なぜ、穴を掘ったのか?
奴隷としてとらえられた私は、このように命令された。
「君、そこに穴を掘ってくれ」
「はい、わかりました」
言われたとおりに穴を掘る。
「穴を掘りました」
「そうか、では次に、今、掘った穴を埋めてくれ」
「なぜですか?」
「穴を埋めるためだよ」
「では、今、穴を掘らせたのは、穴を埋めさせるためですか?」
「そのとおりだ」
「そこに何の意味があるのですか?」
「意味?意味など無い。そもそもこの世界に意味のあるものなど一つでもあるのか?
意味を考え始めたとき、終わりのない苦しみが始まる、だから意味など考えてはいけない」
こんな話があった、奴隷にもっとも残酷な刑を科するとすれば、土の山をA地点からB地点に移動させ、今度はその移動させた土の山をB地点からA地点に移動させる、これを繰りかえさせれば、数日のうちに奴隷は発狂して死ぬだろう、と。しかし、果たしてそうか?
そもそも、我々は意味も無く生きているし、そこに勝手に意味を見出して、意味があるように勘違いして生きているのだ。つまり人類は皆、勘違い、思い込み、強迫観念のうえに生きているといえる。それから勘違いや思い込みから覚めたとき、終わりの無い苦しみが始まるのだ、だから覚めてはいけない、勘違いしたまま生きて死ぬのが良い。
そうでなければ人類は皆、発狂して死んでしまうのだから。
(いや、正確には、痛みも苦しみもなく死ねるのなら、おそらく全員自殺するだろう
痛みや苦しみが伴うのなら無理して死ぬことも無いから死なない、という消去法的生き方)
この世界が生まれる前は、何も無い無の世界だったと言われている。そこからビッグバンによって、これほどのさまざまなものがあふれる世界になったのだ。
つまり0(ゼロ)=無限(∞)なのだ。
そこには意味など無い、この世界が生まれたことには意味は無い。穴を掘って埋めて、また
埋めて掘ってを繰り返すことと同じように意味が無い。
卵が先か鶏が先かの問いと同じだ。
ただ、穴を掘る、穴ができる、という状態の変化に対して、穴を埋める、という理由ができる、穴を埋めるためには、穴を掘らなければならない。
この世界が生まれた理由も、そうだ。ずっと無の状態のままでよかったのに、なぜか神は
この世界を作ってしまったんだな。
しかし、この世界を作ったのが神だとすれば、その神を作ったのは誰だ、とまた終わりの無い疑問が始まるのであるが。