北欧の雷神 世界ヘビー級王者 インゲマール・ヨハンソン(1932~2009)
現役当時のヨハンソンの国際的な知名度は現在のスウェーデンのスポーツ界のレジェンドであるデュプランティスやサラ・ショーストレムをも凌いでいた。黒人が席巻しつつあったヘビー級にあって傑出した白人強打者の登場は、ホワイトホープを待ち望んでいた白人たちの絶大な支持を受けたからだ。もちろんヨハンソンが世界を制したニュースは、観客動員数や試合報酬が記録的だったことも含めて日本でも話題になった。
一九五二年のヘルシンキオリンピックにおけるボクシング競技は、北欧勢の活躍が目覚しく、ヘビー級決勝を残して、バンタム級のベンッティ・ハマライネンの金をはじめ、主催国フィンランドが五つ、スウェーデンが一つのメダルを獲得していた。
注目の決勝のリングに上がったのは、ともに金メダルの本命、アメリカのエド・サンダースとスウェーデンの新鋭、十九歳のインゲマール・ヨハンソンだった。
上背で十センチ勝るサンダースは射程距離も長いため、ヨハンソン陣営は三ラウンドまでは無理に打ち合わずに様子を伺いながら終盤に勝負をかける作戦を取った。一ラウンドからパンチを出さずサンダースの周囲を旋回するヨハンソンに対し、観客席からはブーイングが起こったが、これも作戦のうちとヨハンソンは全く意に介さない。
続く第二ラウンド、レフェリーがファイトを促したにもかかわらずヨハンソンは相変わらず打ち合おうとはしない。すると突然レフェリーが試合をストップし、サンダースの手を挙げた。本気で試合をやる気がないと判断されたヨハンソンの反則負けだった。
慌てたヨハンソンがこれも作戦のうちと抗議したが後の祭りである。オリンピックでは一度下された判定は覆らないのだ。前代未聞の試合放棄という形での反則負けにより、ヨハンソンは銀メダルまで没収されてしまい、これまでの名声は地に落ちた。ふがいない敗北に怒り心頭のスウェーデン国民から「祖国の恥」とまでののしられた少年ボクサーはしばらくの間人前に姿を現わさず、一時はボクシングから足を洗うつもりだったが、何とか思い留まりプロで汚名返上を目指すことになった。
さすがにプロデビュー当初はファンから野次られたりもしたが、所詮は実績が全ての世界である。ヨハンソンが「祖国の恥」から一転「祖国の誇り」と称えられるまでにはさほど時間はかからなかった。
一九五六年九月三十日、はるばるイタリアのボローニャに乗り込んだヨハンソンは、フランコ・カヴィッチ(イタリア)を十三ラウンドで沈め、まずはヨーロッパ選手権を奪取する。
さらに翌一九五七年五月十九日の初防衛戦で、後に世界タイトルにも挑戦したイギリスの強豪ヘンリー・クーパーを五ラウンドKOで返り討ちにして世界ランキング入りを決定づけると、二度目の防衛戦では、当時のヨーロッパ最強のヘビーウェイトと見なされていたタフなウェールズ人、ジョー・アースキン(イギリス)を十三ラウンドでストップ。
ヨハンソンのフィニッシュブロー、右クロスは『トール(北欧神話の雷神)のハンマー』と恐れられ、これまではそれほどボクシングが盛んではなかったスウェーデンでもヨハンソン人気が沸騰した。
一九五八年九月八日、出身地のヨーテボリに世界ランキング一位のエディ・メッチェン(アメリカ)を招いて行われた世界タイトル挑戦者決定戦は、スウェーデンボクシング史上最大の観客動員数を記録するほどの大盛況だった。
熱戦が予想された全勝同士の対決も、地元の声援に後押しされた「雷神のハンマー」を浴びるたびにまるでカミナリに打たれたようにダウンを繰り返すメッチェンが一ラウンドも持たずにKO負けするというまことに呆気ない幕切れに終わった。
この勝利で二十一戦全勝(十三KO)となった北欧の雷神は翌年の世界タイトル挑戦が正式に決定した。失われた過去を取り戻すために、これまで六年以上の歳月を費やしたヨハンソンだったが、そこにはプロで改めて雌雄を決するつもりでいたかつてのライバル、エド・サンダースの姿はなかった。
サンダースはヨハンソンから遅れること一年余でプロに転向したが、それからわずか九ヶ月後に試合でKOされた後遺症で急逝していたのだ。
現役世界ヘビー級チャンピオンのフロイド・パターソン(アメリカ)は、ヨハンソンが出場したヘルシンキオリンピックミドル級ゴールドメダリストからプロ入りし、二十一歳の若さ(当時、史上最年少)で王座についた黒人ボクサーである。ミドル級から増量しているだけあってヘビー級にしては小柄ながら、独特のピーカブースタイルからノーモーションで繰り出す左右のフックとアウトレンジから跳躍しながらフックを叩きつける「ガゼルパンチ」を武器に過去四度の防衛戦はいずれもKOで片付けており、ヨーロッパチャンピオンのヨハンソンを迎えた五度目の防衛戦も賭け率は五対一で圧倒的に有利と見られていた。
ところがこれほど一方的な試合予想にもかかわらず、世界中がこの一戦に注目し大きな話題となった理由の一つは、一九三八年のジョー・ルイス対マックス・シュメリング戦以来久々の黒人対白人のビッグカードだったからである。
まだ人種差別が残っていたこの時代、白人社会がヨハンソンの勝利に寄せる期待は今日の我々の想像を遥かに超えるもので、主催地のアメリカでさえ、相当数の白人は同国人のパターソンではなくヨハンソンを応援していた。
また、この試合はヨーロッパ中に衛星生中継されることになっていたが、スウェーデン人の関心度の高さたるや、かつて隣国で行われたヘルシンキオリンピックをも凌ぐものがあり、現地に派遣された取材記者の数はオリンピックの二倍を超えていた。
なにしろ試合当日の有料入場者数二万一千名余のうち、四千名はスウェーデンからのツアー観戦客が占めていたというから凄い。これはアメリカ主催の世界タイトルマッチに外国人が観戦に訪れた史上最高記録であった。
世間の関心が高いぶん、主催地の決定は入札で行われ、ニューヨーク市が六十万ドルで落札したが、その他にも全米各地で一七〇箇所準備されたクローズドサーキットの収容人数が五十五万人を超えるなど興行規模も一九二七年のジーン・タニー対ジャック・デンプシー戦を上回る過去最大のものとなった。
一九五九年六月二十九日、ヤンキースタジアムのリングに立ったヨハンソンは、敵地とは思えないほどの熱烈な応援に支えられ、序盤から試合のイニシアチブを握った。
ヨハンソンのジャブは鋭く正確で、ボビングしながら間合いを詰めようとするパターソンを全く寄せ付けない。パターソンがどう動こうが、百発百中のモグラ叩きのようにジャブが追いかけてくるため、出鼻を押さえられてしまい左を打つタイミングがつかめないのだ。ようやく二ラウンド終盤に飛び込
みざまの左がクリーンヒットしたが、踏み込みが浅くほとんどダメージが与えられなかった。
三ラウンド開始から間もなく、ヨハンソンの左フックのフェイントに釣られて一瞬パターソンのピーカブーに隙間が出来たところに、狙いすました雷神のハンマーが炸裂。この一撃で背中からキャンバスに崩れ落ちたパターソンはもがきながらも何とか立ち上がったが、視点が定まらないうちに左を浴びて二度目のダウン。
すでにほとんど意識がなかったのだろう、立ち上がるたびにヨハンソンのパンチでダウンを繰り返すパターソンは六度目のダウンを喫したところでレフェリーにストップされ、王座から陥落した。
番狂わせともいえる戦慄のKO勝利で一躍時の人となったヨハンソンは、CMやテレビ、映画の出演依頼が相次ぐ一方、フランク・シナトラをはじめとするハリウッドスターたちと毎晩のようにナイトクラブで豪遊する日々を送り、一時はエリザベス・テイラーとの仲が噂されたほどのモテ男ぶりを発揮した。
勝ち方が勝ち方だっただけに、ヨハンソンの王座は当分安泰と見られていたが、あまりにも多忙過ぎてトレーニングもろくに出来なかったため、一年後の六月二十日にポログラウンドで行われたリターンマッチでは、パターソンのスピードにかき回されたあげくに五ラウンドKO負け。
フィニッシュブローとなった左フックは、キャンバスに倒れたヨハンソンが鼻と口から血を流しながら失神するほど強烈な一撃だった。
この第二戦はチケットを入手出来なかったファン五千名がゲートを破って会場になだれ込むほどの人気を呼び、両者のファイトマネーもパターソンが七十六万三千ドル、ヨハンソンが六十三万六千ドルに達した。これは一九二七年のジーン・タニー対ジャック・デンプシー第二戦で二人が受け取ったファイトマネーの総額を超える新記録だった。
こうなるとファンがラバーマッチを期待するのも無理はない。ファイトマネーがさらに上積みされたうえで一九六一年三月十三日、マイアミビーチのコンベンションホールに場所を移して二人の最後の決戦が行われた。
前回惨めな敗北を味わったヨハンソンは、タイトル奪還に向けて相当絞り込んできたとあって身体のキレも第二戦とは段違いで、第一ラウンドから立て続けに二度のダウンを奪うなどほぼ一方的な展開だった。
慎重なヨハンソンが一ラウンドからKO狙いで積極的に仕掛けてくるのは珍しいケースだったが、これは自らのパンチ力を最大限に活かせるよう、軽量級並みの六オンスのグローブの着用を主張し、それが認められたからである。
しかしこれには交換条件があった。ダウンの際には立ち上がったらすぐにファイトを再開するのではなく、いかなる場合にも8カウントまで数えるというものである。
結果から言えば、今日では常識となった8カウントルールを飲んだことがヨハンソンには裏目に出てしまった。右クロスで奪った最初のダウンも右クロスからの返しの左で奪った二度目のダウンも比較的ダメージが浅く、パターソンはカウント3で立ち上がったが、ナックアウト勝ちした第一戦のようにそこからすぐさま追撃のパンチを振るうことが出来ず、カウント8まで休ませたことが二ラウンド以降のパターソンの反撃につながったからである。
たかだか何秒かの差かも知れないが、十四秒間ダウンしていたタニーが次のラウンドでデンプシーからダウンを奪い返して王座を防衛した「ロングカウント事件」の例があるように、衝撃で一時的に回路が断線した脳が正常な機能に戻るまでの時間は想像以上に短いのだ(運動神経が麻痺するような衝撃となると話は別だが)。
二ラウンドから四ラウンドまでは両者ともに目尻から出血する激しい打撃戦を展開。五ラウンドには疲労困憊のヨハンソンが肩で息をし始めたが、パターソンもスピードダウンしてしまい手が出なくなった。
六ラウンド、スタミナ配分を無視したようなパンチの応酬の末、パターソンのダブルのショートフックを浴びたヨハンソンがバランスを崩して鼻からキャンバスに突っ込んだ。一旦立ち上がりかけたものの再びよろけてしまいグローブからキャンバスから離れる前にカウントアウトされてしまった。
試合終了後、ヨハンソン陣営からカウントが早すぎるという抗議があり、試合フィルムを検証してみたところ実測でも十一秒が経過していた。
健闘むなしく逆転KO負けでタイトル奪還に失敗したヨハンソンは、翌年再びヨーロッパヘビー級タイトルを獲得するなど相変わらずヨーロッパでは無敵だったが、三十歳で惜しまれつつ引退した。
まだ余力を残しての引退だっただけに、後年ソニー・リストンやカシアス・クレイとの対戦を期待する声が高まったこともあったが、引退後はボクシング評論家やプロモーターとして活躍していた彼は再びリングに上がろうとはしなかった。
実はヨハンソンはパターソンとのラバーマッチに備えてアメリカでトレーニング中に、当時駆け出しのクレイをスパーリングパートナーに雇ったことがある。その時でさえクレイのスピードについてゆけなかったから、戦っても勝ち目がないと思ったのかもしれない。
三度の対決で十二度ものダウンの応酬を繰り広げたヨハンソンとパターソンは、その後毎年のように互いが大西洋を行き来するほど仲良くなり、一九八〇年代には二人揃ってマラソン大会に出場するなど元気な姿を見せていたが、不幸なことに二人とも晩年はアルツハイマーに苦しみ、最後は自分が世界チャンピオンであったことさえも忘れて世を去った。
10年ほど前、一年間だけ職場でスウェーデン人と同僚になり、一緒にラーメンを食べに行ったり仲良くしていたが、すでに亡くなっていたヨハンソンのことは全く知らず、ちょっとがっかりしたことを覚えている。本編とは関係ないが、サラ・ショーストレムが光州での世界選手権のため福岡空港から出発する際に、仕事の一環で私がスウェーデンチーム記念撮影を仰せつかったことがある。サラは私の後輩とのツーショット撮影にも快く応じてくれ、スター気取りのない爽やかな女性だった。




