田本写真館
甲鉄の奪回が決まり、その準備にざわめく箱館。
宮古湾海戦の結果を知る勇は自分の無力さを嘆いて。
五稜郭。
その会議室に幹部が揃っていた。
「ストンウォールジャクソン号が東京政府側に引き渡されることが決まったらしい。あの鑑が彼らの手にはいると制海権は一気にあちらが握ることになる」
榎本が苦しげに語った。
「徳川幕府が発注した鑑だぞ。くそっ」
思わず拳で机を叩く。
「榎本さん。あの鑑。こっちが分捕れませんか」
思い切ったように甲賀源吾が沈黙を破った。
「もともと我々の船なんですから分捕ってやりましょう。アボルダジュという方法があるそうです」
「接舷攻撃か……確かにそう言う戦法があるのは知っているが実際に記録は」
「榎本さん。我々には後がないんです。可能性があるならやってみるべきじゃないですか」
榎本に食い下がる甲賀はいる者に戦法の説明をする。
船を接舷して乗り移り甲板の出入り口を封鎖して拿捕するというものだ。
「理屈からいってもできないことはないはずです」
「斬り込みは陸軍の仕事だな……」
呟くように言った土方の言葉に一斉に目が集まった。土方はゆっくり顔を上げた。
「斬り込むのは我々が受け持つ。任せてもらおう」
「そ、そうか。土方君やってくれるか」
榎本が少しホッとした声で声をかけた。
「ああ。人選はこちらに任せてもらいたい」
その後は、攻撃の手順についての話となった。
「ストンウォールを奪う計画があるんですよね」
「よく知ってるな」
勇の問いかけに野村が振り返る。
しばらくうつむいていた勇だったが、思いきったように顔を上げる。
「あの、野村さん行くんですか」
「ああ、俺ぁ土方さんの添役介だからな。当然一緒に行くさ」
「行かないでって言ったら、行かないでくれますか」
「……それは、無理だな」
はっきりと野村は告げた。予想はしていたがきっぱり口にされると黙り込むしかない。
「俺の命は土方副長のもんだ。あの人に預けてある。だから、あの人が死ねと言えば俺は迷わず死ににいけるよ」
「京、島原での切腹騒ぎの件ですか……」
「よく知ってンな。ああ、あのみっともねえ俺をそのまま預かると言ってくれたんだ。俺ぁ今日まで土方副長を追って生きてきたんだ」
止めることなどできないと思い知らされる。
「そう……ですか。無茶はしないでくださいね」
「ああ、心配いらねぇって。俺らは斬り込み隊になってねぇんだ」
言いたくても言えない。
勇は頷くしかなかった。
その夜からこっそりと部屋を抜け出すと、屯所である称名寺の本堂にある仏像に願を掛けることを始めた。自分にできるのはこれくらいしかないのだ。
「野村さんを死なせないで……。誰も傷つかないで……。お願い……」
冷えきった真っ暗な本堂で仏像に向かって手を合わせる。
体は冷えきり、歯がガチガチとなるがかまいもせずにひたすら祈った。
そんな夜が数日続いた。
誰にも言わなかったのだが気がついたものがいた。
市村である。
ある夜、厠におきたとき、こっそりと本堂へと向かう勇の姿を見たのだ。
……何しに行くんだ?灯も持たずに。
気になった市村が足音を忍ばせて後を付ける。そして見てしまったのだ。暗い本堂の中手を組みうつむいている姿を。
「お願いします。お願い……します」
微かに聞こえる声。
何かを必死に祈るその姿に声をかけることなどできるはずもなく、そっと背を向けると立ち去ったのだった。
夜ごとの祈りは、勇の体には大きな負担となり、もともとあまり体調のよくなかった体をむしばんだ。
顔色は白みを帯び、倦怠感が襲う。頭が重く悪寒がした。
周りはストンウォール改め甲鉄の奪取に向けての準備に慌ただしさを増していた。
勇は何も言わず、周りにもゆとりがない。そんな状態でのある日。
「お、市村。勇君を知らないか。ぜんざいを作ったんで食べないかと声をかけに部屋に行ったがいないんだ。女の子は甘い物が好きだからな。喜ぶと思ったんだが」
そう声をかけてきたのは島田魁である。
大柄なこの男はごつい見かけに寄らず酒が飲めない大の甘党である。
「いないんですか?」
市村の問に島田は頷いた。
「もしかして……」
呟くとくるりと背を向けて走り出す。向かうのは本堂だ。市村の表情を見て気になったのか島田も後を追ってきた。
「心当たりがあるのか?」
「あいつ……夜中に本堂へ……」
廊下を駆け本堂へとたどり着く。戸を開けるが……姿が見えない。
いないのかと背を向けかけたとき、視界の端に何かが引っかかった。
あわてて目を向けると、柱の影に倒れ込んでいる人影がある。
「いさみっ」
市村はあわてて駆け寄ると抱き起こす。
力のない手から携帯が転げ落ちた。
引きつけるような荒い息。唇が震えている。「ひどい熱だ。とにかく高松先生の所に運ぼう」
島田魁はそう言うとぐったりとしたその体を抱き上げた。
箱館病院に運び込まれた勇を見るなり、高松凌雲の顔は曇った。
「ひどいな……。ともかく直ぐ入院させろ。そして……土方さん、呼んでこい」
ただそれだけを告げた。
勇は肺炎になっていた。
病院に駆けつけた土方、野村に向かって高松はため息と供に告げた。
「肺炎、だな。手は尽くすが今日明日が峠だ」
それを聞いた野村の顔は引きつり、黙って立つ土方は手が白くなるほど握りしめた。
土方の脳裏にはいつか勇が話した近藤家の少女の話が甦る。病を得て幼くして逝った少女。その姿がだぶる。
「副長。俺、しばらく付いていてやっていいでしょうか」
野村の問いかけにため息と供に頷く。
「二日、だ。それ以上は駄目だ。その間はこちらのことはまかせておけ」
土方は言い置くと足早に病院をでる。
馬を五稜郭へと駆けさせていると、暗い淵からのびた何本もの腕が勇の手や足を掴み、その底知れぬ深みに引き込もうとしている情景が浮かぶ。
……そんなことさせてたまるかよ。
思わず唇を噛みしめた。
……あいつはまだ何もしちゃいねぇ。何もなしてはいねぇんだ。
「勇。死ぬんじゃねえぞ」
土方は厳しい眼差しで呟いた。
病院に残った野村は濡らした手ぬぐいを勇の額へと置いた。
苦しげな表情を浮かべて眠る勇を見つめながら、
「何をしてたんだよ、お前は……」
と、問いかける。答えなどあるわけではない。
その時、戸を開けて高松が入ってきた。
「まだ、目を開けないか。弱ったな。薬を飲ませたいんだが」
見ると手に薬の包みを持ち急須を提げている。高松は茶碗に水を注ぐと勇を抱き起こす。
「おい、起きろ。薬飲まねぇと熱は下がらないんだぜ」
口に少し含ませてみるがほとんどが唇の端からこぼれていく。
「薬を……飲ませればいいんだな」
野村はそう言うと高松の手から薬を取り自分の口へとあけた。そのまま急須の水を含むと……勇を抱き起こし唇を重ねる。
勇の喉が動く。飲み下したようだ。
「口移しか。理屈ではあるが、乱暴だな」
「先生。乱暴だと言われようとも、俺達は理屈より行動で生きてきた。今は薬を飲ませることが何より重要なんだろ。生きるか死ぬかって前じゃ体面も見栄も意味がねぇんだよ」
野村の瞳は鋭く、高松を黙らせてしまった。 だが。
勇の熱は薬を飲ませても下がらない。
一昼夜過ぎても熱は下がらない。
「さすがに……まずいな。体がもたんぞ」
高松が険しい顔をする。
その時、勇の目が開いた。
だが、その瞳は朦朧としたままで、意識もあるのかどうかわからない。ただ空を見つめ力のない手を伸ばす。
微かに唇が動いた。
「何だ?何が言いたい」
勇の顔に顔を近づけながら野村が声を荒げる。
「とめ……て。野村……さんを……死んじゃう……。甲鉄に……近づけないで。回天を……とめ」
一瞬、野村の胸元を握りしめたが、次の瞬間には手はぱたりと落ちた。
……この戦に出れば、俺は死ぬって事か。
だが、
「それはできねぇ」
野村は呟いた。
「俺が残ることはできねぇ。すまねぇな」
ただ、わかったことがある。
勇がこんなになってまで祈っていたのは。
……俺の、ためか。
だが、
……このままじゃ勇のほうが死んじまう。どうすればいい。どうすれば熱が下がる。
そう思ったとき、ふと思い出したことがある。
自分が熱を出したとき、勇が看病してくれた。その時言った言葉。
「熱を下げるなら、脇と足の付け根。そして首を冷やすといいんだよ。血管が近いから」
思い至ったとたん、野村は部屋を飛び出していた。
濡らした手ぬぐいを両の脇に挟む。その時、目にした形のいい小さな胸の白さに、一瞬野村の手が止まる。思わず伸ばしかけた手を握りしめると別の手ぬぐいを手桶ですすぐ。軽く絞ると首筋の両側にあてる。
喘ぐような呼吸に熱い頬。
ただ何度も手ぬぐいをすすいでは冷やすことを繰り返した。
ふと、目を開けた。
いつの間にか眠っていたらしい。
寝台に突っ伏していた野村は、ぼんやりと目を開けた。敷布の白さが痛い。妙な違和感を感じたがそれが何なのか暫くわからなかった。が、それが静かさだと気がついてあわてて顔を上げた。勇の荒い息の音がしていなかったのだ。
静かに横たわる勇は、穏やかな顔で……。
おそるおそる指をその唇へと伸ばして、そっと触れた。
……暖ったけぇ。
思わずホッとため息を付いた。
指に呼吸を感じる。その手を滑らせ頬に触れた。
……熱く、ない。
野村の顔に笑みが浮かんだ。
間もなく、部屋へと入ってきた高松凌雲に
峠を越したことを告げられた。
「土方先生。おなごは何をしたら喜ぶのでしょうか」
唐突に市村が問いかけた。五稜郭。土方の執務室である。
「何だ?惚れた女にか。おめぇもそんなことを言うようになったか。まぁ、何か贈ってやりゃいいんじゃねぇか。櫛とか簪とか着物とか」
「そんなんじゃありませンって。勇のことです」
「あいつがどうかしたのか」
「あいつ、自分のことほっといて、俺らのことばかりで。このごろいつも辛そうな顔してたし。俺、あいつに笑って欲しい。喜んで欲しいんです。でも、あいつ、物を欲しがることなんて無いから。だから……何かしてやりたいけどどうすればいいかなんてわからなくて」
「まぁ、あいつは普通の娘とは違うからなぁ」 ふむ、と土方は考えた。
「あいつ、病はよくなったけど、動けないから何処かに連れてなんていけないし。第一今は戦中だし」
ため息を付きながら話す市村に向かって、何かを思いついたのか口の端に笑みを浮かべた土方が顔を上げた。
「市村。いいこと教えてやろう」
「おっとこれは失礼した」
病室に入って島田魁は、白い病人用の浴衣を纏い、寝台に腰掛けながら傍らの女性に髪を拭いてもらっている勇を見て慌てたように背を向けた。
「今、入浴を済ませた所なんですよ。ほんとに綺麗な髪。伸ばせば姫様みたいになるんじゃないかしらね」
世話をしている女性が島田に目をやりながら話す。
「何かご用かしら?私は外しましょうか」
気をつかったのか彼女は出ていき勇は寝台の上に座り直した。
「どうしたんですか島田さん。その手にしたブランケットも何なんです?」
「いや、市村が来たら必要になるんでな」
「?」
その時戸が開き市村が息を切らせて入ってきた。
「準備できたよ。島田先生。行こう」
島田は一つ頷くとブランケットを広げた。
市村が畳んださらしで素早く勇に目隠しをするとぎゅっと縛る。
「なっ、何すんの市村君」
次の瞬間にはブランケットがぐるぐる巻きつけられ、簀巻き状態になった。
身動き取れない。
「こらっ。鉄之助ッ。何なのよっ。島田さんもっ」
勇は怒鳴るが手も足も出やしないのだ。
「喋ってると舌噛むぞ。市村。走れるな」
「大丈夫ですよ島田先生。俺、足には自信あります」
島田が簀巻き状態の勇を肩に担ぎ上げると、二人は走り出した。
どこに行くのか、何があるのか勇は何が何だかわからない。ただ、かなりな距離を走ったと思った。
「着いた。早く支度しなきゃ」
……支度?
何のことだろうと思っていると、カラランとなるドアベルの音。
ざわざわと人の気配がする。
下ろされてブランケットをとかれ、目隠しを外された。質素な小部屋だ。鏡台がある。
一人の女性が勇が持っていた緋色の小袖を手ににこやかに微笑んでいる。
「さぁ、みなさまお待ちですよ。急いで支度しましょうね」
「はぁ?」
有無を言わさず着物を着付けられる。
そして手を引いて行かれた先には……。
大勢の男達が待っていた。
「おう」
にっこりと右手を挙げ伊庭八郎が笑う。
ブリュネが胸に手を当てた。
そこにいたのは、永井尚志、中島三郎助、島田魁、中島登、伊庭八郎に星恂太郎、ブリュネにカズヌーヴ、相馬主計、野村利三郎、市村に土方だった。
「な……に?」
呆気にとられたまま手を引かれ一つの椅子に座らされた。
……あ、この猫足のいすは。
見覚えがあった。
……歳三さんの写真のいすだ。
てきぱきと髪をとかれ裾を直される。
「揃ったな。じゃ始めようか」
そう言いながら部屋に入ってきた右足が義足の男性がいた。田本写真館の主人田本研造だった。
「ほれ、さっさと並んで」
その声に男達が動いた。
椅子に座る勇の右に土方が立ち、椅子の後ろには野村が立った。勇を中心に箱館政府の武人の主だった者達が並んでいる。
「こ……これは」
「以前、お前がみんなで写真撮りたいって言ってたと市村に言ったらな、あいつみんなに頼んでまわったらしい」
土方が見下ろしながら小声で囁く。
左に立っている市村へと目をやった。思わず笑みがこぼれる。
緋色の花が開いたようだと市村は思う。
「市村君。ありがとうね。あたし嬉しい」
その声に市村は照れたような笑顔を見せた。
「じゃ、撮るぞ」
そう言ったとき、
「待った」
そう叫んで入ってきた人影がある。
「つれないなあ。私には声はかけてもらえないのかい」
榎本武揚その人だった。
「はい、ちょっとどいてくれたまえ」
勇の左に立つ市村を押しのけるとその場所にはいる。はじき出されて市村は勇の前に膝をつくしかなくなった。
「じゃ、暫くじっとして」
田村の言葉に全員がカメラの方を向いた。「ありがとうございます」
撮影が終わると、勇が椅子から立ち上がると頭を下げた。
「とっても嬉しい。この写真、皆さんにもおわけしますね。受け取ってもらえるといいのだけど」
「誰が断るものですか。マドモアゼルからのお願いとあれば地の果てからでも駆けつけるのが騎士というものですよ」
ブリュネがそう言いながら勇の手にキスをする。
「しかしこうして見ると、まるで我らは円卓の騎士のようですな」
「アーサー王の?誰がアーサーなんです?」「あなたがギネヴィアなのですよ。私はあなたのためならこの命を懸けましょう」
穏やかな顔をしながらもさらりと言ってのけるこのフランス軍人に勇は目を見張った。
「そいつを言うのは何もあんただけじゃないぜ」
野村がむっとしたように言う。
「勇君。君は自覚ないのかもしれないが、我々は君のことを好いてるのだよ」
永井が優しい眼差しを向ける。
「あ……ありがとうございます……」
勇はうつむいてしまった。
こんな風に思いを向けられるのは慣れない……。
もっとも、忙しい身の上の漢達である。
勇が礼を告げると慌ただしく自らの役目にと戻っていく。
榎本や伊庭達は馬にまたがると五稜郭を目指して帰っていった。
彼らを見送った勇は、今まさに長マンテルを羽織ろうとしている土方に、
「あのっ、土方さん。私、土方さんの写真が欲しい」
と、声をかけた。
ふと土方の手が止まる。
「俺の?」
「はい」
すがるような目に、土方はマンテルを脱いだ。
「俺ぁ写真は嫌いなんだがな……」
ため息を付くと椅子に腰を下ろした。
「主人。急いで撮ってくれ」
むっつりした顔で土方が言う。
田本が写真板を準備しているとき、勇が頼み込んだ。
「ご主人。笑っている写真をお願いします」
「笑った……かい」
「はい。土方さんは笑うととても優しい顔になるんです」
見られてると気まずいだろうからと、勇は隣の部屋にいますと言い置いてその場を去った。
で、撮っては見たものの……
「土方様。もう少し笑えませんかね。顔が固くてしょうがない。依頼は笑顔なんですが」「俺は役者じゃねぇからな。笑えといわれてほいほい笑えるもんじゃねぇよ」
その言葉に田本がため息を付く。
依頼に答えられないと言うのはプライドが許さない。
その時、
「見てくださいな研造さん。可愛いでしょう」
奥の部屋から、田本の妻が勇を引っ張ってきた。
「あっ、あのっ。私は着替えを……」
うろたえる勇。それはそうだ。着物を脱ぐだけのつもりが……。
「この白無垢。似合うでしょう。ほんとに可愛い花嫁さん」
嬉しそうに話す妻に呆気にとられていた田本だったが、ふと気がつくと土方の表情が和んでいる。
こっそりと二枚目を撮った。
……まだ固いよな。
一計を案じた。
「ついでだ。そのお嬢さん、化粧してやりな。一枚撮ってやろう。店先に飾りゃ良い客寄せになる」
「ええっ」
「おい、ここで化粧させろ。土方様、お嬢さんの綺麗になってくのをみてなさいな。可愛い花嫁御寮のできあがりだ」
その言葉にうろたえる勇に、土方がふふっと笑った。
田本の妻はいそいそと勇に化粧を始めた。
薄目におしろいを刷き、唇に紅をさす。
髪をあげ、うなじにおしろいを刷く。
花嫁の姿へと変わっていくのを、刀の柄に手をのせて微笑みながら土方は黙って見つめていた。
やがて、すっかり花嫁の姿になった勇は困ったような表情で立っている。
「一人で撮るのが嫌か。なら、俺と撮るか」
思いがけない土方の言葉に、呆気にとられている間に横に並んで立たされた。
「主人、撮ってくれ。だが、この写真俺が引き取る。店に飾るのは断るからな」
「残念だなぁ。客が押し掛けると思ったんだが」
「そんなことになっちゃこいつが困るだろ」 口の端をあげて笑いながら写真に収まる。
「あ、土方先生。いいな」
その時戸が開いて市村と野村が入ってきた。見送りした後、土方の馬の支度をしてきたのだ。
「なんだ市村、お前も撮りてぇのか」
「はいっ」
「主人。こいつらの分も撮ってやってくれ。勇、いいな」
勇はこくりと頷く。
市村はぎこちなく立って収まり、野村はそっと肩に手を添えた姿で収まった。
この日、三月十八日。
病院も明日には退院できるかという三月二十日。
英国商館のブラキストンが新政府軍の艦隊が宮古湾に寄港する事を知らせてきた。それは敵方に送り込まれている間者からの報告とも一致し、蝦夷共和国の漢達はにわかに慌ただしくなった。
計画されていた甲鉄の奪取がいよいよ実行に移されるのだ。
回天、蟠龍、高雄の三鑑が攻撃のための準備を始めた。
攻撃を仕掛けるのは蟠龍と高雄である。旗艦である回天は他の鑑を牽制するというのが計画だった。だから回天には本来斬り込みに関わらない土方はじめ数名の新撰組隊士と教官のニコルが乗船し、攻撃を掛ける蟠龍には彰義隊と遊撃隊。高雄には神木隊が乗った。「え、今日出航なんですか?」
勇は、思わず聞き返した。
休もうかとしていたのだが、薬を持ってきた女の人が、港がごった返しているとふと口を滑らせたのだ。
「夜に出航なのだそうよ。先ほど街へ用に行ったのだけど篝火で明るかったわ」
それを聞くと勇は寝台から飛び降りた。
半纏を羽織ると、部屋を飛び出していく。
「どこへ行くの。休まないと」
と、言う声を背中に聞いて勇は病院から走り出た。外はもう暗い。
坂道を駆け下る。何度かつんのめって転んでしまったが、あちこちすりむいたのも気にせず走り続ける。
田本写真館にたどり着くと、その扉を叩いた。何度も叩いて、ようやく扉が開かれた。
「写真を。写真をください」
息を切らしながら勇は言った。
回天の甲板に立つ野村はぼんやりと陸地、高台にある箱館病院のある方角に目をやっていた。
港は沢山の篝火で明るい。
……もう一目会いたかったが……。
だが会えば、自分が何をするかわからない。
背を向けようとしたとき、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
思わず振り返ると、港へと駆け込んでくる姿がある。
「勇……。何やってんだあいつはっ」
慌ててタラップを駆け降りる。
息も絶え絶えに今にも膝をつきそうな姿に、駆け寄ると抱きとめた。
「ばかやろう、何やッてんだよ。寝てなきゃだめだろうが」
怒鳴る野村の胸元にしがみついて、懐紙に包まれた物を差し出す。
「写真。もらってきた。見て欲しかったから」 あちこち擦りむいたところから血が流れていた。
「傷だらけじゃねえか。ちょっと待ってろ」
傷口に口を付け血を舐めとると吐き出す。
腰に縛っていたさらしを裂くと傷口を縛る。
「たく。何してるんだよ」
呆れたように見つめた。写真を受け取ると包みを開く。
全員での写真と、花嫁姿の勇との写真。
「ありがとうな」
野村は微笑んだ。
勇が首から何かを外した。そして野村の首にかける。
見ると碧玉のペンダントである。
「こっ、これは大事な物じゃねぇのか?お前の守り石なんだろう。赤ん坊のときから身につけてるんだろうが」
「うん。とっても大事な物だよ。今は野村さんに貸してあげる。だから必ず返してね。大事な物だから、野村さん、手渡しで返して」 真っ直ぐに見つめて言う。
いわんとすることは痛いほどわかる。生きて帰れと……そう言っているのだ。
じっと見つめていた野村は、
「動くな……」
低く呟いた。
「え?」
勇が問いかけようとした瞬間抱きしめられる。
「じっとしてろ……」
そう耳元で囁くと、顎に指をかけ……。
口を吸った。
「帰ってきたら、土方副長にお前を娶る許しをもらう。だから、待ってろ。なに、甲鉄を土産に帰ってきてやる。ここで迎えてくれ」 そう言うともう一度口を強く吸った。
勇は硬直したままだ。
「じゃな。行ってくる」
体を離すとタラップを駆け上っていった。 一度振り向いて手を振る。
勇はへたへたと座り込んだ。呆然とした眼差しのまま船を見つめる。
やがてもやいはとかれ、鑑隊はゆっくりと離れていった。
自分がどう帰ったのか記憶はなかった。




