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拐かし

勇を狙う大鳥。警戒した土方達だが、一瞬の隙を突いて勇は連れ去られた。

大鳥と対峙する勇だったが。

「大鳥さん。聞きましたか?」

 陸軍奉行大鳥圭介の執務室に会計奉行川村録四郎が入ってきた。

「何かい?」

 顔も上げず気のない返事を返す。

「今、隊士達の噂で……。土方君の小姓の」「ああ、いさみとか言ったか。海で拾ったあの娘だな」

「あの娘、伊庭君を助けたと」

 その話は聞いた。遊撃隊伊庭八郎は海に落ちて入院していたと。

「伊庭君は、今日から復帰したんだったな。確か海に落ちたとか」

「死んでいた伊庭君をその娘が生き返らせたと言うんですよ」 

「!」

 大鳥は思わず顔を上げた。 

助けたというのを、水からあがるのを手助けした程度に思っていたのだ。

「どういうことだね」

 大鳥は川村へと向き直った。

 物事の伝聞というものは、人の口を伝わるうちにかなり変わってしまうものだ。

 隊士の間で伝わっていたので、それほど突拍子もないものに変わってはいなかったが、それでもかなり事実と違う誇張されたものになっていた。

「つまり、その娘が何か呪術ですでに死んでいた伊庭君を生き返らせたというのか」

「ええ」

「怪しげな術かどうかは信じられんが、そんな知識を持っているというのは興味があるな。確か、その娘英語も話せるそうだな」

「ええ、それも聞きました。あのカズヌーブを言い負かしたそうです。最近はフランス語も読めるようだと……」

 大鳥は考え込んだ。

 自分の知らない知識は手に入れたい。この話の通りなら使える娘だ。なかなかに美しい娘だった記憶がある。

 医者の息子である大鳥はかなり合理的な考え方をする男である。知識には貪欲だ。

 使えるものは、是非手に入れたい。

 だが、土方が手元から離さない。

「あの娘。土方の知恵袋、と言うべきですかな。百姓上がりの土方には過ぎたものです」

「奪い取るしかないか……」

 大鳥は低く呟いた。


 勇が久方ぶりに五稜郭へと出向いたときだった。

 榎本の部屋を辞し、土方の部屋へ戻っているときふいに声をかけられた。

「近藤君。少し時間はあるかね?」

 振り向くと大鳥圭介が立っている。

 直接声をかけられたのは初めてだ。

 思わず肌に鳥肌が立つ。

 勇は大鳥が嫌いである。大がつくほどに。

 なるべく顔を合わせないようにしていたし、いつも市村が付き添っていたから二人で話をしていれば声もかけられることはなかった。

 しかし、今日は間の悪いことに市村がいない。一人でいるのだから無視も出来ない。

「あ、いえ、土方さんの所へ戻らねばならないのですが」

「ほんの少しでいいのだか付き合ってもらえないかな」

まるで獲物を前にしたような笑みだ。

 断りたい。しかし、断る理由がすぐに思いつかない。

 勇が大鳥に捕まって身動き出来ないでいたときだった。

「おや近藤君ではないか」

と、声がかけられた。

 声のする方を見ると中島三郎助が立っていた。いやいやいいところで会ったと言いながら側にやって来る。大鳥に、

「近藤君に何ぞ用ですかな?」

と訊ねる。

 言葉に詰まる大鳥に、なければ拙者がちと用があるゆえと勇を連れ出してくれた。

 離れた所に来ると、ここまでこれば良かろうと向き直る。

「お節介だったかな?困った顔をしてたのでな」

 そう言って笑っていた。

 勇が礼を言うと、いやいや用があるのは本当でなと、懐から和綴じの本を取り出した。

「これは先だって開いた句会の綴りなのだが、土方殿も見たかろうと思うてな」

 勇に、渡してもらえぬかと言う。

 大晦日に開かれた句会のものだろうと勇は快く引き受ける。

「中に土方殿へのたのみごとをかき付けた紙が挟んである故、くれぐれもよろしく」

と中島は念をおす。

「はい、分かりました。確かにお渡しします」

 勇はその本をしっかりと胸に抱えると頭を下げる。

「さ、急いで行かれよ。大鳥に会わぬようにな」

「ありがとうございます」

 もう一度頭を下げると勇は小走りで土方の部屋へと向かう。

 幸い今度は大鳥に会わずにすんだ。

「なにあわてていやがる」

 土方の執務室に飛び込むと、呆れたような声がかけられた。

「あ、別に……」

 言いよどむ勇に、

「何かあったか?」

 土方が訊いてきた。さすがに人の表情を読むのが巧い。勇が困ったような顔をしていたのに気がついたのだろう。

「大鳥さんが声をかけてきて。今までなかったのに。それと、先ほど中島様に会いました。これを渡してくれと言われて」

 胸に抱えていた本を渡す。

「中に歳三さん宛の書き付けが入ってるからくれぐれもよろしくとのことでしたが」

「?」

 受け取った土方がぱらぱらとめくる。

 ふと手が止まった。

『わが齢氷る辺土に年送る』と自分の読んだ句の所に一枚の紙が畳んで挟んである。

……この本お返しのおりは、我が仮住まいににおこしいただきたく候。茶等振る舞いたく候。なおその節には勇殿同道のことくれぐれもよろしくお頼み申し候……

「勇を連れてこいだぁ?」

 書き付けを読んだ土方が思わず声を出した。

「何でまた……。ああ、そう言えば中島殿には息子が二人いたな。なるほど食えない御仁だ」

 土方がニヤリと笑う。

「どうする?中島殿がお前に遊びにこいってよ。あそこには息子が二人いるんだ」

「え?」

 勇が困った顔をする。

 その時だった。野村がすっと入ってきた。

 土方の側によると耳打ちをする。

 土方の顔が険しくなった。が、勇の方に向き直ったとき表情は元に戻っている。

「ま、考えときな。返しに行くときはお前も行かなきゃならんのだからな」

 すいと土方が立ち上がると部屋を出る。

「それは本当か?」

 勇を自分の執務室に残し、野村と出てきた土方は厳しい声で話す。

「島田君からの連絡です。それに先ほど中島殿に会いました。中島殿も大鳥さんが何やら考えてるみたいだと言っておられます」

「勇も言ってたな。いきなり声をかけられたと。あいつの秘密が漏れたか?」

「それはないと思うんですが。ただ、伊庭さんの一件が隊士間で噂になってるようです」「ふむ」

 土方は考え込んだ。

 だが確かなことが分からない以上動くのは無理がある。

「まあ、気にはかけておこう。お前もな」

「はい」

 野村が去ると土方は再び部屋に戻る。

「おい、勇。お前は伝習隊の連中とやり合ったとき何したんだ?」

「何です、いきなりそんな前のことを」

「いいから」

「蹴り倒したんですけど」

「蹴った?殴ったんじゃないのか?」  

 勇は暫く黙っていたが、いきなり土方に向けて殴りかかる。

「!」

土方は片手でその拳を受け止めた。

その状態でわずかの間沈黙が流れた。

「こういうことです」

勇は拳をひきながら少し寂しげな笑顔を見せた。

「どういう意味だ。いきなり殴って来やがって」

「でも、片手でたやすく私の拳受け止めたでしょう?私の拳は軽いんですよ。どんなに体重をかけたって致命的に軽いんです。これじゃ軍の強者相手に倒すなんてできっこありません。私が対等に戦うとすれば蹴り技以外にないんです」

「なるほどな」

「でも蹴りを放つには体勢が大きく動きますからね。足の動きを見切られたり、そう……私が蹴りしか使わないと知られたら、たぶん私には対抗するすべはありません。あの時曲がりなりにも勝ったのは伝習隊の人たちが蹴り技になれてないからだったんですよ。野村さん、いえ中島さんだって見切るだろうなぁ。慣れれば市村君も出来るかな?」

「その程度なのか?」

「簡単なもんですよ、皆さんならきっと」

 土方は複雑な表情を見せた。勇が自分のことをここまで冷静に見ているとは思っていなかったからだ。

「見切られたなら?」

「逃げるしかありませんね。相手の力量を推し量るぐらいの目は持ってるつもりですから手を出さずにさっさと逃げることにします。蹴りだした足を抱えられたりしたらもう逃げられませんから。押さえ込まれて終わりです」

 土方は腕を組んだ。もしそうなら一人で動き回らせるのには危険が伴う。誰かつけるべきか?そう考えていたときだった。

「ま、後は私のすばしっこさで何とかしますよ。バスケで身に付いたものもあるし。相手の動きを読んでとっとと逃げます」

 しかしそれでは勇は戦うすべを持たないことになる。刀も振るえず力は男には及ばない。すばしっこさと身の軽さ、そして物事を見きる目だけがたよりとなるのだ。

「勇、しばらくはここに来ねぇほうがいいな。丁サで大人しくしてろ」

そう土方は言った。


勇が万屋で大人しくしているのもはや五日経つ。

 いい加減退屈もしているのだが、土方が険しい顔で当分出歩くのを禁じると言ったので大人しくしているしかない。

 野村が詰めているのだ。

 いつもなら一緒に出かけたりもしたが、どうも今回は様子が違う。

 ぴりぴりした雰囲気が野村の周りから漂っている。時折辺りをうかがうような様子も見える。

 勇には隠されていたたが、永井から新撰組に知らされていたことがあった。

 勇が五稜郭に行っていた日のことだった。 永井が新撰組をたずねたのだ。 

「野村殿か相馬殿はおられるかな」

 複雑な表情を浮かべたまま称名寺に入ってきた永井は入るなりそう切り出した。

「すいませんが野村も相馬も五稜郭に行っております」

 対応したのは島田魁だった。

「島田殿か。土方殿は今日は五稜郭に行っておられるはずだったな」

「はい」

「今日丁サには勇君は?」

「分かりません。彼女が行く行かないはその場の雰囲気で決まりますので」

「やはり……か」

 永井は少し考えた後切り出した。 

「いや、先ほど丁サの側で伝習隊の隊士を見かけてな。中をうかがっておるようだった」

「?」

「昨日も見かけたのだ。あの時は土方殿のことをうかがっておるのかとおもうたが、土方殿が今日五稜郭へ行くのは誰もが知っておる。幹部の会合があるでな。そうなると……そうか、奴らの目当ては勇君か」

「どういうことでしょうか」

 島田は思わず硬い表情になった。

「伝習隊が動いておると言うことは大鳥だろう。あやつ何か考えておるようだ」

 永井は腰を払って立ち上がる。

「勇君の身辺、気を付けられよ。杞憂に終わればよいのだがな」

 永井はそう言いおくと、自分も幹部の会合に行かねばならぬと言って出ていった。

後に残った島田は難しい顔で考え込んだ。 島田は元は監察方の男である。情報の扱いには長けている。永井の言葉の意味することは明確だ。勇の身が狙われていると言うことだ。

「土方副長に伝えておかねばならぬな」

 その情報は直ちに土方へと伝えられる事になった。

 そして、今日に至る。

「野村さん。何そんな緊張してるんです?」

「いや、そんなこともねえけどな」

 少しばつが悪そうな顔で野村が笑った。

「怖い顔してたか?俺」

「そう言う訳じゃないけど。もう遅いですしここの所ずっと詰めているし。もう戻られてもいいですよ。あたし、どこにも出るつもりなんて無いし土方さんももうすぐ戻られる頃ですもん」

「いや、しかし。副長が戻ってくるまでは」

「子供じゃありませんよ。私」

「だがなあ」

「目の下の隈。眠ってないでしょ」

 結局勇に言い負かされて、早く休んでくださいねと万屋から送り出された。

「絶対外に出るんじゃねぇぞ」

「分かりました。全くどうしてあたしの周りってこうも心配性の人ばっかりなんだろ」

「お前が危なっかしいからだ」

「失礼だなぁ。それは野村さんだって同じじゃないですか」

「俺は大人だからいいんだよ」

「ずっるい」

「ともかく、土方副長の帰りを大人しく中で待ってろ」

「はいはい」

 勇はそう言うとニコニコしながら手を振った。 

野村は小さくため息をつくと万屋の戸をくぐった。

野村が帰って四半時もしたころか。

 女将が離れに呼びに来た。

「勇ちゃん。お客さん」

「え?」

 身に覚えがない。あわてて玄関へと急ぐ。

 そこに立っていたのは伝習隊の隊士だった。

「近藤君ですか?」

「はい、そうですが」

「土方奉行並から伝言です。急ぎの会合が開かれることになったので机の上にある書付を持ってすぐ来て欲しいとのことなのですが」

「書付ですか。少しお待ちください」

 急いで土方の部屋に戻る。

 確かに文机の上には書付があるのだが……。

 常に何かしら書付があるのでいったいどれのことを指しているのか分からない。

 とにかく一番最近書かれているらしいものをいくつか手に取ると、新撰組隊士の軍服に服装を整えて急いで戻る。

「急いでください」

 そうせかされて、

「女将さん、すいませんが火鉢の火見ておいてください。すぐに戻りますから」

 そう言うと、伝習隊隊士に続いて飛び出した。

 万屋を出た直後、小路に引っ張り込まれた。

 えっ、と思ったが遅かった。

 腹に強い痛みを受けたと思った次の瞬間に視界は暗転した。

 ぼそぼそという人の声で意識が戻ってくる。

 ゆっくり目を開ける。思い切り殴られたのかまだ腹が痛い。

「やぁ、気がついたようだね。」

 その声の主に思い至ったとき完全に意識が戻った。あわてて身を退く。

 目の前には大鳥圭介がいる。

 後ろにもう一人幹部クラスらしい間がいるが勇には誰かわからない。大鳥の伸ばしてきた腕を避けるように後へ下がろうとしたが、誰かが立っていたらしく肩を掴まれて動けなくなった。

「いやに嫌われてるなぁ。榎本さんとは話をするくせに僕とはほとんど口を利いてくれないじゃないか」

 覗き込みながら嫌みを含んだ口調で大鳥が言う。

「こんな手荒なご招待を受ける覚えはないんですけど。土方さんはどこです?姿が見えないようなんですが」

「土方君なら……」

「いませんよね。あたしを引っ張り出すための方便ですか」

「察しがいいね。頭のいい子は嫌いじゃないよ」

 にっこりと大鳥が笑った。

「頭のいい君と見込んで話があるんだが」

「聞きたくありません。こんな失礼な事する人の話なんて。どうせ自分と組まないかって事でしょうから」

「ご明察」ますます楽しそうだ。

「帰ります。帰してください」

「そうはいかないな。やっと手の中に納めたのに」

 大鳥は体を起こすと見下ろしながら言い放った。

「ここから逃げられると思うかい?」

 勇はまわりを見回した。大鳥ともう一人。 伝習隊の隊士らしい男達が五人。

 部屋はあまり広くない。旅籠だろうか。楼閣のような華やかさはない部屋だ。

 すっと身を沈めて肩を掴んでいた手から逃れると体をくるりとねじって身を起こした。

 ぐっと腰を落とす。彼らはすぐに反応した。 ぐるりと取り囲む。一定の距離を取って。

「蹴りを繰り出すかい?」

 冷徹とも言える一言が大鳥の口から吐かれた。

「僕がわからないとでも?君の打つ手はいつも蹴りだってね」

「くっ……」

 読まれている。たぶん蹴りを繰り出しても見切られるだろう。ここは……。

 逃げるしかない。何としても。

 足に力を入れる。目は左右を確認。窓と出口。ディフェンスは右に三人左に一人後に一人か。行くべきは右側。ならば。

 勇は左側に大きく踏みだした。

 左側には窓がある。あわてた男達が動く。 窓に駆け寄った勇は、男達が自分を追って来たのを確認するや、身を低くしてくるりと向きを変える。エッジの掛けられない足下は、壁を使うことで補う。男の伸ばした腕の下を身を低くしてすり抜け、次の追っ手には右に行く体勢を見せて引き寄せると左側にかわし、

「このぉちょこまかとっ」

 怒鳴りながら覆い被さろうとした男には一歩飛びずさり、体勢を崩したところを頭に手を掛け思い切り飛んだ。『背中に羽根が生えている』と言われた跳躍力で一気に出入り口の襖まで。そのまま肩で襖をはじき飛ばした。 廊下に飛び出した勇は左右に目を走らせる。そして、前階段へ向けて掛けだしたときだった。

「大川君っ。止めろっ」

 大鳥の声が響いた。

 その声に答えるように横の部屋の襖が開いた。

 えっと思ったがもう遅い。

 廊下は狭いのだ。前に立ちふさがった大きな男の右側を身を低くしてすり抜けた。

 すり抜けたと思った。

 だが、次の瞬間首に強い衝撃を受け床にたたきつけられた。目の前が一瞬くらくなる。思わず咳込んだ。

 やっとの思いで身を起こしたとき、襟首を掴んで引き起こされた。服で喉が閉まる。息が止まりそうだ。

 ふいに戒めが解けた、と感じた直後激しい痛みを右頬に感じた。殴られたとわかったときには再び床にたたきつけられていた。

 口の中血の味が広がる。口の端からも流れ落ちているのがわかった。相当切ったらしい。

殴られた衝撃と床に叩きつけられた痛みで頭がくらくらする。動けずにいると腹に蹴りが入った。その勢いで一間くらいはじき飛ばされ床に何度も打ち付けられ転がった。あまりの痛みで息が出来ない。

「大川君。いけないなぁ。女の子相手にあんまり乱暴しちゃ」

「止めろとの仰せですので」

 大鳥の声が近づいて来る。顔を上げたがかすんでいく視界では何もわからない。

……逃げなきゃ。

 勇はぼんやりした頭で思う。

……ここにいたら、歳三さんや新撰組のみんなに迷惑がかかる。

 なんとしても逃げなきゃいけないと思うがもう体は動かない。

 懸命に腕で体を起こし、右手をのばす。

 何かをつかむように伸ばした指は力を失って床に落ちた。

……とし……

 そのまま意識はとぎれた。


「何だと?」

 万屋に戻ってきた土方が思わず声を上げた。

「ほんのちょっと前に、土方先生がお呼びだという使者の方が来られて、あわてて勇ちゃん出ていきましたよ。あら、お会いになってなかったんですか?」

 女将が怪訝そうな顔で言った。

「しまった」

 吐きすてるとあわてて飛び出す。甘かったと土方は唇をかんだ。

 とりあえず新撰組の屯所になっている称名寺へ急ぐ。

「野村っ、野村はいるかっ」

 屯所にはいるなり大声で野村利三郎を呼ぶ。

 野村は屯所に戻ってきていた。

 勇に見送られた野村は万屋の周りを確認した後屯所へと戻ってきたのだ。

「どうしました、土方副長」

 奥から掛けだしてきた野村が怪訝そうな顔をする。

「勇が拐かされた。探し出せ」

「何!」

「隊士を使ってかまわねぇ。一刻を争うことになる」

「わかりました」

野村の目がすいと細められた。


「あれ、勇ねぇちゃんの鈴の音だったよ。」

屯所を飛び出した野村が町中を走っていたときだった。

 母親と一緒に歩いていた女の子に声をかけられたのだ。

 よく勇と遊んでいた女の子だった。

 その小雪という少女は言い切った。

 大柄な侍三人とすれ違ったとき、その鈴の音を聞いたと。

「勇ねぇちゃんがいるかと思って回り見たけどいなくて。お侍が三人いただけだった。とてもおっきい人が一人いた」

「どんな奴だ」

 野村が訊く。

「わかんない。でも大きな荷物担いでた。おっきい人は偉そうにしてた」

 野村が納得した。

 勇を何かに包んで担いでいったのだろう。 そのまま連れていけば人目に付くし、何より新撰組の隊士に見られるのを避けたいはずだった。

「どこで見た?」

 小雪はある店の名を言った。そこですれ違い、海の方へと行ったと言う。

「ありがとよ」

 野村は小雪の頭を撫でた。これでだいぶ範囲が絞れる。


 ズキズキする痛みに意識が戻ってきた。

 腕が後ろ手に縛り上げられているのを感じる。しかも手首ではなく肘から下をぐるぐると。見ると足首もきつく巻かれている。

……まるで罪人扱いだな。

 辺りを見回していると、

「気がついたようだな」

 大鳥と共にいた男が近寄ってきた。

「まったく油断のできん娘だ」

 むっとした表情を見せる。

「そりゃどうも」

 こちらも思い切り小憎らしげな表情で答える。

「えらくご丁寧に縛り上げてもらっちゃって」

「川村さん何をして……。お、気がついたかね。勇ちゃん」

「大鳥さんにその呼び方して欲しくありません」

「はっは、厳しいね」

……川村か。確か勘定奉行の方にそんな名前の人がいたっけ。

 勇はまだ霞のかかったような頭で懸命に思い出そうとしていた。

……だめだ。思い出せない。

 諦めると、きっと顔を上げた。

「で、どうするつもりなんですか。これから」

「君には当分ここにいてもらおう。気が変わるまでね」

 勇はそれを聞くと笑った。

「それは無理だろうなぁ」

 ひとしきり笑うとまじめな顔に戻った。

「だって、あたしあなた達好きになれないもの」

「なぜかな。僕たちには力もあるし、君の慕う土方君よりも偉いんだがね。君の知識を貸してくれれば欲しいもの何だってあげよう」

 大鳥圭介はまじめな顔で言った。

「それは出来ないと思うな」

 勇はくすりと笑う。

 そして不敵な笑みを浮かべて言い放った。

「だって何より、あなた達の顔が好きじゃないもの」

 この一言は強力だった。

 激昂した川村が勇の胸を思い切り蹴り飛ばしたのだ。

 蹴られたとき胸がビシリと音がした気がした。脳天まで突き抜けるような痛みが走る。

……骨がいっちゃったか?

 息が止まるほどの痛みとはこのことだ。そんな中、右肩を骨折したときもこんな痛みだったなと妙にさめた自分がいる。

「生意気な口をきくな。この小娘がッ。」

 胸ぐらを掴まれて引き起こされる。隊服が破けボタンがいくつか弾きとんだ。

「たかが娘ッ子が男にかなうわけがないことを思い知らせてやる。抱かれりゃ少しは大人しくなるだろう。おい、押さえつけろ!」

 口元に冷酷で好色な笑みを浮かべ川村が勇の軍服のシャツの胸元を引き裂いた。その時現れた胸元に下がっているブルージャスパーのペンダントに目を止めた。

「お守りか?」

 革ひもを引っ張りながらそれをじっと見た。革ひものせいで顔が上を向かされたような状態になる。

「碧玉とはな」

 皮肉っぽい顔で笑う。

 そのままの状態で、刀から小柄を外すと胸に巻いたさらしを切り裂いていく。

「こうやって見ればなかなかに美姫ではないか。楽しませてもらおうか」

「!」

 このときばかりは勇の顔が恐怖に引きつった。

「嫌っ。離してッ」

 勇は身をよじって逃れようとする。胸の痛みに思うように動けない。何より後から押さえ込まれているのだ。

 それでも胸元に伸ばしてくる手に思い切り噛みついた。

「痛てっ。こいつ!」

 頬を平手打ちされ倒れ込んだところに、再び胸と腹へ蹴りが入った。思わず息が止まる。

 川村が勇を引き起こすと胸の膨らみを乱暴に掴む。大きくはないが形のいいバストを弄ぶように何度も揉んでくる。胸元に口を付けた。勇が悔しげに歯を食いしばる。ズボンに手が掛かったとき激しく抗う。

 だが、少女の力などたかがしれてる。屈強な大人の男に勝てるわけがない。まして手負いの体なら。

 これ以上は無理、だ。

……ごめんなさい。歳三さん。あたしもう耐えられない。

 勇は自らの死を決意した。

彼らの思うようにはなってやらない。

 そして次の瞬間決意したように顔を上げた。

 その表情に気がついた大鳥が叫んだ。

「やめろ、川村さん」

 大鳥が川村を羽交い締めにして止めた。

「この子は死ぬ気だ。おい、口を押さえろ!」

 大鳥は背後の伝習隊の隊士に声をかける。

 男達に口元を押さえられながらも勇は叫んだ。

「あんたらに好きにされるくらいなら舌かみ切って死んでやる!」

「何だとっ」

 今にも振りきりそうな勢いで川村が掴みかかろうとするのを大鳥は必死で押さえている。

「やめろ。その子は本気だっ。おいっ押さえ込めッ」

 大鳥が後にいた男達に顎で合図をする。

 一度に三人の男達に押さえ込まれ、舌をかもうとする間もなく猿ぐつわをかませられてしまった。

「うぐっ」

 猿ぐつわされた勇は唸ることしかできない。痛む胸を押さえることさえ出来ないのだ。その痛みでだんだん意識が遠ざかる。

「しょうがない。おい逃げないようこの柱に縛り付けとけ。川村さん、あんたはこちらへ」

 引きずるように川村を抱えた大鳥の声が遠ざかっていく。

……今ここで気絶などしたらなにされるかわからない。

 それは恐怖以外の何者でもなかった。

服の前は裂け胸のふくらみがが露わになったまま。必死に抵抗したが痛む体だ。為すすべもなく柱に縛り付けられる。

 勇は痛みで気が遠くなりそうなのを腕をつねりながら必死で耐える。思わず意識がとぎれそうになるたび頭を降って意識を引きずり戻す。その度にちりりりと鳴る鈴が今の勇の支えになっていた。

……まだ、意識はある。

 音が聞こえるたびそう確認できるのだ。

どれくらい経ったのだろう。もう時間の感覚はない。

 もうろうとした頭を抱え、今にも折れてしまいそうな意地を張り続ける。

 ふと、気がついた。

何の音だろうか。かたかたと鳴る音。

 ふいにがたりという音がする。

 ひやりとした冷気が流れ込んできた。どこか戸が開いたのかと勇はぼんやりと考えていた。大鳥たちが戻ってきたのなら自分はどうなるのだろうと思うが意識は半ば混濁したままだ。

 と、ぐぅっとかぐわっとかいう声が聞こえたような気がする。ついで何かが立て続けに倒れる音がした。でも顔を上げるのもおっくうだ。

 ふわり、とそのひんやりした風が自分の前に巻いた気がした。

 ゆっくり目を開く。 

「大丈夫か?」

 聞き慣れた声だ。顔を上げようとしたとき、そっと両頬を包まれて顔を上げさせられた。

「な!」

 相手が息をのむのがわかった。

「ひでぇことしやがる」

 ようやく目の焦点があった。

……野村さんだ。

 安心したとたん涙があふれてくる。気が遠くなりそうだが必死に持ちこたえる。

「待ってろ。」

 猿ぐつわを外されて、柱に縛り付けられていた紐が刀で切り落とされた。

 体を支えきれずにぐらりと倒れそうになるのを野村が支えた。

 その時、両手両足が固く縛られているうえに服の胸元が引き裂かれていることに気がついたらしい。

「てめえらっ」

 野村が叫んだ。振り向くや刀の鯉口を切り今にも斬りつけようとした。が、

「だ……め。駄目だよ。斬っちゃ……」

 その声に野村の手は止まった。

「殺しちゃ……いけ……な……」

 野村は刀を納めると鞘のまま倒れている男達に突きを食らわせていった。

 振り向くと勇はぐったりと床に倒れ込んでいる。

 いそいで駆け寄り抱き上げると息が荒い。 蒼白の顔に口の端から流れ落ちて乾いた血の跡が見える。

 腕と足の縛めを解こうとしたが固くて解けそうにない。

 向こうから何事だという声とこちらに向かってくる気配がする。

「しばらく我慢しろよ」

 そう言うと勇を抱きかかえた。

「今ここで殺されなかったことを感謝するんだな」

 床に倒れている五人の男達に言い捨てて窓から出た。

 窓から屋根に飛び出して走り出したとき、後からなんだどうしたんだという声が聞こえた。

 野村は勇を抱えたまま屋根づたいに移動する。屋根の端まで来ると足下に声を掛けた。

「島田さん。受け止めてくれ」

 そう言うと勇を投げ落とす。下に待ちかまえていた島田魁がその体をしっかりと受け止めた。野村は身軽くひょいと屋根から飛び降りてきた。

「行こう」

 二人は走り出す。冷たい風を感じて勇はうっすら目を開けた。

「気がついたか」

 島田魁がやんわりと声を掛けてくる。

 勇は小さく頷くしかできなかった。胸の痛みで気力がない。ふと横を見ると野村が走っている。少し腰を落とし刀に手を掛け、鍔に掛けた指先は鯉口を切っている。

……大鳥さん達と行き会ったら斬り合うつもりなんだ。

 自分にそれほどしてもらう価値なんて無いのに、と思いながらも勇は島田の胸にもたれていた。冷たい風を感じてはいたがやがて意識は闇の中へと落ちていく。

 小路に入り、裏通りから新撰組の屯所を目指す。

 途中、出会った何人かの隊士に、あるものには屯所への先触れを頼み、あるものには他の隊士への連絡、そして何人かとは共に多少の回り道をしても安全そうな路地を抜け屯所へと向かう。幸い追っ手とは遭遇しなかったようだ。

 野村達が屯所に飛び込んだときには、土方他、医師の高松凌雲が来ていた。

 島田魁に抱きかかえられた勇を見てその場に居合わせた者たちは言葉を無くした。

 殴られて腫れあがり痣になった顔。口の端からは血の流れた跡がある。そして、胸元を引き裂かれボタンが飛んでしまっている新撰組の隊服。シャツは血に汚れ下まで引き裂かれている。胸元に巻かれていたさらし切り裂かれ胸のふくらみがあらわになっていた。その上……口を付けられたらしい痣がいくつか胸元にある。

「ともかく早いこと横にさせろ」

 土方が怒鳴る。

 布団のうえに横たえられると、手足の戒めをはさみで切り落とした。

「手当をしなければならんのだが、手を貸してもらえんかな」

 高松の言葉に何人もの隊士が名乗りを上げる。しかし、

「土方さん。あんたに頼めるか」

「俺が?かまわねぇが」

「ほら、残りのものは出た出た」

 高松が残りの隊士達を部屋から追い立てる。野村など気がかりな表情をして残れませんかと言ったが一喝されてしまった。

 ピシャリと襖を立てると、土方に向き直る。

「ともかく服を脱がさないと話にならん。手を貸してもらうぜ」

 高松は固い声で言った。

 土方が体を支えて、高松が服をゆっくりと、そしてそっと脱がせていく。どこに傷や骨折などがあるかわからないのだ。洋服は着物よりも遙かに脱がせにくい。無理は出来なかった。

 胸元のさらしを解いたとき二人の顔がこわばった。

「こいつは……」

 胸の下が赤黒く腫れあがっている。

「骨が折れているかもしれねぇな」

 高松が手を当てると悲鳴を上げて勇の体が跳ね上がる。

「土方さん押さえてろ」

 肩を押さえ込む土方の下で二三度叫んでいたが、やがてかくりと動かなくなった。

「気絶したか」

 やりやすくなったと高松は言うと再び服を脱がせ始めた。

 やがて一糸も纏わぬ姿で勇は布団のうえに横にされた。

 道具を引っ張り出すと診察を始める。

 そして、ひとしきり診察が終わったときおもむろに土方に言った。

「犯されてねぇよ。よかったな、土方さん」

 高松の言葉に土方は肩の力を抜いた。

「そうか、よかった」

「気にしてたんだろうが。あんたも優しい男だなぁ」

「大事な預かりもんなんだ。何かあったら俺ぁ近藤さんに合わせる顔がねぇ」

「怪我の方は結構ひどいことになってる。胸の骨が折れてるな。肺の腑に刺さってるなんて事にはなってないようだが。腹は内臓まではいってないが、打撲はひどいもんだ。当分は絶対安静にさせとけ」

 しかし、と高松は勇を見ながら言った。

「女の子相手にここまでやるかね。体中ボコボコじゃないか。まぁこの子も大したもんだよ。これだけやられながらも純潔は守ったってわけだ。そこまでして操を守りたい奴がいるって事かな」

 松本は勇に布団を掛けると、とりあえずは何か着せなきゃな、となったため土方が立ち上がり襖を開けた。

 その瞬間、大勢の隊士達が倒れ込んできた。聞き耳を立てていたらしい。

「てめぇらなにやってんだ。こんなことやってる暇があんのなら寝間着とたらいを持って来やがれっ」

 土方が大声で怒鳴る。その声にはじかれるように隊士達が散った。

「まったくしょうのねぇ連中だ」

「はっはっは。気になってたんだなぁ。いいじゃねぇかい。気のいい連中だ」

そう言った後ふいと声を落とした。

「たぶんこの後すごく辛がるだろう。痛むからな。そこでだ」

 薬箱から一包みの薬を取り出した。

「ちょっと待ってろ。これを四等分してやる。この一包、非常に強い薬だからな」

「何ですこれは」

「強い眠り薬さ。全部飲ませた日にゃ死んだように寝っちまうって代物だ。だから少しだけだ。ともかく炎症がひくまでは眠らせとけ」

土方はその包みを受け取った。

「かたじけない」

「いいってことさ。とりあえずは手当てをしようか」

 やがて隊士達が戻ってくる音がした。


勇は新撰組屯所で寝かせられることになった。

 再び勇が連れ去られることを恐れたためだ。

「あの声は大鳥でしたよ」

 野村が土方に告げた。

「あと、川……何とかという声が」

「川村かもな。勘定方だ。俺が税について苦言を言ったからな。どこから勇のことをかぎつけたか……」

 土方が渋い顔をする。

 人頭税を掛けることを土方が止めたのだ。

 それは、勇の頼みでもあった。

……人頭税って薩摩が琉球に掛けた税金だよ。それで多くの人が苦しんだ。薩摩と戦っている私らが薩摩と同じことをする必要はないと思うよ。

 勇はそう言った。

「俺達には金がねぇからな。色々苦労しているのは分かるんだが」

「伝習隊の隊士がいました。でも変だな。あいつらくらいなら何とか逃げられないこともなかったと思うんですが」

「腕の立つ奴がいたんだな。他に。だから逃げ切れなかったんだろう」

「ひどく大柄な男がいたと勇とよく遊んでた娘が言っていました」

「大柄?大川の奴かな。あいつはごつい。腕も立つと聞いている。あと、手加減をしらねぇとも、な」

 二人がぼそぼそと話す。

「まあ、奴らも新撰組の屯所にちょっかい出すほどバカじゃねぇだろう」

「俺が傍にいます」

「頼む」

 土方が刀を差しながら立ち上がる。市村があわててそれに付き従った。

 野村は寝かされている勇の傍らに腰を下ろした。

 怪我のために熱をだした勇は呼吸が荒く、うっすらと汗ばんでいる。乱れた髪が頬に張り付いていたのを手で梳いてやる。

 じっとその寝顔を見つめた。

 痛ましいその姿に胸がつまる。

 気がつくとその上に身をかがめ、唇を重ねていた。

 ゆっくりと唇を離したとき、がたりという音がした。音のした方に顔を向けると市村が襖の所に立ちすくんでいる。

「何だ市村か。入るンならさっさと入って襖を立てな。寒いだろうが」

「のっ野村先生……今、勇の口を……」

「ん?見られたか。まあいいや。こっち来なよ」

 ぎくしゃくと市村が歩いてくる。すとんと腰を下ろした。だが、目は野村を見据えたままだ。

「言い訳はしねぇよ。俺はこいつに惚れてるからな」

「え?」

「愛おしいと心底そう思っている。俺はこいつのためなら命を懸けてやってもいい」

「勇は……知ってるんですか」

「知るわけゃねぇだろう。言ったことねぇからな」

「何で……」

「言う必要がねぇからさ。俺は、こいつの傍にいて守ってやれればそれでいいと思ってる。別にこいつに何かして欲しいなんて思っちゃいないんだ。ただ傍で見ていられればな」

 ふいに野村の声が低くなる。

「俺は……近藤局長を守れなかった。託された期待に答えられなかった。こいつのことも最初は土方副長に託されたからだ。償いのようなつもりで引き受けた」

 野村は勇へと目を移した。

「今は違う。今はただこいつを守りたい。こいつに辛い思いはさせたくねぇ。ましてこんな傷ついた姿なんか見たくねぇんくだ。くそっ、俺はまた後手にまわっちまった」

 唇をかみしめ拳で床を殴りつける。

「でも野村先生が助け出したんでしょう?」

「助け出したってこんだけひどい怪我させられてんだぞ。どんなに痛かったか。どれだけ怖い思いをしたか。泣いてなかったこいつが俺の顔見たとたん涙流したんだ」 

 野村の目には怒りが宿っている。

 市村は何も言えなかった。

「へたすりゃ近藤先生の時の二の舞だったんだ。死んじまってたら何にもならねぇんだ。もし、勇が死んじまってたら俺は生きていられねぇ。奴らと差し違えてでも敵を取ってやる」

 市村は黙るしかなかった。野村がここまで強い口調で言い切ったことに、男としての想いがどれほどのものかを思い知った。

 市村は土方の命によって野村の補佐をすることになったため戻ってきたのだが、自分の居場所が見つけられない。

「俺、邪魔でしょうか」

「かまわねえさ。お前も勇のこと好いてるだろうが」

 図星を指された市村が真っ赤になった。

「恋敵同士が看病するのか。何にも知らないんだろうな。こいつは……」

 二人は同時に勇を見下ろした。

勇はそれから三日間眠ったまま、一度も目を開けなかった。

四日後の夜。

 襖が開いて勇の眠っている部屋に入ってきた人影がある。

 勇の枕元に膝をつくといつの間にか額からずり落ちてしまって温くなった手ぬぐいを手に取った。傍らに置いてある手桶の水ですすぐと固く絞る。傷による発熱で汗の浮いた顔と首筋そして胸元を丁寧に拭う。

 再び手桶の水ですすぐと今度は軽く絞り額へとのせる。

 一瞬うっすらと勇の目が開いた。

 そのかすむ目に映ったのは、襖の向こうへと出ていく後ろ姿の影。背が高く広い肩幅で……目を閉じかけたとき反射した朱色の光が見えた気がした。


「伝習隊の奴らが動いてたのはやはり確かだったか」

 土方が低く話す。

 勇の眠る部屋。古参の隊士と土方がその枕元で話をしていた。

「それは間違いないようです。店の者に確認もとりましたし」

島田魁が答えた。監察でならした腕だ。

「なら仕方ないな。こいつに……」

 土方が言いかけたとき、勇がうっすらと目を開けたのに気がついた。

「ここは……」

 熱に浮かされた微かな声で聞く。

「屯所だ」

 少し覗き込むようにして土方が答える。

「気分は、どうだ?」

「あたし……まだ、生きてる?」

「ああ、生きてるぜ。俺達が死なせやしねぇよ。安心しな」

 勇は再び目を閉じると眠りに落ちていった。

「くそっ。あいつら……」

 野村が吐きすてる。

「勇にゃ気の毒だが、誰かが常に張り付くしかねぇな」

「それしかないでしょうね」

 島田も固い声で同意する。

「奴らが諦めるとも思えねぇしな」

 ため息混じりに土方が呟いた。

「副長。勇が今言ったこと」

 市村が怪訝そうに聞いた。

「ああ、それについちゃ気にすんな」

 土方の顔にふと影が差したのを野村は見逃さなかった。ただ今聞くべきではないと胸にしまう。

「屯所にいる間は誰かが見てるし、奴らも仕掛けてはこねぇだろう。とりあえずは、な」

 一同頷いた。しばらくは時間があるということだ。 


 勇がかろうじてでも体を起こすことができるようになるまで、一週間以上かかったのだった。

勇を知る人たちがこっそりとだが理由を付けて見舞いに顔を出すようになった。

 真っ先に顔を見せたのは永井である。

 見舞いにと草紙本を持ってきた。

 星は滋養にと英国商館で入手した蜂蜜を一瓶。伊庭は女の子は甘い物が好きだからと菓子を、その上

「榎本さんあんたまでか」

 土方が呆れたが、いいじゃないかと笑う榎本に渋い顔をする。

「これをあげよう」

 勇の手においた物は紙にくるまれた四角い物。

「これ、石鹸だ。シャボンですね。榎本さんが作ったんですか」

「そう、顔を洗うのでも使ってくれるかい」

「ありがとうございます。でも、大事な油をこんなことに使うのは感心しませんが」

あっはっは、厳しいなと笑った後、この後宴席があるのでねと帰っていった。

「石鹸とは?」

「土方さんは知らないか。洗うための物ですけど……。髪を洗うときに使おうかな。今度土方さんの髪を洗うとき使いますね」

 勇はそう言って微笑んだ。

 ブリュネは両手いっぱいのチョコボンボンを勇の手におくと、嬉しそうなその姿をさらさらとスケッチする。ブリュネの絵の腕は確かだ。 

 そして。

 中島三郎助はよりにもよって土方が返した年末の句会の綴りを置いていった。それを見た土方の表情を見て、勇は痛む腹を押さえて笑ってしまった。


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