飛び去った。
しかし。
脇差しを投げつけ、無防備な状態になった野村の体に何発もの銃弾が撃ち込まれた。
胸や腹から真っ赤な血が噴き出す。
「野村っ」
土方は叫んだ。
思わず飛び降りようとするのを、周りにいた者に押さえ込まれた。
「離せッ。離しやがれ。野村ぁっ」
両腕を掴まれながら野村に向かって叫び続ける土方に、野村がゆっくり振り返る。
その顔には……笑みがあった。
口がゆっくり動く。
……あいつを……たのむ。
ぐらりと体が傾くと、船縁を越えてゆっくり海面に向かって落ちていく。紅い軌跡を描きながら。野村の体を飲み込んだ海面は一瞬赤く染まったが、直ぐに元の青い色へと戻っていった。
回天は甲鉄から離れるとゆっくりと宮古湾を出ていく。
戦いの時間はわずか三十分。
湾の外で蟠龍と合流して箱館に向かった。途中再会した高雄は機関部の故障のためついていけず羅賀に乗り上げ自ら火を放った。
土方は離れていく朝日に光る宮古湾を唇を噛みしめながら見つめていた。陸地は春。花は咲いているのだろうか。
「ばかやろうが……」
白くなるほど手を握りしめた。
「退院しちゃいけませんか」
腕の包帯を高松凌雲に替えられながら勇が訊いた。
「そんなこと訊くのかね。もうすこし安静にしてなきゃならん時に勝手に飛び出すわ、転んできたのか傷だらけ血だらけで帰ってきたくせに。あの時飛び出したりしなきゃ今頃は帰れたはずだがね。怪我の手当て分と無茶した分明日まで寝てることだ」
勇は黙ってうつむいた。返す言葉もない。 今日は二十四日。
明日が宮古湾海戦として有名な戦いの日だ。
……野村さん。死なないでね。
そう呟きながら、目を閉じる。
明け方だろうか、まどろんでいるとふと人の気配がした。
頬に誰かが触れている気がする。大きな手。優しく頬を包む。唇に柔らかなものが触れた気がする。
はっと目を開けた。
起きあがり辺りを見回す。誰もいない、いた気配もない。
「夢……。あたし、眠ってたの?」
その時、窓の向こう朝日が昇った。
「夜明け?早朝……」
自分の言葉に震えた。
思わず口元を押さえる。
……野村……さん。
自分の両腕を抱きしめうずくまった。
涙があふれてくる。体の震えが止まらない。
情景が浮かんでしまう。
きっと、野村は帰ってこない。
また、歴史は変わらなかった。自分は何もできなかった。
勇はその日の夕刻万屋に戻った。
二十六日。
一人万屋の離れで膝を抱えていると、市村が呼びに来た。鑑が入港するというのだ。
勇は市村と共に港へと駆けだした。
「船が……二隻……」
市村が呟く。
「高雄がいないんだよ」
勇が呟く。
やがて鑑は接岸し、回天から土方達が降りてきた。安藤に肩を借りて相馬が続く。しかし、その後ろに……野村の姿はない。
「勇……」
立ちすくむ勇の姿を認めて、土方が近寄る。 かけるべき言葉がない。
「野村さんは……蟠龍?」
「……野村は……いねぇ」
やがて思いきったように告げた。
「あいつは帰ってこねぇ」
勇は土方の言葉に頭を振る。
「帰って……くるよ。約束したんだもの」
小さく呟く。
「野村さん……今まで嘘言わなかったもの」
顔を上げた。今にも泣きそうな、潤んだ瞳が全てを知っていることを告げる。でも、
「あたし、待ってる。もう少しここで待ってるよ。きっと蟠竜に乗ってるんだ。あたし、ここで迎えるって約束したんだ。だから待ってるよ」
そう言うと岸壁の方へと歩いていく。
土方はその背中を目で追うと、迎えに出ていた島田魁に低く告げた。
「島田。あいつを……置いてはいけねぇ。落とせ」
島田は黙ったまま一つ頷く。
勇の横へと歩み寄ると、
「勇君、失礼」
と、声をかけた。えっという風に勇が顔を向ける。
その瞬間。
島田が勇の首に腕を回し、素早く絞め技を掛けた。
「あ……は……」
開いた口の端からひとすじ、つう、と雫が流れる。次の瞬間には糸が切れたように島田の腕の中に崩れ落ちた。
その体を抱き上げて土方のもとへと戻る。
「見事だな。たいしたもんだ」
「鍛錬のたまものです。しかし……かわいそうですね」
目から流れ落ちた雫の跡が見える。
「屯所に連れて行ってくれ。俺は五稜郭へ行かねばならん。目を離すなよ」
気がついた。
自分が何処にいるのかわからなかったが、周りを見回すと、見覚えがあった。
「称名寺……、屯所だ」
勇はゆっくりと起きあがると、布団の上で膝を抱えた。
……また、あたしは何もできなかった。野村さんを助けられなかった。野村さんを死なせたのは……あたしだ。あたしのせいだ。
野村の顔が浮かぶ。
お酒が好きで、少し酔うとやたら陽気になった野村。自分のためにいつも体を張ってくれた。動き回ろうとする自分のためにいつも振り回されながらも、それでも自分を守るために戦ってくれた。
優しい人だったのだ。
涙がこぼれ落ちた。
嗚咽が漏れ……やがて声を出して泣きだした。声を上げて泣いたのはこの世界に来て初めてだったかも知れない。いつもは声を殺して泣く癖が付いていた。
ただ、泣いた。泣いて泣いて自分が無くなってしまえばいいと思った。
「なんか、痛々しい声だ」
部屋の前で立ちすくむ市村が呟いた。
「今はそっとしておいてやるんだな。泣きたいときに泣けないのは辛いからな」
島田が戸を見ながら言った。
「でも……死んだとき好きな娘にあんなに泣いてもらえるのは……本望かもしれない」
「泣いてもらえる、か。市村も意外なことを言う」
「俺、死ぬのは覚悟してる。自分でも納得してるよ。でも、俺のこと思ってくれる人がいるって言うのが嬉しいかも」
そう言うと、二人はそっとその場を離れた。 勇はずっと泣き続け、やがて泣きやんだときその瞳にはある決心が宿っていた。
勇は寝かされていた布団から起き出した。
部屋から出ると市村がむこうから歩いてくる。
「大丈夫なのか?」
そう声をかけてくる市村が近寄った次の瞬間、市村の視界から勇が消えた。
身を低くした勇は市村の腰から鞘ごと刀を抜き取るとそのまま腹に打ち込む。
あっけなく市村は気絶した。勇が自分のきていた上着を脱いでその体にかける。
「ごめんね……ごめんね……」
何度も気絶した背中に謝った。
そうしている勇の瞳にはどこかうつろな無機質な光がある。
市村から取ってしまった刀を手に歩いていると、
「勇君何してるんだ」
声をかけてきたのは中島登だった。
「倒れたと聞いたが」
中島が勇の肩に手をかけようとした瞬間、腹に突きがたたき込まれた。
すっと身を低くした勇が刀の柄を突きだしたのだ。
中島はたまらずに体を折って蹲る。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
勇はうわごとのように何度も謝ると、ふらふらと出ていく。
靴を履くこともなく裸足のままで。シャツのまま、上着どころか新撰組隊士の着る紫色のビロードのベストも着ていない。
「待て、待つんだ。勇君……誰か。誰かいないかっ」
中島は声にならない声で叫んだ。
宮古湾のいきさつを榎本に話した後、土方は休息のため五稜郭をでた。
馬を一本木関門までの真っ直ぐな一本道を進めていると、箱館の街の方から全力で馬を駆けさせてくる人影が見えた。
見ると新撰組隊士、沢である。
勇が刀を手に外へ出たと土方へと伝えた。
「何してやがった。目ぇ離すなと言ってただろうが。探せ。嫌な予感がする」
土方は沢を伴い馬を駆けさせる。
屯所である称名寺に着くと安富や島田達数人の古参隊士が走りまわっていた。
山門から出であちこち見回してみるがどこへ向かったか分からない。今は雪もないから足跡は残っていない。
「どうすりゃいいんだ」
中島が思わず愚痴ったときだった。
「これは土方さん。どうしたんです血相を変えて」
馬上からの声がした。見上げると額兵隊の星恂太郎だ。
「何かあったんですか?さっき勇くんを見かけたけど様子が変だったし」
「見たのか?」土方が問いかける。
「さっき町中で。刀なんか手にしていたので変だなと思って声を掛けたんですが、返事無かったしな。何か思い詰めたような顔して。野村君が亡くなったせいかと思ったんですが……」
「どっちに向かったっ」
せっつくような土方に気圧されるように星は答えた。
「港の方へ。でも居留区かな」
「星君、馬を貸してくれ」
あわてて飛び降りた星と入れ替わるように馬にまたがった土方は持っていた兼定で馬の尻を打った。
「お前らはあとで追ってこい」
勇はただ真っ直ぐ前を見て歩いていた。
向かうのは回天が出航していった港である。
……あたしは野村さんを止めなかった。あたしは彼を見殺しにしたんだ。
やがて波の音が聞こえてきた。建物の角を曲がるとそこは波止場だ。
そこで足を止めた。
遠く沖に目を向けた。鈍色の海の向こうに山陰が見える。
勇は市村から取ってきた刀の鯉口を切った。刀を抜くと鞘を足下へと置く。
目を閉じると刀を首筋に近づける。刃を返した。後は刀をひけば終わりだ。
その時だった。
「待てッ、勇っ」
声が響いた。
その時馬の蹄の音と共にキンッという金属の弾かれる音が響き、強い衝撃と共に手にしていた刀は遠くはじき飛ばされた。
傍らを駆け抜けていく馬のおこした風に樹木の香りが混じっている。
馬が駆け戻ってきた。馬から土方が降り立ち勇の前に立つ。
勇が自分の首に刃を当てているのを見て、今の今までぶん殴ってやろうと土方は思っていた。
しかし。
土方を見つめる勇の瞳を見るとどうしても手を挙げられなかった。
もし殴ってしまったら、きっとそのまま壊れてしまいそうな危うさが漂っていた。
しばらくの間じっと土方を見つめていた勇はやがて目を伏せた。
「私を斬って……」
微かな声で勇が呟く。
「終わらせて……。お願い……」
勇はうつむいたまま懇願する。
土方を追ってきた星と中島、そして島田魁が見たものは、力無く立ちすくむ勇を抱きしめる土方の姿だった。
「星君、暫く馬を借りても良いか」
勇を片腕で胸に抱いたまま土方が星に聞いた。
「こいつと少し話をしなきゃならんようだ」
「かまいませんよ。どうぞ」
「すまねぇな。新撰組の屯所に寄ってくれ。馬を貸す。おい島田」
土方が島田魁の方へ目を向けた。そこに落ちてる刀を拾うよう頼む。
「市村のもんだからな。返しといてやってくれ。鞘はこれだ」
鞘を拾って渡すと、ひらりと馬にまたがりついで勇を馬上へと引き上げる。
「屯所の連中、特に市村にいっといてくれ。勇は捕まえたってな」
そう言うと馬の腹を蹴る。
土方が向かうのは箱館山。
土方は山頂からの眺めが好きだった。
あたりに人影はない。急な細い山道をゆっくり馬を進める。
「あたしは……野村さんを見殺しにしたんだ」
黙り込んでいた勇が口を開いた。
土方は自分の長マンテルの前を開け、ズボンとシャツだけの姿の勇をくるんだ。また刀に手を出させないために馬に横座りさせている。
「あたしが野村さんを殺したんだ。止めれば……止められたはずなのに。止めなかった……あたしが」
声が切れ切れになる。
「あなたは明日死ぬんだって……言ってしまいそうで……怖かったから……言えなかった。あたしが……あたしの弱さが野村さんを殺した」
土方は思いがけない言葉に勇を見つめた。
「あたしには歴史を変える力なんて無い。それなのにこれから起こることを知ってる。ただ見てるしかないのに……」
勇の目から涙が流れている。
「いっそ狂ってしまえたら。知ってなければよかった。だから……歳三さん。あたしを殺して。もうこれ以上耐えられないよ」
土方は改めて思い至った。歴史を知ると言うことはこれからのことを知っていると言うことで、確かに強みではあるのかもしれない。が、……何が起こったかを知っているということは、そこで誰が死んだかということを知っているということと、時として同じ意味を持つことがある。
しかし土方は言いきった。
「それはできねぇ」
言葉を継ぐ。
「俺はお前を斬らねぇ」
「でも、あたしは……」
「苦しいのは分かる。今まで考えてやれなくて悪かった。だが、自らの命を絶つというのとは別もんだ。お前は俺達にとって救いになってるって事を忘れちゃいけねぇよ」
「……」
「辛ければ洗いざらい俺に言え。俺が全て聞いてやる。大体、俺に死ぬな、生き急ぐなといつも言うお前が、自ら死を選ぶなんて道理にあわねぇだろうが」
「……」
「だから全部俺に任せろ。そんなに俺は頼りにならねぇか?」
勇はかぶりを振る。声をたてずに流れ続ける涙は止まらない。
「泣いていいんだ、お前は。泣き声あげて誰かの胸で。思い切り泣けば少しは辛さが軽くなる」
勇は思う。
この人は今までどれくらい辛い思いをしてきたのだろうと。でも、人前では泣くことなどできなくて、人のいないところでひっそりと涙を流してきたのだろうと。
そんな人が自分に声を上げて泣けばいいと言う。
「う……あ……」
声が漏れた。
次の瞬間。
勇は声を上げて叫ぶように泣いた。
その頭を土方が自分の胸元へと抱き寄せる。土方の胸に顔をうずめ、軍服の胸元を握りしめて勇はただ声を上げて泣いた。誰かの胸で声をあげて泣いたのは初めてかも知れない。
やがて泣き疲れたときには、土方の軍服の胸元はじっとりと濡れていた。大きな手が髪を撫でているのにようやく気がついた。
土方はさっきまで優しげに話していた声を厳しいものに変えた。
「奉行並として命じる。これからは俺のために生きろ。俺の許可無く死ぬ事はゆるさん」
「歳三さん」
「その命、俺が預かる。その身も俺が預かる。勝手は許さねぇからな」
「なら……なら……歳三さんは死なないで。あたしに生きてろと言うなら歳三さんは死なないって約束してよ。絶対この戦で死なないと言ってよ」
勇は土方を見つめた。
「生きてて欲しいと……そう思うのはわがままなの?側にいて欲しいと願うのはいけないことなの?あたし、歳三さんが好き。だからっ」
勇は叫ぶように言う。
「あたしはもう大好きな人が死ぬのは見たくない!誰も死んで欲しくない。そんなの見るくらいならあたしがっ」
土方が勇の体をくいと後ろに引くと言いかけている唇を塞ぐ。口の中に滑り込む舌が言葉を塞いだ。その華奢な体は腕の中でもがいていたが、やがて大人しくなった。唇の端から一筋雫が流れ落ちる。
「もう……言うな。何も言わなくていい……」
土方は静かに言う。
「生きてろ。それだけで良いんだ。俺ぁ二人も『近藤勇』を無くして耐えられるほど強かぁねぇんだ。いいか、何があっても絶対に死ぬんじゃねぇぞ」
勇の頭は再びふわりと胸元へと抱きしめられた。耳元で囁かれる。
「わかった。俺は死なねぇよ。そして、ずっとお前の側にいてやる。約束だ」
勇はその言葉に顔を上げた。
「だがな……」
土方が静かに言う。
「奴は……知ってたよ。自分が死ぬだろうって事をな」
「なら、何で。死んじゃうのに行くの」
「俺達は武士だ。死ぬとわかっててもやらなきゃならんことはある」
「そんな……」
「あいつは、怯懦な男になりたくねぇと。お前に胸を張れる男でありたいと言った」
「じゃ、残されたものはどうすればいい」
「残された奴は……逝ったものの記憶を抱き、その思いを継いで生きていくんだ」
それは近藤亡き後の土方のことだった。多くの仲間の死を見、そして、戦い続けている土方の……。
「そんなのって……」
……辛すぎるよ。
勇は思った。
考えたくなかった自分のことと重なる。
やがて残していく人達の感じるはずのこの悲しみは……。
自分がとてつもなく悪いことをする気になる。だが……
「お前は後悔してるのか?あいつとすごした日々を」
えっ、と思った。
「無かったことにしたいと思うのか?忘れてぇと思うのか?お前が忘れちまえば奴のいた証はのこんねぇんだぜ」
野村とすごした日々は確かに自分の胸の中にある。だがら辛いのだが……、後悔などしない。無かったことになどしたくない。
「憶えててやれ。あいつを。お前が憶えている間は、あいつはお前の中で生きている」
「あたしの中で……生きてる……」
やがて、山道を登りきり開けた山頂にきた。
「おい、下を見てみな」
眼下には緑に染まった箱館の大地が広がっていた。
建物のないところの柔らかな緑と海の深い碧。
足下に広がる建物は西洋風なものがいくつも混在し、日本の風景と言うには少し違う。
どちらかというと勇の知る現代の街並みに近い。
「すごい。ずっと緑が続いてる」
集落の切れた先からは、緑色の絨毯をひいたようで、それはむこうに見える五稜郭、そしてその向こうへと続いている。
「一月前に見たときは一面雪で真っ白で……何にも無かったが。今は一面緑だ。何にもないように見えたところにも芽はあったんだな」
「前に来た時って……」
「俺ぁ、あちこち行ってんのさ。戦ッてのは地の利って奴がいるんでな。知っているってことはけして悪いことじゃねぇ。聞くだけじゃなく実際をてめぇの目で見て、てめぇの体でその場に立ち、てめぇの体で感じる。それでなきゃ自分の身にはつかねぇよ」
勇を胸に抱いたまま土方が何とはなしに話しだした。
「近藤さんを死なせちまった後の俺ぁ投げやりになってたよ。自分の命なんかどうでもよかった。自分が許せなかった。何であの時近藤さんを止めなかった、いや、何であの時腹を切らせてやらなかったってな」
土方が遠い目をした。
「俺はただ死ぬためだけに戦える場所を探してた。宇都宮で怪我しちまって思うように動けなかったから死ねなかったってだけだ。俺は薩長の連中を許せねぇ。あいつらに下げる頭なんてはなっからねぇのさ。近藤さんを殺されてその思いはますます強くなった。まぁ、奴らも俺を許しゃしねぇだろうさ。俺は、新撰組副長の土方だからな。実際に指揮を執ったのは俺だ」
言葉を切ると遠い目をしたままふっと寂しげに笑う。
「近藤さんのためにつくった新撰組だ。俺にとっちゃ近藤さんあっての新撰組なんだ。近藤さんのため、総司や山南さんや仲間のためにつくったはずの新撰組だったのに、気がつきゃ仲間は一人二人といなくなり、終いにゃ近藤さんまでいなくなってた。なのに何で新撰組だけが残っていやがる。俺にとっちゃ、もう、空っぽの抜け殻なのによ」
土方が胸の内をこんなに話してくれたことはない。勇は黙って話し続ける土方を見上げていた。
「その空っぽの新撰組って奴だけが俺の後をついてくる。俺は新撰組の幹部としてそいつを背負わなければならねぇ。俺は、局長だった近藤勇って男のためにも、みっともねぇ死に方は絶対にできなかったんだ。みっともねぇ死に方をしたら新撰組を汚しちまう気がしてな」
その言葉。勇はわかる気がした。武士にあこがれ続けて、誰よりも武士らしくあろうとした二人だったからこそ。
「死に場所を探して戦える場所を求め続けて……蝦夷に渡ろうと思ったのも戦える場所があると思ったからさ。だから榎本さんの船に乗った。だがな」
ふいに土方が勇に目を向けた。
「そこでお前に出会ったのさ」
その目は泣きたくなるほど優しい。
「風変わりななりをして、立つことさえできない体で……、それでも俺を睨み返して勝負を挑むような奴は初めて見た。近藤さんの末なんてぇ話は信じちゃいなかったが、何にもできねぇ、何も知らねぇ『近藤勇』を放っておくことは俺にはできなかった。だから、俺が守ってやろうと思った」
「歳三さんの側にいなかったら、きっとすぐに死んでたよ。あたし」
「かもな……。だがお前がいるようになってから、近藤さんが死んだときからずっと感じていた背中の寒さを感じなくなっていた。胸の中を風が吹き抜けるような感じも、体の芯が凍えるような孤独もな。確かにお前は『近藤勇』だったんだよ。俺が守りたかった近藤さんそのままだったんだ」
自分は土方の役に立てていたのだろうかと勇は思った。足手まといにしかなってなかったのじゃないかと思うのだが。
「男ってやつはな……その背中に守るべきものを背負うと強くなるのさ。強くならなきゃ守れねぇからな。そして、死ねなくなる」
「?」
「考えるんだよ。俺が死んだら誰がこいつを守るんだってな。だから死ねねぇ」
勇の目から再びひとすじ涙が流れた。
「お前は、俺に死ねないと思わせたのさ。たいしたもんだよ」
土方が勇の頭を自分の胸元へと抱きしめてくれる。
「近藤さんが……お前を送り込んだのかもしれねぇな。俺を死なせないために。まったくやっかいごとばかり押しつけてくれるぜ、勝太のやつは……よ」
そう言って、土方はうすく笑った。
二人が箱館の街へ目を向けると、たれ込めていた雲が切れた隙間から降り注ぐ光の束が緑の大地へと光の柱となって突き刺さっている。
「天使の梯子だ」
勇が呟いた。
箱館の緑の大地から天に昇っていく御使いたちが見える気がした。
その手には……きっと誇り高く死んだ武士の魂を抱えているのだろう、と勇は思った。




