あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?
封筒は、どこにでもある白いものだった。
宛名は印字されていた。差出人の欄には、見慣れない組織名がある。
社会生活実態調査機構。
岸田直哉は、アパートの集合ポストの前で、しばらくその文字を眺めていた。公共料金の督促でも、通販のチラシでもない。役所からの通知に似ているが、役所の名前ではない。民間企業の広告に似ているが、広告らしい派手さもない。
部屋に戻り、電気ケトルのスイッチを入れてから、封を切った。
中には、薄い冊子と返信用封筒が入っていた。冊子の表紙には、こう印刷されている。
『あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?』
直哉は、声を出さずに笑った。
悪趣味な質問だと思った。
だが、冊子を開くと、そこには思いのほか真面目な説明文が並んでいた。
本調査は、現代社会における人間関係の実態を把握し、孤立防止および生活支援制度の改善に役立てるためのものです。回答内容は統計処理され、個人が特定される形では公開されません。できるだけ本音でご回答ください。
質問は全部で十問ほどだった。
あなたが一日連絡を取らなかった場合、心配して連絡をくれる人は何人いますか。
あなたが三日間出勤、通学、または普段の活動場所に現れなかった場合、異変に気づく人は何人いますか。
あなたが倒れたとき、病院に駆けつける可能性のある人は何人いますか。
あなたの死後、継続的に悲しむと思われる人は何人いますか。
そして最後に、太字でこう書かれていた。
あなたがいなくなったら、本当に困る人は何人ですか。
直哉は、しばらくペンを持ったまま動かなかった。
困る人。
その言葉は、寂しさや悲しさとは違う響きを持っていた。自分が死んだら泣く人ではなく、困る人。生活が滞る人。仕事が回らなくなる人。心のどこかに穴が開く人。代わりがいないと感じる人。
そんな人間が、自分には何人いるのだろう。
職場の人間は困るだろうか。
直哉は、配送倉庫で働いていた。正社員ではない。契約社員でもない。派遣会社から回され、箱を積み、伝票を読み、端末でバーコードを鳴らす。午前中に来る荷物を午後までに仕分ける。それだけの仕事だった。
たしかに、急に休めば現場は多少混乱する。だが、翌日には誰かが入る。来週には別の人間が同じ位置に立っている。たぶん、名前も覚えられないまま、直哉の空白は埋まる。
親はどうか。
父とは三年話していない。母からは季節の変わり目に短いメッセージが来る。「体に気をつけてね」。直哉はいつも「うん」とだけ返していた。実家には兄夫婦が住んでいる。父も母も、直哉がいなくなれば悲しむかもしれない。だが、生活に困るわけではない。
友人。
直哉は、その欄で完全に手が止まった。
スマホを開けば、連絡先は百件以上ある。高校の同級生、大学のゼミ仲間、前の職場の人、昔よく飲みに行った相手。だが、今すぐ電話しても自然に出てくれる人間を想像すると、数は急に減った。
結婚式に呼ばれなくなった頃から、付き合いは途切れていった。誰かの子どもの写真に「かわいいね」と打つのが億劫になり、誰かの昇進報告にいいねを押すことも少なくなった。こちらから遠ざかったのか、向こうから忘れられたのか、その順番はもうわからない。
直哉は最後の質問の欄に、数字を書いた。
一。
少し迷ってから、消しゴムで消した。
ゼロ。
それが正直な答えだった。
封筒を閉じたあと、直哉は妙にすっきりした気分になった。
不思議なものだ。誰にも必要とされていないと認めることは、ひどく残酷なはずなのに、同時に、何かから解放されるようでもあった。
自分がいなくなっても、世界は回る。
そう思えば、失敗も、停滞も、何者にもなれなかったことも、少しだけ軽くなる気がした。
ポストに返信用封筒を投函したのは、その翌朝だった。
それから七日後、直哉のスマホに通知が届いた。
件名は、調査結果通知。
差出人は、社会生活実態調査機構だった。
直哉は、配送倉庫の休憩室でそれを開いた。昼休みのざわめきが周囲にあった。誰かがカップ麺に湯を注ぎ、誰かが動画を見て笑っている。端の席で、直哉だけが、スマホの小さな画面を見つめていた。
あなたの社会的相互依存指数が算出されました。
表示された文面は、ひどく事務的だった。
自己申告人数 0人
第三者回答人数 0人
緊急連絡反応数 0件
継続的接触関係 検出なし
結果。
あなたがいなくなったら困る人の人数は、0人です。
直哉は、画面を閉じた。
胸が痛むかと思ったが、痛まなかった。
自分で書いた答えが返ってきただけだ。驚くことではない。むしろ、正確な調査だと思った。変に慰められるよりいい。あなたは本当は誰かに必要とされています、などと言われるより、ずっと誠実だ。
その日の作業は、いつもより楽だった。
箱の重さも、端末の電子音も、現場監督の怒鳴り声も、どこか遠かった。自分はこの場所に結びついていない。そう思うと、すべてが仮のものに見えた。
仕事を終えて帰ろうとしたとき、班長の吉岡に呼び止められた。
「岸田さん、明日からしばらく別ラインに入ってもらえる?」
「はい」
「急で悪いね。人が足りなくて」
直哉は頷いた。
人が足りない。
その言葉に、少しだけ笑いそうになった。
足りないのは人であって、岸田直哉ではない。そこにある穴は、人型をしているだけだ。誰かが立てば埋まる。
翌日も、その翌日も、直哉は別ラインで働いた。
帰宅すると、アパートの郵便受けに茶色い封筒が入っていた。今度は厚みがあった。
差出人は同じだった。
社会生活実態調査機構。
中には、一枚の通知書と、施設案内のようなパンフレットが入っていた。
通知書の冒頭には、こう書かれていた。
あなたは社会的相互依存指数の基準値を下回りました。つきましては、生活資源再配置プログラムの説明会にご参加ください。
日時は三日後。
場所は、隣県の郊外にある施設だった。
直哉は何度も読み返した。
生活資源再配置プログラム。
意味がわからなかった。支援制度なのか。孤立している人間への相談会なのか。そう思おうとしたが、パンフレットに載っていた施設の写真が、それを許さなかった。
建物は、窓の少ない灰色の箱だった。病院にも、研修所にも、刑務所にも見えた。
直哉は通知書の下部にある問い合わせ番号に電話をかけた。
数回の呼び出し音の後、若い女性の声が出た。
「社会生活実態調査機構、相談窓口でございます」
「あの、通知が届いたんですが」
「お名前と通知番号をお願いします」
直哉が答えると、数秒の沈黙があった。キーボードを叩く音が聞こえる。
「岸田直哉様ですね。生活資源再配置プログラム説明会の対象となっております」
「これは、何なんですか」
「説明会で詳細をご案内いたします」
「行かなかったらどうなりますか」
「出席は任意です。ただし、欠席された場合も、登録情報に基づき、必要な手続きが進行いたします」
「手続きって何ですか」
「説明会で詳細をご案内いたします」
同じ声、同じ調子。
直哉は電話を切った。
任意という言葉ほど、信用できないものはない。
三日後、直哉は指定された施設へ向かった。
行く必要はないと思った。通知を無視することもできた。だが、無視したところで、何かが進むのなら、見ておいた方がいい。自分の人生がどこへ運ばれようとしているのか、せめて確認しておきたかった。
駅から出ている送迎バスには、直哉のほかに六人が乗っていた。
みな一人だった。誰かと話す者はいない。中年の女性、スーツ姿の男、痩せた老人、二十代くらいの青年。全員が、膝の上に通知書を置いていた。
バスは住宅地を抜け、畑の間の道を進み、やがて低い山のふもとに入った。
灰色の建物が見えてきた。
写真で見た通りだった。窓が少ない。入口は広いが、歓迎されている感じはなかった。
受付で通知書を見せると、番号札を渡された。名前ではなく番号で呼ばれるらしい。
直哉は、待合室の椅子に座った。
壁には、柔らかい色のポスターが貼られていた。
あなたの空白を、社会の力に。
誰かの明日を支える、静かな選択。
直哉は、その二枚目の文を見た瞬間、背中に冷たいものを感じた。
静かな選択。
何を選ばされるのか。
「七番の方」
呼ばれて、直哉は立ち上がった。
案内されたのは、小さな相談室だった。机を挟んで、スーツ姿の女性が座っていた。胸元の名札には、高梨とある。
「岸田直哉様ですね」
「はい」
「本日はお越しいただきありがとうございます。担当の高梨です」
高梨は、笑顔を作った。上手な笑顔だった。感情ではなく、訓練で身につけたものだとわかる笑顔。
「まず、今回の調査結果についてご説明します。岸田様は、自己申告、第三者照会、緊急連絡反応、各種生活接点のいずれにおいても、依存関係が確認されませんでした」
「依存関係」
「簡単に申し上げると、岸田様が突然生活圏から消失された場合に、重大な支障を訴える方が確認されなかったということです」
直哉は、拳を握った。
わかっていたはずなのに、人の口から言われると違った。
「それで、どうなるんですか」
「岸田様には、生活資源再配置プログラムの候補者として、いくつかの選択肢をご提示いたします」
高梨はタブレットを操作し、机の上に向けた。
そこには三つの項目が並んでいた。
居住権の一部返還。
労働枠の再調整。
身体資源の提供登録。
直哉は、最後の文字列を見て、喉が乾くのを感じた。
「身体資源って、何ですか」
「医療分野における提供登録です。もちろん、法令に基づく範囲内で行われます」
「臓器提供ですか」
「それも含まれます」
「生きている人間に、そんなものを勧めるんですか」
「勧める、という表現は正確ではありません。社会的相互依存指数が著しく低い方に対して、資源の最適化に関する情報を提示しています」
「俺は、物じゃない」
「もちろんです。岸田様は人間です」
高梨は即答した。
その速さが、かえって恐ろしかった。
「人間であるからこそ、社会の中でどのように価値を発揮するかを考える必要があります」
「価値がない人間は、差し出せってことですか」
「価値がないとは申し上げておりません」
「でも、困る人がいないんでしょう」
「はい」
「なら、いなくなってもいいってことじゃないですか」
「それは岸田様ご自身の解釈です」
高梨は、声の調子を変えなかった。
直哉は腹が立った。怒鳴りたかった。机を叩きたかった。だが、そんなことをしても、ここでは記録されるだけだと思った。
感情は、証拠になる。
「帰ります」
「もちろん可能です。ただ、通知書にも記載の通り、欠席および辞退の場合も、生活資源再配置に関する情報は更新されます」
「勝手にしてください」
「一つだけ、ご確認ください」
高梨は、タブレットをもう一度操作した。
「岸田様が最後に緊急連絡先として登録された方は、お母様の岸田昌代様です。過去三年間、通話履歴は確認されていません。メッセージの返信は年に二回程度。今回の照会に対する反応はありませんでした」
直哉は動けなかった。
「母に、何を送ったんですか」
「生活影響照会です。岸田様が長期不在となった場合、生活上重大な影響が生じるかどうかを確認するものです」
「そんなもの、母に」
「回答はありませんでした」
高梨は淡々と言った。
「一定期間内に回答がない場合、影響なしとして処理されます」
直哉は、相談室を出た。
廊下を歩きながら、スマホを取り出した。母に電話をかけた。
呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
出ない。
直哉は切った。
母は昼間、畑に出ているのかもしれない。買い物かもしれない。単にスマホを見ていないだけかもしれない。
それだけのことだ。
それだけのことのはずだった。
施設を出ると、空は低く曇っていた。帰りの送迎バスまで三十分あると言われたが、直哉は待たずに歩き出した。
道は長かった。山を下り、畑の間を抜ける。車はほとんど通らない。スマホの電波は弱く、母からの折り返しもなかった。
直哉は歩きながら、考えた。
自分は本当に、誰にも必要とされていないのか。
その問いを、これまで何度も自分に投げてきた。そしてそのたびに、答えは同じだった。
いない。
だから楽だと思っていた。
誰かの期待に応えなくていい。誰かを失望させなくていい。誰かの人生を背負わなくていい。
けれど、あの施設で同じことを言われた瞬間、その答えは急に別の形を帯びた。
自分が自分を軽く扱うのと、他人が自分を軽く扱うのは、まったく違う。
駅に着いた頃、母から着信があった。
直哉はホームのベンチに座り、慌てて通話ボタンを押した。
「もしもし」
『直哉? ごめんね。畑に出てて』
母の声は、少し息が切れていた。
「いや、別に」
『何かあった?』
「何かってほどじゃない」
『そう』
会話が途切れた。
直哉は、何を言えばいいかわからなかった。
調査があった。あなたは俺がいなくなっても困らないと判定された。そう言えるはずがない。言ったところで、母は困るだろう。それこそ、迷惑だ。
『直哉』
「うん」
『この前、変な封筒が来たのよ』
直哉は息を止めた。
『あなたが長くいなくなったら、うちの生活にどれくらい影響があるか、みたいな。気味が悪くてね。お父さんが捨てろって言うから、返してないの』
「返してないんだ」
『だって、変でしょう。そんなこと、他人に聞かれることじゃないもの』
直哉は、目を閉じた。
「じゃあ、母さんは」
『何?』
「俺がいなくなったら、困る?」
電話の向こうで、母が黙った。
その沈黙が、直哉には怖かった。
電車がホームに入ってきた。風が吹き、アナウンスが流れ、線路の音が耳を覆った。それでも直哉は、スマホを耳に押し当てたまま動かなかった。
『困るに決まってるでしょう』
母の声は、少し怒っていた。
『何を言ってるの。困るとか困らないとか、そういう話じゃないでしょう。あなたがいなくなったら、お母さんは困るの。困るし、悲しいし、たぶん、どうしていいかわからなくなるの』
「でも、俺、何もしてないよ」
『何もしてないって、何』
「仕送りもしてないし、実家にも帰ってないし、電話もしてない」
『そんなことで人の価値が決まるなら、世の中の親はみんな商売人よ』
直哉は、返事ができなかった。
『あなたがご飯を食べてるかどうか、夜眠れてるかどうか、変な咳をしてないかどうか、そういうことがたまに気になるの。連絡が来たら安心するの。来なかったら、元気なんだろうと思うしかないの。それを困らないなんて言われたら、腹が立つわ』
直哉は、スマホを持つ手に力を込めた。
『直哉、何かあったの?』
「いや」
『本当に?』
「うん」
嘘だった。
だが、今はそれ以上言えなかった。
「近いうち、帰るよ」
『本当?』
「たぶん」
『たぶんじゃなくて、帰ってきなさい。お父さんも、口には出さないけど、あなたのこと気にしてるんだから』
「父さんが?」
『そうよ。あなたの話になると不機嫌になるの。あれは気にしてる証拠よ。面倒くさい人でしょう』
直哉は、少し笑った。
電車には乗らなかった。
一本見送り、ベンチに座ったまま、切れた電話の画面を眺めた。
その夜、直哉は社会生活実態調査機構から届いた通知書をもう一度読んだ。
自己申告人数 0人
第三者回答人数 0人
緊急連絡反応数 0件
継続的接触関係 検出なし
そこに書かれている数字は、たしかに事実だった。
だが、事実は真実ではなかった。
母は返信していなかった。だからゼロになった。父は不器用だった。だからゼロになった。友人たちは連絡を取っていなかった。だからゼロになった。職場では代わりがいる。だからゼロになった。
この社会は、声を出さない関係を数えられない。
返送されなかった愛情を、存在しないものとして扱う。
直哉は、通知書を破ろうとして、やめた。
スマホを開き、連絡先を探した。
高校時代の友人、村瀬。
最後に連絡したのは二年前だった。村瀬の子どもが生まれたとき、「おめでとう」とだけ送った。それ以来、何もない。
直哉は、短い文を打った。
久しぶり。急に悪い。元気にしてる?
送信ボタンを押すまでに、五分かかった。
返事は、二十分後に来た。
おお、岸田。生きてたか。こっちは何とかやってる。お前は?
生きてたか。
直哉は、その五文字を何度も見た。
冗談のような言葉だった。だが、その奥に、薄くても確かな線があった。
次に、前の職場で一緒だった佐伯に送った。
夜分にすみません。お元気ですか。
返事はすぐには来なかった。
その代わり、母からメッセージが来た。
いつ帰ってくるか決めたら教えて。あなたの好きな煮魚を作ります。
直哉は、画面を見ながら、声を出さずに泣いた。
泣いている自分に驚いた。何年も、涙など出なかった。悲しい映画を見ても、知人の訃報を聞いても、胸の奥が固くなるだけだった。
その固まりが、少しずつ水に戻っていくようだった。
翌朝、直哉は仕事を休んだ。
派遣会社には体調不良と伝えた。嘘ではなかった。体調は悪かった。心臓のあたりが重く、頭の奥が熱かった。
午前十時、社会生活実態調査機構から再び通知が届いた。
生活資源再配置プログラムへの参加意思が未確認です。期限内に回答がない場合、低相互依存対象者として登録が継続されます。
直哉は返信欄を開いた。
辞退する。
それだけでは足りない気がした。
彼は続けて入力した。
自分で自分をゼロと書いたことを撤回します。
送信しようとした瞬間、画面にエラーが表示された。
回答形式が正しくありません。
選択肢は二つだけだった。
同意する。
保留する。
辞退はなかった。
直哉は笑った。
どこまでも丁寧で、どこまでも逃げ道がない。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
直哉は身体を強張らせた。
ドアスコープを覗くと、スーツ姿の男女が立っていた。胸元には、社会生活実態調査機構の名札がある。
直哉はチェーンを掛けたまま、ドアを少し開けた。
「岸田直哉様ですね」
男が言った。
「生活資源再配置プログラムについて、ご説明に伺いました」
「説明は聞きました」
「現在、登録情報に更新が必要な可能性があります。ご本人確認を」
「帰ってください」
男は一瞬だけ黙った。
「拒否される場合、確認不能として処理されます」
「好きにしてください」
「岸田様」
今度は女が口を開いた。
「本制度は、社会全体の資源配分を適正化するために設計されています。孤立状態にある方を放置するものではありません。むしろ、その方の価値を社会に還元するための」
「価値って言葉、やめてもらえますか」
直哉の声は、自分でも驚くほど低かった。
「俺は昨日まで、自分のことを価値がない人間だと思っていました。あなたたちの通知を見て、やっぱりそうなんだと思いました。でも違う。少なくとも、あなたたちに決められることではない」
「ご不快にさせたのであれば」
「不快です」
直哉は、遮った。
「母に電話しました。友人にも連絡しました。あなたたちの数字には出ていない関係がありました」
「その場合、再評価申請が可能です」
「じゃあ、申請します」
「証明資料の提出が必要です」
「証明?」
「継続的接触履歴、扶養関係、同居実態、金銭的相互依存、介護または看護の必要性などです」
直哉は、声を失った。
煮魚を作るというメッセージは、証明にならないのだろう。
生きてたか、という友人の返信も。
父が不機嫌になることも。
母がたまに体調を気にしていることも。
「提出できない場合は、再評価が難しい可能性があります」
女は申し訳なさそうに言った。
申し訳なさそうに言う訓練も、きっと受けているのだろう。
直哉はドアを閉めた。
チェーンの金属音が、狭い玄関に響いた。
その日から、直哉は連絡を取り始めた。
母に電話した。父にも代わってもらった。父は最初、何を話せばいいかわからない様子で、「仕事はどうだ」とだけ言った。直哉が「まあまあ」と答えると、父は「そうか」と言った。
それだけだった。
だが、電話を切る直前、父は小さく言った。
「帰ってくるなら、駅まで迎えに行く」
直哉は、その言葉を何度も思い出した。
村瀬とは週末に会うことになった。佐伯からも、翌日の昼に返事が来た。転職して忙しかったこと、最近腰を痛めたこと、たまには飲みに行こうということが書かれていた。
直哉は、少しずつ、人の世界に戻っていく感覚を覚えた。
だが同時に、恐怖も増していった。
自分が戻ろうとしている世界は、最初から自分を待っていたわけではない。こちらから手を伸ばして、ようやく触れられる程度のものだ。手を離せば、またすぐにゼロになる。
そして、ゼロになった人間を、この社会は見逃さない。
一週間後、直哉のもとに再評価結果が届いた。
自己申告人数 3人
第三者回答人数 2人
緊急連絡反応数 1件
継続的接触関係 低頻度
判定。
要観察。
生活資源再配置プログラム登録は保留されます。
保留。
直哉はその二文字を見て、しばらく笑った。
助かった、とは思えなかった。
保留されただけだ。人間として認められたのではない。資源として回収される順番が、少し後ろに下がっただけだ。
その夜、直哉は母に電話した。
「今週末、帰る」
『本当に?』
「うん」
『じゃあ、煮魚ね』
「うん」
『あと、味噌汁も作るわ。あなた、ちゃんと野菜食べてる?』
「食べてる」
『嘘ね』
「少しは」
母が笑った。
その笑い声を聞きながら、直哉は窓の外を見た。向かいのマンションには、いくつもの灯りがついていた。それぞれの部屋に、誰かがいる。誰かの帰りを待つ人もいれば、誰にも待たれていないと思い込んでいる人もいる。誰かを待っているのに、そのことを伝えていない人もいる。
翌日、直哉はアパートの掲示板に貼り紙を見つけた。
社会生活実態調査にご協力ください。
すべての住民の方へ、順次調査票を配布しています。
彼は、その前で立ち止まった。
階段を上がってきた隣室の老人が、直哉に気づいて会釈した。名前は知らない。何度も顔を合わせているのに、挨拶しかしたことがない。
「寒くなりましたね」
老人が言った。
「そうですね」
いつもなら、それで終わる会話だった。
だが、直哉は老人の手元を見た。買い物袋が二つ。片方から、ネギの青い部分がはみ出している。老人は少し息を切らしていた。
「持ちます」
直哉は言った。
老人は驚いた顔をした。
「いや、悪いですよ」
「上までですよね」
「二階です」
「僕も二階なので」
直哉は袋を一つ受け取った。
重かった。
老人は照れたように笑い、「助かります」と言った。
助かります。
その言葉は、小さかった。制度の用紙には載らない。相互依存指数には反映されないかもしれない。証明資料にもならない。
それでも、たしかにそこにあった。
部屋に戻ると、直哉は机の上の通知書を見た。
あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか。
その問いは、もう別の意味を持っていた。
何人いるかを数える問いではない。
何人とつながることを、まだ諦めていないかを問うものだった。
直哉は通知書を畳み、引き出しにしまった。
スマホが震えた。
村瀬からだった。
土曜、駅前でいいか。生きてた祝いに飯おごるわ。
直哉は返信した。
生きてるだけで祝いになるなら、安いな。
すぐに返事が来た。
馬鹿。生きてるだけで充分高いわ。
直哉は、画面を見つめた。
その言葉を、制度は数えない。
だが、人間は数えなくていいものによって、ようやく生きていられる。
翌朝、直哉は出勤した。
倉庫の空気は相変わらず冷たく、端末の音は無機質で、班長の声は大きかった。昨日と同じ場所に、昨日と似た荷物が積まれている。誰かが休めば、誰かが入る。直哉がいなくても、仕事は回る。
それでも、彼はバーコードを読み取りながら思った。
世界が回ることと、自分がいなくていいことは、同じではない。
昼休み、隣の席に座った新人の青年が、弁当の蓋を開けられずに苦戦していた。コンビニのパスタ容器のフィルムが、妙に固いらしい。
直哉は黙って、カッターを差し出した。
「ありがとうございます」
青年はほっとしたように笑った。
その瞬間、直哉のスマホが震えた。
社会生活実態調査機構からの通知だった。
再評価用簡易質問。
あなたが今日いなくなったら、困る人は何人ですか。
直哉は、青年を見た。
青年はパスタをすすりながら、派遣初日で緊張していると話し始めた。直哉は相槌を打った。名前を聞いた。青年は田原です、と答えた。
直哉はスマホの画面に戻った。
回答欄には、数字しか入力できない。
彼はしばらく考えたあと、画面を閉じた。
答えなかった。
その問いに、もう数字で答えるつもりはなかった。




