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あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/11/21

 その封筒は、出勤前の眠い頭でもはっきりわかるくらい、安っぽい色だった。

 薄いクリーム色に、黒い太字で一文だけ印刷されている。


 「全国一斉 最後のアンケート」


 ポストから取り出した封筒を見つめながら、岸田直哉は首をかしげた。裏面には差出人の記載がない。切手もなく、「料金受取人払」とだけスタンプが押されている。


 玄関のドアを足で押さえたまま、直哉はその場で封を切った。中には一枚の紙と、返送用の封筒が入っている。


 質問は、たったひとつだった。


 ――あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?


 その下に、横長の枠が一つだけ。数字を記入する欄らしい。注意書きとして、「※匿名です。本音でお書きください」とある。


 「なんだ、これ」


 思わず声に出した。占いの勧誘か、宗教団体のアンケートかと疑ったが、それらしいロゴや団体名はどこにも見当たらない。


 時計を見ると、七時三十八分。そろそろ家を出ないと、満員電車にさらに五人分くらい押し込まれることになる。直哉は紙をつまんだまま、靴を履いた。


 マンションのエレベーターに乗り込むと、隣の部屋の大学生らしい青年も同じような封筒を握りしめていた。


 「あ、それ、届きました?」


 青年が目ざとく紙を見つけて、話しかけてくる。


 「ええ。なんなんでしょうね、これ」


 「ですよね。俺、最初詐欺かと思って。けど、ネット見たらトレンドになってましたよ。同じの届いたって」


 青年がスマホの画面を見せてくる。そこには「#最後のアンケート」という文字が踊り、さまざまな写真が貼られていた。


 「『あなたがいなくなったら困る人は何人ですか?』って質問、えぐくないですか。俺、思わず笑っちゃいました」


 「はは……そうですね」


 直哉も、口元だけで笑った。エレベーターが一階に着く。


 「じゃ、会社行ってきます」


 「いってらっしゃーい。俺、あとで友達とアンケートネタで飲み会なんすよ。『お前がいなくなったら、せいぜい三人だな』とか言い合うやつ」


 青年は楽しそうに手を振りながら、コンビニの方向へ歩いて行った。


 駅へ向かう道すがら、同じ封筒を持った人たちを何人も見かけた。誰もが顔を見合わせて、小さく笑う。わざとらしく肩をすくめる者もいる。


 「こういうの、好きだよねぇ、この国」


 誰かがつぶやいて、周囲がくすくす笑う。


 通勤電車はいつも通りぎゅうぎゅうで、誰かが「あのアンケートさ、俺は百人って書くわ」と冗談めかして言うと、別の誰かが「お前の葬式、ガラガラだろ」と返し、車内の空気がほんの少しだけゆるんだ。


 会社に着くと、受付の前にも同じ紙を持った社員が数人たむろしていた。


 「見ました? これ」


 「うちの部署、全員ゼロって書いたらどうなるか試してみようかって話になってる」


 「やめろよ、不吉な」


 オフィスフロアに上がると、総務からの一斉メールが届いていた。


 ――本日配布されました「最後のアンケート」について、会社としては一切関与しておりません。記入・返送するかどうかは個人の判断にお任せします。


 「ちゃんと来てるんだな、こういうの」


 隣の席の佐伯がモニターをのぞき込みながら笑った。二つ年上の先輩で、昼休みによくラーメンの話をする程度の仲だ。


 「佐伯さんは、何人って書きます?」


 半分冗談のつもりで尋ねると、佐伯は腕を組んで少し考えるふりをしてから、指を一本立てた。


 「そうだなぁ。とりあえず嫁」


 「お子さんは?」


 「あいつらは、俺いなくても案外平気だよ。保険金も入るしな」


 「現実的ですね」


 「お前は?」


 「まだ、書いてないです」


 「じゃあ、飲み会のネタにとっとけよ」


 佐伯はそう言って、書類の山に戻っていった。


     ◇


 アンケートが届いてから三日もすると、テレビのワイドショーが騒ぎ始めた。


 「視聴者のみなさまのところにも届いたでしょうか。こちら、『最後のアンケート』と題された不思議な調査票です」


 「これ、誰がやってるんでしょうねぇ。政府? 企業? もしかして宇宙人?」


 スタジオの笑い声に合わせて、画面には街頭インタビューの映像が映る。


 「私は十人って書きました。家族と、職場と、あと推しの人たち。私がいなくなったら困りますよね、たぶん」


 「ゼロって書きました。いなければいないで、みんな案外やっていけるもんですよ」


 「百億人って書いた。人類全員、俺がいなくなったら困るに決まってる」


 嘘とも本音ともつかない回答が流れ、コメンテーターたちは口々に「自己肯定感」やら「孤独社会」といったキーワードを並べた。


 SNSでは、すでにハッシュタグが乱立していた。


 「#困る人チャレンジ」

 「#私がいなくなったら困る人」

 「#ゼロでも生きていける」


 「困ってくれる人募集」と書いたアイコンが並び、相互フォローを増やすためのキャンペーンも行われている。


 「フォローといいねで、あなたを『いなくなったら困る人』にカウントします!」


 そんな文句がタイムラインを流れていくのを、直哉は昼休みに無表情で眺めていた。スマホの画面をスクロールしても、誰からの通知も来ない。フォロワー数は、大学時代の知り合いと、趣味のアカウントがちらほらといるだけで、合計三十七人。そのうち実際に会ったことがあるのは、五人もいない。


 「お前、アンケートのこと、SNSに書かないのか?」


 向かいの席で弁当を食べていた佐伯が聞いてきた。


 「書いても、誰も反応しないですよ」


 「謙虚だなぁ。俺なんて、『最低でも五人は困るはずです』ってアピールしまくってるぞ。嫁と子ども、親、あと融資してくれてる銀行」


 そう言って笑う佐伯の声を、直哉はどこか遠くから聞いているような気分だった。


     ◇


 一週間後、状況は少し変わった。


 夕方のニュース番組が、妙に真面目な顔つきでアンケートの話題を取り上げ始めたのだ。


 「関係者の証言によりますと、このアンケートは、将来的な行政サービスの設計や、コミュニティ支援策の参考資料として活用される可能性があるとのことです」


 「具体的には、高齢者の見守り体制や、単身世帯への支援を効率的に行うために……」


 アナウンサーはにこやかに説明し、背後には「【独自】政府関係者か?」というテロップが躍る。


 翌日、会社の朝礼で課長が立ち上がった。


 「えー、例のアンケートの件だがな。どうやら、完全な悪ふざけというわけでもなさそうだ」


 「うちも関係してるんですか?」


 誰かが聞くと、課長は咳払いをした。


 「詳細は知らん。ただ、人事の方から、『社員の社会的なつながり』についての調査を将来的に行うかもしれない、という話は来ている。まあ、今すぐどうこうということではないが……」


 「つまり、あまりにも孤立している社員はリスクだ、ってことですか」


 佐伯が半分冗談めかして言うと、課長は曖昧に笑った。


 「仕事はチームでやるものだからな。誰からも必要とされていない人間は、会社としても扱いに困る、という考え方はあるだろう」


 その言葉は、空調の風よりも冷たく感じられた。


 デスクに戻ってからも、直哉の頭の中には「誰からも必要とされていない」というフレーズが残り続けた。


 自分の席を見渡す。書類の束、パソコン、引き出しにしまってある飴玉。明日、自分が急にいなくなったとしても、誰かが代わりにこの椅子に座るだけだ。少しの引き継ぎの手間を除けば、会社は何事もなかったかのように回り続けるだろう。


 家に帰っても、同じような感覚がまとわりついてきた。


 ワンルームの部屋。冷蔵庫にはコンビニの弁当と、安いビールが何本か。家具は最低限で、壁にかかっているカレンダーは半年前のままめくられていない。


 テレビをつけると、またアンケートの特集をやっていた。


 「最近、『困られたい症候群』という言葉も生まれているそうです。自分がいなくなったときに誰かが困ってくれることに、存在価値を見出す若者たちが増えているとか」


 画面には、ボランティア団体や、相互扶助サークルの様子が映されていた。


 「私たち、みんなで『お互いがいなくなったら困る』って言い合える関係を目指してるんです」


 マイクを向けられた女性が、まるで新しいアクセサリーを自慢するような笑顔で答える。


 直哉はテレビを消した。


 静まり返った部屋の中で、テーブルの上に置きっぱなしにしていたアンケート用紙が、外から入る風で少しだけめくれた。


 ――あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?


 数字を書く枠は、まだ空白のままだった。


     ◇


 アンケートの返送期限まで、あと三日と書かれたメールが届いたのは、その週の金曜日だった。


 「まだ記入していない方は、お早めにご投函ください」


 どこか事務的な文面に、差出人の名前はやはりない。


 その日、直哉は仕事を早めに切り上げて、久しぶりに実家へ電話をかけた。離れて暮らす母親の声を聞きたい、という気持ちがふと湧いたのだ。


 コール音が何回も鳴り、ようやく出た母は、少し息を切らしているようだった。


 「ああ、直哉? どうしたの、急に」


 「元気かなと思って」


 「元気よ。デイサービスの人たちがね、さっきまでトランプしててね」


 母は楽しそうに最近の出来事を語り始めた。近所の人の話、テレビドラマの話、デイサービスで出たお菓子の話。


 しばらく聞いてから、直哉は意を決して聞いた。


 「……あのさ。変なこと聞くけど、今、アンケートみたいなの、家に届いてない? 『あなたがいなくなったら困る人は何人ですか』ってやつ」


 電話の向こうで、母は「んー?」とあいまいな声を出した。


 「なんか、そんなのも来てたような気もするけどねぇ。いっぱい紙が来るから、どれがどれだかわかんないわ」


 「もし届いてたら、何人って書く?」


 自分でも、意地の悪い質問だと思った。けれど、口から出た言葉はもう戻せない。


 母は少し沈黙した後、やわらかい声で言った。


 「そうねぇ……お父さんはもういないし、あんたも家を出ちゃったし。困るってほどの人はいないかもしれないわねぇ。でも、デイサービスの人たちが、ちょっとだけ寂しがるかな」


 冗談めかしたその言葉が、胸の奥のどこかに刺さった。


 「……そうか」


 「でも、あんたがいなくなったら、私は困るわよ。お盆とお正月に、帰ってきてくれるでしょ」


 「仕事、次第だけど」


 「そう言うところがお父さんに似てるのよねえ。まあ、私もいつか忘れちゃうかもしれないけど」


 母は笑った。自分の記憶が最近あやしくなってきていることを、冗談めかして言う癖がついている。


 電話を切った後、直哉は静かにアンケート用紙をテーブルの真ん中に置いた。


 しばらく、空白の枠を見つめる。


 「一」と書こうとして、ペンを止めた。


 もし自分が突然いなくなったとして、母はどれくらいのあいだ自分のことを覚えていてくれるだろう。施設のスタッフが「息子さんがいらしたんですよ」と写真を見せてくれなければ、やがて「誰だったかしら」と首をかしげる日が来るのではないか。


 職場はどうだろうか。数日は騒ぐかもしれない。「岸田が急に来なくなった」と。けれど、すぐに代わりの人間が配属されて、直哉の名前は、Excelのセルから削除される。


 友人は。大学時代のサークル仲間たちは。グループラインはすでに通知が止まり、誰かの結婚報告や出産報告が流れてきても、自分は「おめでとう」とスタンプを押すだけの存在になっている。


 ――いなくなったとき、本当に「困る」人は、いるだろうか。


 寂しいとか、残念だとか、そういう感情ではない。生活に、現実に、具体的な支障が出る人間は。


 ペン先が、紙をかすめた。


 そして、数字の枠の中に、ゆっくりと「0」と書いた。


 書き終えた瞬間、不思議なほどの静けさが胸に広がった。何かを手放したような感覚だった。


 「匿名だし」


 小さくつぶやいて、返送用の封筒に紙を入れた。ポストまで行って投函するとき、足取りは意外と軽かった。


     ◇


 一ヶ月後、「最後のアンケート」の結果発表の日がやってきた。


 朝からテレビはその話題一色だ。


 「いよいよ本日、結果が公表されます! あなたがいなくなったら困る人は、何人だったのでしょうか?」


 アナウンサーはまるで人気投票の結果発表でもするかのような口調でしゃべる。


 街頭の大型ビジョンには、「平均困る人数」や「男女別」「年代別」のグラフが踊っていた。全国の平均は「3.4人」だという。


 「一位の方は、なんと『いなくなったら困る人』が二万三千人以上! 人気タレントや政治家など、一部の著名人には、やはり多くの人が『困る』と回答したようですね」


 そんな派手な数字の陰で、誰も「ゼロ」の話はしようとしない。


 番組の最後に、アナウンサーがさらりと言った。


 「なお、個人ごとの詳しい結果につきましては、後日、登録された住所宛に郵送されます。あなたの数字は、いったい何人だったのでしょうか?」


     ◇


 封筒が届いたのは、それから三日後のことだった。


 例のクリーム色ではなく、今度はきちんとした白い封筒に、差出人として「全国社会基盤調査センター」と印刷されている。


 帰宅した直哉は、靴を脱ぐ前に封筒を開けてしまった。中には、白い紙が一枚。


 ――岸田直哉 様

  あなたがいなくなったら困る人の人数:0人


 丁寧な明朝体でそう書かれていた。その下には、小さな文字で補足説明がある。


 「この数値は、アンケートの自己回答値ならびに、複数の関連調査の結果に基づき算出されています」


 「関連調査」という言葉が妙に耳に残った。自分以外の誰かにも、似たような質問がなされていたのだろうか。


 紙を見つめていると、不意にスマホが震えた。母からの着信ではなかった。見知らぬ番号だった。


 出てみると、事務的な女性の声がした。


 「岸田直哉様でいらっしゃいますか。こちら、全国社会基盤調査センターの――」


 「はい」


 「アンケートのご協力、ありがとうございました。本日は、結果に基づく今後のご案内のためにお電話しております」


 「今後の……ご案内?」


 「ええ。詳細なご説明のため、担当者が直接ご自宅にお伺いしたいのですが、本日二十一時ごろはいかがでしょうか」


 その時間なら家にいるはずだ。断る理由も思いつかなかった。


 「……わかりました」


 電話を切った後、しばらく紙を見つめ続けた。


 ――あなたがいなくなったら困る人の人数:0人


 改めて文字として突きつけられると、胸の奥が思ったより痛んだ。


 自分で「0」と書いたくせに、と心の中で苦笑した。


     ◇


 時計の針が二十一時を少し回った頃、ドアが控えめにノックされた。


 コンコン、と、二回。


 インターホンに映ったのは、グレーのスーツを着た中年の男だった。首から身分証らしきカードを下げているが、文字は小さすぎて読み取れない。


 「岸田直哉様ですね。夜分遅くに失礼いたします。全国社会基盤調査センターの高梨と申します」


 ドアを開けると、男は丁寧に頭を下げた。


 「アンケートの結果について、少しご説明とご確認をさせていただきたく、本日は伺いました」


 男は鞄からタブレット端末を取り出し、玄関のところで立ったまま電源を入れた。


 「こちらが、先日お送りしました結果通知と同じものになります」


 画面には、紙に印刷されていたのと同じ文面が表示されている。


 「あなたがいなくなったら困る人の人数:0人」


 「……ええ、見ました」


 「まずは、ご協力に感謝申し上げます。おかげさまで、全国的なコミュニティの状況が、かなり明らかになってまいりました」


 男は事務的な笑顔を浮かべた。


 「本日は、ゼロ回答者の方にのみ行っております、最終確認でございます」


 「最終確認?」


 「はい。自己回答および第三者回答を照合した結果、本当に『あなたがいなくなったら困る人が一人もいない』と判断された方に、いくつかの選択肢をご提示しております」


 「第三者回答……?」


 「ええ」


 男は画面を軽くスワイプした。


 「ご自身以外にも、周囲の方々に、別形式のアンケートを実施しておりまして。『あなたの知人の中で、いなくなったら困る人のお名前を三名までお書きください』というものです」


 そこには、見覚えのある名前が並んでいた。母の名前。会社の同僚の名前。大学時代の友人の名前。


 そのどれにも、「岸田直哉」の文字は含まれていなかった。画面の端には、小さく「0/3」といった数字がいくつも表示されていた。


 「このように、あなたを『いなくなったら困る人』として挙げた方は、現在のところ一人も確認されておりません」


 丁寧な言い方だったが、内容は冷酷だった。


 「……母は、何て書いたんですか」


 思わず問うと、男は画面をまたスワイプした。


 「個人情報ですので詳細はお伝えできませんが……お母様は、ご自身のケアをしてくださっている施設の職員の方や、ご友人のお名前を挙げておられました。ご子息のお名前は、確認できませんでした」


 予想していた答えだった。だからこそ、余計に応えた。


 男は少しだけ目を伏せた。


 「お気持ちはお察しいたします。しかしながら、私どもの役目は、感情ではなくデータに基づいて判断することでして」


 「データに基づいて、何をするんです」


 直哉の声は、自分でも驚くほど乾いていた。


 男は淡々と答えた。


 「資源配分の最適化です」


 「……どういう意味ですか」


 「人口減少、少子高齢化、社会保障費の増大。ご存じの通り、この国はさまざまな問題を抱えております。限られた資源を、限られた時間で、どこにどれだけ投じるか。その判断のために、『いなくなったら困る人』という指標が考案されました」


 男はタブレットに表示された図表を見せた。カラフルなグラフと数字が並んでいる。


 「従来は、収入や納税額、学歴などが評価指標とされていましたが、それでは見えない部分が多い。そこで、『あなたがいなくなったら困る人は何人か』という問いを通じて、その人がどれだけ他者の生活を支えているか、あるいは支えうるかを測ろうとしているのです」


 「……それで、『ゼロ』の人間は、どうなるんですか」


 男は一瞬、言葉を選ぶように口をつぐんだ。


 「現在、ゼロ回答者の方々には、いくつかの『再配置』プログラムをご案内しております」


 「再配置」


 「ええ。人手不足の地方の施設や、過疎地の再生プロジェクト、あるいは長期的な社会実験への参加など……。あなた方は、既存のコミュニティから切り離されても、さしあたり『困る人がいない』と判定されておりますので、社会的な負担が比較的少ないのです」


 それはつまり、どこへ送り込んでも、誰も文句を言わない、という意味だった。


 「断ったら?」


 「『任意』という建前にはなっておりますが……」


 男は申し訳なさそうに微笑んだ。


 「ゼロ回答者の方は、その他の行政サービスの優先順位が、自動的に下がるようになっております。医療、年金、災害時の救助など、あらゆる面で」


 「脅し、ですか」


 「合理的な資源配分です。困る人が多い方を、優先する。それだけのことです」


 男の声には、感情の起伏がほとんどなかった。まるで、天気予報を読み上げているかのようだった。


 直哉は、玄関の壁にもたれかかった。


 「それで……僕は、どこへ『再配置』されるんです」


 男はタブレットを操作した。


 「まだ確定ではありませんが、候補地としては、離島のインフラ監視施設、極地環境での居住実験施設、あるいは……」


 そこで言葉を切り、画面をこちらに向ける。


 「『不要確認区域』への編入、という選択肢もあります」


 「不要確認区域」


 「はい。仮に、あなたが今この場で突然消えたとしても――」


 男は言葉を選ぶように、少しだけ目を細めた。


 「――誰も困らないかどうかを、実際に確認するための区域です」


 直哉は笑ってしまった。


 「実験台ってことですか」


 「重要な社会実験です」


 男は真顔でうなずいた。


 「これまで理論上でしか語られてこなかった『不要人口』の概念を、現実に検証するための。ご安心ください。基本的な衣食住は提供されますし、あなた方の生活は詳細にモニタリングされます」


 「僕らは、モニターの数字になるわけですね」


 「ええ。立派な役割です。あなたがいなくなって困る人はいないかもしれませんが、あなたのデータを必要としている人は、大勢います」


 それは慰めのつもりだったのかもしれない。しかし、言われてみれば、確かにそうだった。自分という人間は、生身よりも、数字としての方が価値があるらしい。


 男は鞄から、一枚の書類を取り出した。タイトルには「不要確認プログラム参加同意書」と印刷されている。


 「強制ではありません。ただし、繰り返しになりますが、参加されない場合の各種サービスの優先順位については――」


 「わかりました」


 直哉は、意外なほどあっさりと答えた。


 自分でも驚いたが、抵抗する気力がわかなかった。ここでやっと、「いなくなったら困る」と言ってくれる誰かが現れるわけでもない。


 「サインするペンは、持ってきた方がいいですか」


 「いえ、こちらに」


 男はポケットからボールペンを取り出した。


 書類に書かれた小さな文字をざっと目で追い、最後の署名欄に「岸田直哉」と記入する。


 ペン先が紙から離れた瞬間、男は満足げにうなずいた。


 「ありがとうございます。これで、不要確認プログラムへの参加手続きが完了いたしました」


 「いつ、出発するんですか」


 「すでに手配は進んでおります。具体的な日時は、後日改めてご連絡いたしますが……」


 男はタブレットを確認し、少しだけ声を落とした。


 「おそらく、一週間以内になるでしょう」


 「早いですね」


 「ゼロ回答者の方々は、長く現行のコミュニティに留まっていただく必要がありませんので」


 それは、合理的な説明だった。


 男はタブレットを鞄にしまい、玄関先で再び深く頭を下げた。


 「本日は、ご協力ありがとうございました。最後に、ひとつだけよろしいでしょうか」


 「なんですか」


 「お手数ですが、こちらのアンケートにご記入いただけますか」


 またアンケートか、と直哉は苦笑した。


 男が差し出した紙には、たった一文だけが印刷されていた。


 ――不要確認プログラムへの参加にあたり、「あなたがいなくなったら困る人」は何人になりましたか?


 枠は、やはり一つだけ。


 直哉は少しだけ考えた。


 この一週間のうちに、誰かが自分を「いなくなったら困る人」にカウントしてくれる可能性はあるか。母は、相変わらずデイサービスとテレビの話に夢中だろう。職場は、替えの人材を探して騒がしくなるかもしれないが、それは「困る」と呼べるほどのものではない。


 何より、自分自身が、自分の不在を「困る」と感じていない。


 ペンを受け取り、枠の中に「0」と書いた。


 男は、それを確認すると、静かに微笑んだ。


 「ご協力ありがとうございました」


 玄関のドアが閉まると、部屋の中の音がすべて消えたように感じられた。


     ◇


 その夜、直哉はなかなか眠れなかった。


 ベッドに横たわり、天井を見つめる。自分の人生を振り返ろうとしたが、特別な場面はあまり思い出せない。いつも誰かの後ろにいて、空席を埋めるように生きてきただけだ。


 スマホを手に取り、SNSを開いてみる。


 タイムラインには、相変わらず「困る人」自慢が流れていた。


 「彼氏が『いなくなったら困る人』って書いてくれてた! 世界で一番幸せ!」

 「職場で『君がいなくなったら困る』って言われた。仕事の押し付けじゃなければいいけどw」

 「ゼロだった人、逆にかっこいいと思う。誰にも迷惑かけずに消えられるってことだし」


 最後のつぶやきに、少しだけ指が止まった。


 ふと、画面の上部に自分のアイコンが映り込んだ。何年も前に撮った、ぼやけた風景写真。フォロワー数は、いつの間にか三十六人になっていた。一人減っている。


 「……最後くらい、なんか書こうか」


 独り言のようにつぶやき、投稿画面を開いた。


 何を書けばいいのか、しばらく迷った末に、こう打ち込んだ。


 「最後のアンケート、僕の数字はゼロでした」


 そして、送信ボタンを押す。


 画面には、「いいね 0」と表示されたまま、変化がなかった。


 しばらく眺めてから、スマホをベッドの横に置いた。


 眠りに落ちる直前、ふと気になって、ひとつだけ問いを頭の中に投げた。


 ――あのスーツの男は、自分がいなくなったら困る人を、何人と書いたのだろうか。


     ◇


 翌朝、ドアがまたノックされた。


 今度も、コンコン、と二回。


 時計を見ると、まだ六時前だった。眠い目をこすりながらドアを開けると、昨日の男――高梨が、やはり同じグレーのスーツ姿で立っていた。


 「おはようございます、岸田様。早朝に失礼いたします」


 「ずいぶん早いですね。出発ですか」


 「ええ。予定が繰り上がりまして」


 背後には、黒い車が一台停まっている。窓は濃いスモークで、中の様子は見えない。


 「お荷物は、あらかじめお伺いした情報に基づき、必要最低限のものだけこちらで準備しております。岸田様には、身一つでご同行いただければ結構です」


 つまり、今の部屋にはもう戻ってこない、ということだろう。


 部屋を振り返ると、洗い物の残ったシンクや、読みかけの本が目に入った。どれも、別れを惜しむほどのものではないように思えた。


 「わかりました」


 靴を履き、鍵をポケットに入れかけて、手を止める。


 「鍵、どうします?」


 「不動産会社の方に、こちらから連絡しておきます。後日、処理されるでしょう」


 「そうですか」


 ドアを閉めるとき、最後に部屋の中の空気が、ひんやりと頬を撫でた。


 エレベーターを降り、マンションのエントランスを出ると、朝の空気は意外と気持ちよかった。遠くで、通勤ラッシュに向かう人たちの足音が聞こえる。


 車に乗り込むと、窓の外の景色がじわじわと後ろへ流れていった。


 「ところで」


 車が動き出してしばらくしてから、直哉は口を開いた。


 「昨日、最後に書いたアンケートの結果は、もう反映されてるんですか」


 高梨は運転席の後ろのシートに座り、タブレットを膝に置いていた。


 「ええ。リアルタイムで反映されます。岸田様は、『不要確認プログラム参加にあたり、いなくなったら困る人は0人』とご回答いただきました」


 「変わらないですね」


 「一貫性は重要です」


 高梨は、淡々と答えた。


 直哉は、しばらく窓の外をぼんやりと眺めた。見慣れた駅前の風景が過ぎ去り、高速道路に入る。


 「……高梨さんは」


 ふと思いついて、口に出した。


 「あなたがいなくなったら、困る人は何人ですか」


 高梨の指が、一瞬だけタブレットの上で止まった。


 「私のことは、プログラムの対象外です」


 「アンケート、書いてないんですか」


 「関係者は、回答を免除されております」


 「じゃあ、本当にゼロかどうか、わからないんですね」


 高梨は前を向いたまま、しばらく何も言わなかった。車内には、タイヤが道路を滑る音だけが響く。


 やがて、彼は小さく息を吐いた。


 「実を言うと……」


 「え?」


 「非公式なアンケートがありましてね。職場内で、冗談半分に始まったものです。『お前がいなくなったら困るかどうか』を、同僚同士で答え合う」


 「そんなのもあるんですか」


 「ええ。その結果、私は『一人』でした」


 「一人」


 「妻です」


 高梨は、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 「もっとも、あの人も『再婚すればいい』と言っておりましたが」


 直哉は、何と答えていいのかわからなかった。


 「あなたは、奥さんがいなくなったら困りますか」


 「困るでしょうね」


 高梨は少し考えてから、言った。


 「しかし、仕事上は、私がいなくなっても困る人はいません。代わりはいくらでもいる。だからこそ、こういう役目を与えられているのかもしれません」


 その言葉は、意外と素直に聞こえた。


 「じゃあ」


 直哉は、窓の外に視線を戻しながらつぶやいた。


 「僕と高梨さんの違いは、『一人いるかいないか』だけなんですね」


 「そうかもしれません」


 「その一人も、いつかいなくなるかもしれない」


 「そのときは、そのときです」


 高梨は、まるで雨の予報でも告げるように言った。


 「誰にとっても、『最後のアンケート』はいつか訪れますから」


     ◇


 車はやがて、高速道路を降り、人気の少ない道へ入っていった。周囲には、倉庫のような建物とフェンスばかりが並んでいる。


 やがら、無機質なコンクリートの建物が見えてきた。窓は少なく、入口には「関係者以外立入禁止」と書かれた看板がかかっている。


 ゲートを通るとき、高梨は窓を少しだけ開け、カードを読取機にかざした。


 「ここが……『不要確認区域』ですか」


 直哉が尋ねると、高梨は首を振った。


 「いえ。ここは、入口に過ぎません。不要確認区域は、ここからさらに先です」


 車は建物の地下駐車場に入り、停車した。


 「こちらへ」


 高梨に促され、通路を進む。白い壁と、等間隔に並んだドア。どのドアにも番号が振られているが、窓はない。


 「ここで、簡単なオリエンテーションと、最終アンケートを受けていただきます」


 「またアンケートですか」


 直哉は苦笑した。


 「アンケートは、私たちの仕事ですから」


 高梨も、微かに笑った。


 通された部屋は、何もない会議室のようだった。机と椅子がいくつか。壁には時計が一つだけかかっている。


 机の上には、一枚の紙が置かれていた。


 ――不要確認区域 入域前最終アンケート


 質問は、やはり一つだけだった。


 「不要確認区域に入った後、あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?」


 答えの枠は、今度は二つあった。


 ひとつは、「現実世界において」。もうひとつは、「不要確認区域内において」。


 「区域内……?」


 高梨が説明した。


 「不要確認区域には、あなたのような方々が、複数人入られます。そこで新たに形成されるコミュニティにおいて、あなたがいなくなったら困る人が、将来的に何人になると思うか、自己予測していただきます」


 「予測?」


「ええ。人間は、どのような状況でも、誰かを必要とし、必要とされる関係を作ろうとするのか。それとも、『不要』として集められた人々は、本当に最後まで誰からも必要とされないままなのか。その違いを、観察するための実験です」


 それは、奇妙な話だった。


 「……もし、区域内で『困る人』が増えたら、どうなるんですか」


 「そのときは、そのデータをもとに、また新しい政策が検討されるでしょう」


 「具体的には?」


 高梨は、少しだけ考えてから答えた。


 「たとえば、『困る人』が増える前に、早めに不要確認区域に送った方がいい、という結論が出るかもしれません」


 「つまり、今よりもっと早く『回収』する、と」


 「合理的な判断がなされるはずです」


 合理的。その言葉が、やけに冷たく響いた。


 直哉は、紙を手に取った。


 「現実世界において」の枠に、「0」と書くのはもはや迷いがなかった。


 問題は、「不要確認区域内において」の枠だった。


 まだ見ぬ場所。まだ会っていない人々。そこで、自分が誰かにとって「いなくなったら困る」存在になる可能性が、どれくらいあるのか。


 ――どうせ、同じような人たちが集められているのだろう。


 社会から「不要」と判定された者たち。誰かに頼ることを諦めた者。頼られることを煩わしいと思う者。


 そんな人間たちの集まりで、自分が誰かの「必要」になる姿が、どうしても想像できなかった。


 ペン先が紙の上で止まる。


 やがて、枠の中に、ゆっくりと数字を書き込んだ。


 「0」


 高梨は、それを確認すると、静かにうなずいた。


 「ありがとうございます。すべてのアンケートが揃いましたら、不要確認区域への移送が行われます」


 「他にも、僕みたいな人が、いるんですか」


 「ええ。たくさん」


 高梨は、ドアの向こうの廊下を一瞬見やった。


 「あなたがたは、番号で呼ばれることになります。名前は、区域内ではあまり重要ではありませんので」


 「番号……」


 「ご希望であれば、互いにニックネームをつけ合うことも、制限はされていません」


 直哉は、かすかに笑った。


 「誰かが『いなくなったら困る』って言ってくれるくらい、仲良くなれるといいですね」


 「その場合は、実験として大変興味深いデータになります」


 高梨は、真顔で言った。


     ◇


 入域手続きがすべて終わり、直哉が小さな部屋でひとりで待機しているとき、ふとスマホのことを思い出した。


 あの車に乗る前に、没収されてしまった。最後に投稿した「最後のアンケート、僕の数字はゼロでした」という一文に、誰かが反応しただろうか。


 「いいね 1」とか、「それは寂しいですね」とか、そういう薄い言葉でもいい。画面の向こうで、自分の存在に、一瞬でも指先を止めた人間が、もしかしたら一人くらいはいたのかもしれない。


 けれど、今となっては確かめようがない。


 廊下の向こうから、足音が近づいてきた。高梨のものではない、別の誰かの靴音だ。


 ノックの音がした。


 コンコン、と、二回。


 「岸田直哉さん。移送の準備が整いました」


 知らない声が言った。


 直哉は立ち上がり、ドアノブに手をかけた。


 ――あなたがいなくなったら困る人は、何人ですか?


 何度も目にしたその問いが、最後にもう一度だけ、頭の中に浮かぶ。


 答えは、変わらない。


 ドアを開けると、まぶしいほど白い廊下が続いていた。


 その先に、どんな世界が待っていようと。


 そこにいる誰かが、自分の不在を「困る」と感じる日が来るのかどうかも。


 今は、まだ誰にもわからなかった。

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