時を超えて
「トシのばかっ。人の気も知らないでッ」
あたしは大きな声で言い捨てて、幼なじみの歳也の顔に手にしていたタオルを投げつける。
一瞬きっと睨んだ後、くるりと背を向けて駆け出し、思わず目に浮かんだ涙を乱暴に手の甲で拭いながら廊下を走り続けた。
夏休みの体育館。
歓声とかけ声が響く。
女子バスケットボール部が練習をしている。
あたしは、近藤勇。二年。
どうにも浮かぬ顔でドアを開けて体育館に滑り込んだ。
「あ、おかえり。トイレ遅かったじゃん」
部長の松平容子があたしに声をかけてくる。こいつも二年だ。
「ごめん」
泣いた目が赤いかもしれないので、目をそらす。
「とにかくコートに入ってよ」
あたしは バスケ部の中では高くはない。
身長は一メートル五十八センチ。
けしてちびではない。絶対ちびじゃない。
だが、長身者の多いバスケ部においてはどうしても小柄な部類になってしまう。
部員で背の順に並んだら、真ん中から八つだけ背が低い方といった位置にいる。低い方からなら二番目だ。やなことに。
何しろ部員中一番背の高いのが、あたしの相棒の松平容子だ。
こいつと並ぶとあたしの頭は肩ぐらいの場所に来る。
何しろ身長一メートル七十八センチ。
本人は八十にはなりたくないと言ってるが確実にいくだろうとあたしは読んでいる。
あたしはボールを受け取りコートにはいる。
あたしの持ち分は攻撃にある。
二三回ボールをつくと、体育館の窓のあたりがひときわ賑やかになる。
今日も窓際にたむろしてる女の子達がいるのだろう。
ボールを手に持つと目つきが変わるのが自分でもわかる。
すい、と腰を落とすと一気に駆け出す。
……前のディフェンスを、右へかわす。次は……。
低いドリブル、速いエッジの利いたターン、そして素早いステップで次々と相手を交わし、前に立ちはだかるディフェンス二人の腕の下を低い体勢でで一瞬のうちに駆け抜けた。
誰も止めることはできない。
鮮やかに四人を交わしてシュートのため体を起こした。
打たせまいと飛び上がる容子の手の遙か上で手がボールを投げた。
投げられたボールはリングをきれいに通り抜ける。
目の前にいた容子は、それを肩越しにみると大きくため息をつく。
「あーやっぱりあんたとやりたくないわ、五回に三回は抜かれるもの」
容子は頭の後ろに手を組んであたしを下目使いで見下ろした。
何せ背が高いから、威圧感は人一倍だ。
「んなこと言うもんじゃないよ。『守りの松平』なんでしょ」
あたしは皮肉とともにさらりとかわす。
「『攻めの近藤』が言うことでもないと思うけど」
容子はじろりとあたしを見る。
あたしとこいつ、松平容子、近藤勇は共に二年、都立日野高校の女子バスケ部の名コンビとして通っている。『日野の双璧』と言われている。
もっとも校内では『女子バスの凸凹コンビ』と言われているのだが。
一際長身、あたしのセミショートのボブの髪と対照的に、少し長めの段カット。シャギーの利いたワイルドな感じのヘアスタイルの松平容子は、ボーイッシュなハンサムガールで、男と間違えられること数度。メンズモデルのスカウトされたという笑い話がある位に、周りが曰く、イケメン少女だ。
その容子があたしのことをわけ有り美少女だと言う。
容子が言うに、整った顔立ちのくせに、不釣り合いなくらいに瞳が大きくてガキっぽい感じがするのだそうで、それがあたしを美人と言えなくしているんだとのたまう。
美人というエリアからははみだして、かといって可愛いとも言えず中途半端な奴だと文句を言っている。
そしてあたしに付けた呼び名が『眠れる時だけ美女』だそうだ。まったく馬鹿にしている。そう言うと、
「目を細めていれば?そうすりゃ美形よ」
だそうだ。何を言い出すんだか。
何時でもはっきりくっきり陽気な容子。
一方私は対照的に騒ぐとか賑やかにするということは苦手だ
ただ試合になると手加減というものはしない。試合中のあたしは抜き身の刀のようだと言った奴がいた。何しろ普段はどっちか言うとぼーっとしているように見えているので、このギャップは大きいと。
容子もあたしは怒らせると怖いタイプだという。
長身と持ち前のスピードを生かしたディフェンスが売りの容子と、幼い頃からの鍛錬で身に付いた力で、攻めのプレーをするあたしは好いコンビだった。
特にあたしの跳躍力は『近藤の背中には羽が生えてる』と言われるほどで、背の高い容子すら遙かに凌いでいる。あたしの身長で軽々ダンクが打てるというのは他にはいないだろうと思う。
そして……。
気がつくと窓の外が黄色い声で満ちていた。
「勇、あんたってほんっともてるわよね。……女の子に」
「ヨーコ、それ、誉め言葉じゃないから。ていうか、あんたがそれを言うな。バレンタインデーにチョコを大きな紙袋で持ち歩いていた奴が。あんた今までに何人の女の子に告られたのよ」
「でもあたし、年下からばっかりだもん。あんたみたいに、年下年上両方から告られるよりましじゃね?」
ボーイッシュで陽気でかっこいい、と言われる容子は下級生の女の子にファンクラブまである、のだそうだ。
あたしは騒がれることはあまり嬉しくはない。ただ普段の姿と試合の姿との激しいギャップがこの年頃の少女達に受けるのかどうなのかは知らない……。とにかく、あたしは年上・年下関係なく女の子に騒がれる。あたし自身は心中複雑なものがあるのだけど。
「嫌われるよりましだけど、複雑な気分……」
「やーねー。今さら何よ」
ケラケラ笑いながらそう言うと、容子はあたしの首に腕を回して絞め技をかけてきた。
「ちょ、ちょっと。くっ、苦しいって」
あたしら二人が絡んでいることで窓の外の黄色い声は一際大きくなった。断っておくが私らは、その気は全くない。
悪友同士の名コンビ。それが私たちだった。
「たく、手加減とゆうものをしらんのか、あんたは」
絞められた首をさすりながらコートから出て壁にもたれた。
顔を窓に向けると、遠くグラウンドをサッカー部が走っている。
「トシのバカヤロー」
あたしは思わず呟いていた。
トシ、こと歳也とは同い年の幼なじみで、
小さい頃から家族ぐるみでのつきあいだ。
……人がいったいどんな思いで言ったのかわかってるンだろか、あいつ。人が何のために……
考えると、改めて悔しくて涙が出てきそうだ。
物憂げに壁にもたれてサッカー部の練習を視界の端で眺める。
トシの奴はサッカー部だ。
ふいっと顔を背けるとあたしは一人つぶやいた。
「もう、きっと終わりにした方がお互い良いんだろうな。そうすれば……トシは解放される……。あたしのせいで辛い思いなんてする必要はない」
重い気持ちで壁から体をはがすと、ゆっくりと悪友ヨーコに向かって歩き出す。
部長としての悪友に五日間の休部を言うために。
きっと暫くの間は女の子達の黄色い声が無くて静かな練習になるだろう。
それから三日後。
あたしはフェリーから濃い碧色の海面を眺めていた。
潮風が頬をかすめていく。
浅葱色のTシャツを着て濃紺のデニムのハーフジャケットをはおり、デニムのショート丈のパンツという格好で船縁にもたれている。真っ白なスニーカーにつっこんだ短いデニムのパンツから出ている素足。潮風にジャケットがゆれる。
ずいぶんと使い込まれたロレックスの腕時計に目をやる。
もうすぐ十二時。お昼だ。これはもういない大好きだった人からの贈り物。お守り代わりだ。
胸元には革ひもに通された青緑色の石のペンダントがゆれている。ブルージャスパーの肉厚の丸いプレートのペンダント。あたしはこれ以外アクセサリと呼べるものは持たない。そして、出来る限りこれを肌身離さず付けている。
「これは血の変化したもので守護の石だ」
ある人からそう言って、あたしが赤ん坊の頃贈られたものだそうだ。その人のためにもずっと持っていなければならないと思っている……。
船が波を割っていく音がはるか下から聞こえてくる。
今、函館行きのフェリーの甲板に立っているのだ。遠く水平線が灰色の空を横に切り取っている。
本当ならトシと一緒に来るつもりだったのだが……。
「ねえ、勇ちゃん。本当に僕とでよかったの。僕としてはただで旅行誘ってもらってうれしかったけどさ」
何とも間の抜けた声で話しかけてくるのは、母方のいとこの沖田総司。
あたしより二つ年下で、何かと面倒を見ている私には頭が上がらない子だ。
今回も、トシの穴埋めを総司に言いつけてお供につれてきている。
「うん。おばさんには了解とってあるし、総司も受験の気分転換には丁度いいでしょ。もっとも旅行中勉強も見てくれって言われたわよ、おばさんから」
少しむっとした口調になるのは仕方ない。 トシと行くために総司の家庭教師というバイトまでしたのだ。それが、何が悲しくて総司を連れて来なきゃならなかったんだろう……。
我ながら自分はお人好しだと思う。
一人旅でもよかったのに、親に心配掛けたくないと言う妙な気遣いをしてしまう自分に呆れるというか情けないというか。
考えるだけで自分に腹が立ってきた。
「もう。考えるのやめっ」
前髪を掻き上げると船首の方へと歩く。肩に触れないくらいの髪がさらりとゆれる。船首近くに立つと、腕を伸ばしひとつのびをする。
……あたしの今の気持ちみたいに重ッ苦しい曇り空。なんか空が下がってきそう。
見上げた空は暗く灰色に波打つ雲がどんよりとたれ込めている。幾重にも重なった雲が空の高さを食いつぶしているようだ。
「おーい、いっさみちゃーん。雨降りそうだから中入ってよぉ。ご飯にしようよ」
キャビンへの入り口のドアの前に立って総司が手を振っていた。
「いまいくよっ」
振り向いたあたしの目が止まった。
船の上に低く降りてくるような雲塊。そして、
「セントエルモの火……だ」
思わず呟いた。
船のアンテナやポールの先がポッと淡く光っている。時折光が走る。
みると自分の体も静電気を帯びているようで、髪がふわりと広がる。
「やば、ほんとに降りそう」
見ると周りにいた人たちも、船内に入ろうと慌てて歩き出していた。
総司に向けて一歩踏み出したとき、目の前が急に白くなった。まるで世界が漂白されていくように白く眩しく、思わず目を閉じ腕をかざした。
ふわりと体が浮く浮揚感。
耳に叫ぶ総司の声が遠く遠く離れていった。
明治元年十月十九日早朝。
旧幕府軍の戦艦開陽丸は曇天の中、三陸沖を航行していた。
土方歳三は、ゆうらりとゆれる船の寝床で目を覚ました。常にゆれているために十分眠った気がしない。かといって横になっているのも気が滅入るので、洋装の軍服を着ると与えられていた船室から外に出た。
重くたれ込めた曇り空。
「どうも榎本は天気に恵まれないようだな」
榎本海軍は江戸から出航した際には嵐に遭遇し美賀保と咸臨の二隻を失っている。
甲板にでるとなにやら騒がしい。
「どうしたのか」
土方の問いかけに海軍の兵士一人が答えた。
「前方に人影が見えるんですよ」
「こんな沖でか」
「たぶん水死体だろうとは思うんですが、生死を確認する義務があるのです。遭難者かもしれないので」
そう言うとあわてたように走り去った。
「ランチを降ろせ。乗員は三人でいい」
この船の船長、沢太郎左衛門が声を張り上げている。
土方の姿を認めると、
「これは土方殿。お早いですな」
「人影が見えるとか」
「とりあえず確認せねばなりません。死体かもしれませんがね。お騒がせいたします」
土方と沢は船から降ろされた小舟が離れていくのを見ていた。
やがて小舟が止まった。
乗員の一人がなにやら手をバタバタしている。
「どうしました」
と、土方が問いかけると、
「生きてるようです。驚きですが」
双眼鏡をのぞきながら沢が答えた。
やがて舟が帰ってきた。一人の船員がぐったりとした人間を抱えて降りてくる。
「呼吸はありますが、冷えきって弱ってるようです」
抱えられた人間の顔をのぞき込んだ沢が驚いた声を上げた。
「お、女じゃないのか」
その声に土方も思わずのぞき込む。
唇は紫色で、真っ青な顔をしているが呼吸の度にかすかに唇が動いている。長いまつげに水滴が光り、短い髪だが首筋や面立ちは確かに女のものである。女と言うより娘だ。
奇妙な服を着ている。
厚手の布で作られているのか、濃紺の丈の短い筒袖の上着と浅葱色の布の肌着か……濡れて体に張り付いているのが艶めかしい。そして何より……股の部分しかない袴のようなものから長い足があらわになっていて、その白い太股に目のやり場に困る。
とりあえず甲板にと下ろされた。沢が上半身を抱き起こし頬をたたく。
「しっかりしたまえ。名を何という。わかるかね?」
何度か問いかけたとき目がうすく開いた。
「気がついたかね。名は?」
「……」
あまりにかすかな声なのでよく聞こえない。
「何?」
と、沢が口元に耳を近づける。
「いさみ……こんどう……いさみ」
「こんどういさみ?」
沢が問いかけたとき、娘の喉元に刀の鐺が突きつけられた。沢が見上げると凄まじい形相の土方が見下ろしていた。
「ふざけるな。冗談もほどほどに」
しろ、と言いかけたとき、勢いよく刀の鞘が払いのけられた。
ぐったりしていたはずの娘がゆらりと立ち上がる。
「ふざけるな……とはどういう意味」
ふらついてはいるがしっかりと土方を見据える。睨みつける土方の眼光を押し返すほどの強い瞳。
「この名は尊敬する先祖から引き継いだ名だ。バカにするのは許さない。あたしはこの勇という名に誇りを持ってる」
肩で息をしながら娘は言った。
「侮辱するなら覚悟して……か……ら」
ふっと目の光が消えるとそのまま前のめりに崩れ落ちた。
倒れた勇を暫く呆然と眺めていた土方だがやがてゆっくりと近づいて抱き上げた。
「えらく気の強い娘だな」
つぶやくと驚いた顔で見上げている沢に向かって、
「この娘、わたしが面倒見てかまわないか?」
と、声をかけた。
「それは……構いませんが」
「沢殿は何かと忙しいだろう。船の中では私にはすることがない。この娘、なかなか面白い。様子を見てみたい」
「では……土方殿にお任せします」
沢はひとつ頭を下げるとその場を離れていった。
波の音が聞こえる。
体がゆっくりと揺すられる感覚がする。
勇はゆっくりと目を開けた。
部屋が薄暗い。
天井が板張りだし何より電気が……ない。
「ここは……」
「気がついたようだな」
低い声がした。
勇はゆっくりと顔を声のした方へ向けた。 弱いランプの光を背に座っている男の影が見える。
自分が狭いベッドに寝かされているのに気がついた。
その影が立ち上がり近づいてくる。
「これを飲むといい」
体を起こされて湯飲みを差し出される。
手にとって、くん、とそのにおいをかいだ。覚えのあるにおいだ。
……これって石田散薬じゃない?トシの家でいやってほど飲まされたことあるもの。
小さく舌を出して、ぺろりと舐めてみた。
……にっ苦い。やっぱ石田散薬だ。
勇にとって、石田散薬は苦くておいしくないハーブティーと言うのと同義語である。
……あとはお酒のにおいだ。石田散薬って本当はお酒で飲むって聞いたし……。
再び舌先でちょっとだけ舐める。
……うわ苦っ。やっぱりあの薬溶かしてある。あたしこれ苦手なのよ……。
湯飲みを持ってぐずぐずしているといきなり手から湯飲みを取り上げられた。
えっ、と見上げると、その湯飲みをあおった男が勇の顎を押さえ込み無理矢理口移しで飲ませてきた。
「んぐぐ……」
見開いた目を白黒させながらも、思わず飲み込んでしまった勇は顔をしかめて舌を出す。
「苦っ」
「ぐずぐずしてるからだ」
すぐ近くで見た男の顔に勇は思わず声を上げた。
「とっ、歳三おじさん……」
勇にとっては見慣れた顔がそこにあった。
歳也の家に大切に飾ってある土方歳三その人の顔があったのだ。
「新撰組の土方歳三に向かっておじさんたぁ失礼な奴だな。だいたい俺はおめぇなんて知らねぇよ」
土方は部屋の壁にある棚に湯飲みを置いた。
「さて、何から聞かせてもらおうか」
椅子を引き寄せると勇のすぐそばに腰をかける。
腰の刀を外すと自分の前に立てて持った。ゴトリと重い音がする。
見覚えがあった。朱鞘の刀。兼定だ。
勇は呆然とその姿を眺めていた。写真そのままの姿の人を。
「なんで……なんで歳三おじさんがいるの。あの人は幕末の人なのに……」
思わず呟いた。
……これは夢だよ。じゃなきゃ映画のロケか、悪いいたずらでしかあり得ない……
頭を抱えて下を向いた勇だったが両肩を掴まれ土方の方へと向きを変えさせられた。
「こっち向きな。おめぇは何もんだ?近藤勇なんてふざけたこと言いやがると……」
「だってそうなんだからしょうがないじゃない」
勇の声が大きくなった。
「父さんが、おじいちゃんがつけたんだもの。近藤家の希望と夢を果たすために付けられたんだもの。あたしはこの勇という名を生まれる前から付けられたんだもの」
「生まれる前から?」
怪訝そうに土方が言った。
「あたしは何代もの近藤家の悲願のために勇という名を付けられた。それはあたしにとって誇りでもあり……重荷でもある」
勇はうつむいた。終わりの言葉はつぶやきに近い。
「たぶんそれはトシにとってもそうなんだと……思う」
「とし?誰だそれは」
「土方歳也。歳三おじさん達から七代あとの土方家の長男だよ」
今度は土方が呆気にとられる番だった。
「七代後?おめぇは一体……」
「あなたが本当に新撰組の土方歳三なら、あたしはここからずっと後の人間になる」
土方には言葉がない。
「もしそうなら、あたしは過去に来たことになる」
両手で顔を覆った勇は、
「そんなバカなことがあっていいはずない」
絞り出すように言った。
「ねぇ、嘘だよね。新撰組の土方歳三なんて。映画のロケとかテレビのドッキリ番組とかだよね」
土方の胸にしがみついて言った言葉に帰ってきた言葉は勇を絶句させた。
「おまえの言ってることは何のことかわからねぇ。だが俺は新撰組の土方だ。もっとも今は榎本の下にいるがな」
少し皮肉っぽいその笑みを目にすると、胸元をつかんでいた手から力が抜け、勇はずるずると崩れ落ちた。両の目から涙があふれて止まらない。
「そんな……。本当に?どうしよう……帰らなきゃ。あたし……帰らなきゃならないのに。みんなに心配かけちゃう。……おかあさん……トシ……」
声を殺して泣く勇を暫く見ていた土方は刀を横に置くとそっと勇を胸に抱いた。
「俺ぁ女に泣かれるのは苦手なんだ……。泣くだけ泣きな。どうものっぴきならねぇ事情があるようだ」
その後ずいぶんと泣いたのだろうと勇は思う。だがずっと土方はそのままでいてくれた。
真っ赤な目を上げた勇は手で目をぐいっと拭った。
「歳三おじさんは、優しいんだね。鬼の副長って言われてたくせに」
小首を傾げながら言う勇に、
「女には、な。だがおじさんはやめろ」
むっとした顔で土方が応える。
勇は改めて土方と向かい合ったが何も着ていないのに改めて気がついた。ぎょっとした顔の勇に、
「気にするな。俺ぁ女の裸は見慣れてる」
土方がしれっと吐き捨てる。
服を脱がせたのは土方らしい。
そんな姿に怒ることも恥ずかしがることもできなくなる。
勇は布団を胸の前に抱え込み、土方が背中に自分の軍服を羽織らせてくれた。
「あたしは、本当に近藤勇というの。新撰組局長だった勇おじいちゃんからはそう……八代後になる。家は三鷹。多摩と言った方がいい?井の頭の近くだよ」
ぽつぽつと勇が話し出す。
「あたしの家とトシの土方家はずっと、歳三さん達の後も両家は親密に付き合ってきたんだよ。ある時、確か二代目の頃かな、おじいちゃん達が一つの夢を持ったんだ」
「夢?」
「うん。両家の血を一つにしようって」
「一つにするとは……」
「トシなんかは爺様の百年計画とか世紀の陰謀なんて陰口言ってたけど。つまり自分たちの子供を一緒にさせようって決めたんだ」
「……」
土方は腕を組んだままだ。
「なかなかうまくいかなくて。でも、爺様達が望んだ時から七代後に土方家に男の子が産まれて……、丁度その頃近藤家が妊娠中だった。お腹の子が女の子と分かったときに、その子は勇と名付けられた。それがあたし」
勇はふっと自嘲気味に笑った。
「爺様達の計画の後からはね、土方家は子供には『歳』の字か『とし』という言葉、近藤家は『勇』という字がずっと子供に付けられてきたんだ。土方家に産まれた子は歳也と名付けられた」
「としや?」
「だって長男だから歳三って付けられなかったんだ。歳なりって意味で歳也。あたしは勇と。名前の響きは女の子でもおかしくないでしょ?」
「ずいぶん乱暴だな」
土方がため息をつく。
「だからあたしには生まれる前から、名前と許嫁が決まってた。トシは何にもわからないうちにお嫁さんが決まってたことになる。実際、五歳の時仮祝言もされちゃったし」
「なに?」
「覚えてないけど写真残ってるもの。トシは丸に左三つ巴の紋付き袴であたしは白無垢」
もはや土方は呆れるしかない。
「お前は嫌だったのか?」
「ちっさいころから土方家でしょっちゅう過ごしてたからそんなもんだって思ってたな。周りを見れば土方さんばっかりの環境にも違和感なんて感じなかったし、『ひじかたいさみ』って呼ばれても返事してたものなぁ、あの頃。あたしトシのこと好きだったし。でもね……」
「ん?」
土方は勇の言葉が途切れたことに怪訝そうな顔を向ける。
「トシはそうじゃないんじゃないかって最近思うようになったんだ。あたしなんかに縛られて生きていくより自由に生きられるならその方がいい。だから……」
思わず勇の声のトーンが下がる。
「だから?」
「トシと親戚や家族のいない函館に行ってホントの気持ち聞こうと思った。函館なら家族に反対されないと思ったから」
「なぜ箱館なんだ?」
「歳三さんの死……いえ、戦った場所でしょ。京都にはあたしの親戚がいるし、福島いえ会津には土方家の親戚があるし……。行けば必ず親戚の家に泊まんなきゃならなくなるから。だから函館。ここならきっと反対はされないとふんだんだ。そこでたとえどんな結果になってもあたしは受け入れようって決めてた。もし、トシがこの関係に嫌気がさしてたら二人して両親にちゃんと言って婚約を解消してもらおうって。だって……」
不意に勇は言葉に詰まった。
「トシにはずっと笑っていて欲しいんだもの。婚約を解消したいって言われても、トシがそうしたいんならそうする。あたしは、トシの足枷になんかになりたくないんだ」
顔を伏せてしまった勇に土方は何もいえなかった。脳裏には流山での近藤の言葉が甦っていたからだ。
……俺はな、剣にしか生きられない男だがおめぇは違う。この後は思うままにやってみろ。俺は歳の荷物にはなりたくねぇんだ。この命、今まで俺に尽くしてくれたおめぇに餞としてくれてやるよ。おれのことは気に掛けるな。何があってもな……。
流山で近藤が薩摩長州のいる陣に出向くとき言った言葉だった。
……同じだな。近藤さんの言葉と。
土方は目を閉じた。
「近藤家の人間ってこうなのかね?」
「え?」
「いや……。とりあえず休みな。お前の身は俺が責任を持つ」
ベッドに横にさせようとしたとき、
「あの、あたしの持ってた物は?」
「あれか?」
土方は後ろの棚に目を向けた。
勇が急いでベッドから降りようとしたとき足がもつれてぐらりと倒れそうになった。
土方が受け止めて床に崩れずにすんだものの歩くことは無理そうだった。
酔いがまわっているらしい。
「待ってろ。お前は横になれ」
土方が棚の上から携帯電話と財布を持ってきた。
「これが何かはわからんが、大事な物なのか?」
「これがあたしがこの時代の人間じゃない証拠かもしれない」
そう言いながら携帯を開いた。が、画面は真っ暗だった。電源スイッチを押しても反応がない。
「そんな……壊れたのかな。この携帯、完全防水だっていうから買ったのに。ああ……、あの時壊れたんだ、きっと」
勇の頭にはあの眩しい光がうかんでいた。
「それはなんだ?」
「遠くの人と話せるからくり……かな。でも壊れたみたい。この中にあるトシの写真見せようかと思ったんだけど、駄目かぁ」
勇はため息をつくと横になった。財布は海水に浸かって諦めるしかなさそうだった。中に入っていた紙幣と硬貨は土方の見たことのない物だったが”日本国”という文字が確かにこの国の物であることを示していた。
勇は少しの間土方と話していたが、石田散薬を飲ませるのに使った酒のせいかやがて眠りに落ちた。
一方、土方は暫く考え込んでいたが、何か思いついたのか部屋を出ていった。
「この娘が、ですか?」
洋装の軍服を着た一人の男が眠っている勇をのぞき込んだ。
「そうだ」
後ろで腕を組んで立っていた土方は下を向いたまま答えた。
のぞき込んでいるのは野村利三郎である。 少したれ気味の目が人が良さそうな感じをあたえるが、精悍な顔つきは研ぎすまされた刃物のような鋭さを帯び、口元は一度決めたら決して覆さない意志で引き締まっている。 曲がったことが大嫌いで、どんな時にも恐れて逃げるということなど微塵も考えない男である。あの近藤勇が流山で薩長の陣に出頭するときに最後まで付き従っていった男だった。
「お前を見込んで頼むんだ」
そう言いながら土方は椅子に腰を下ろした。
「お前なら信頼できる」
「でも可愛いなぁ。この子が本当に近藤局長の末ですか。あの局長の顔からは想像できないなぁ、こんな可愛い子が産まれるなんて」
凛々しいと言える顔だが、その相好を崩して見入っている野村にいらいらした口調で土方が、
「おい、真面目に聞いてるのかよ?」
と、声をかけた。
「聞いてますよ。でも、副長は信じてるんですか?」
「半信半疑ってところだが、ただもんじゃねぇってことは確かだ。こいつ、明日には蝦夷に着く、鷲ノ木という浜に着くことになると言ったんだ。お前を呼びに行くとき榎本から同じことを言われた。こいつは知ってたんだ。もし本当に近藤さんの末って言うンなら、こいつはずっと後の時代から来ていることになる。つまりこれからのことを知っていることになるんだ。この意味することがお前解るか?」
野村は土方を振り返った。
「この子はこれからのことを……。まさか」
「解ったか?俺がそばにいられたなら俺が守れるが、俺が何時でも側にいられるわけでもねぇ。だからお前に頼むんだ。こいつを守れ。薩長から、そして大鳥と榎本から」
「榎本さん達からもですか」
「ああ、こいつのことを知られると何考えるかわからねぇからな」
土方が苦い顔で言った。
「解りました。守りますよ。必ずね」
野村ははっきりと答えた。
長い話ですがよろしく。ピクシブでは完結までと外伝が載ってます。随時転載予定。