007-紅の残影
私は裸のまま、背中をシーツに預けて横たわっていた。視線を傾けると、半ばまで引かれた天鵞絨のカーテンから、夕暮れの光が部屋へと差し込んでいた。
その光は、まるで火で炙られた果実のような色をしていた。ライチの赤、杏の黄――油絵具を垂らしたような濃厚な彩りが、静かに室内を染めてゆく。
汗ばんだ私の肌は、その赤と黄を受けて、まるで磨かれた陶器のように光っていた。触れられれば溶けてしまいそうなほど、熱を帯びていた。
坂本理光は私の傍に腰掛け、静かに頬へ唇を寄せた。
「……何を考えている?」
乾ききった涙の跡が頬を伝ったまま、私はかすれ声で呟いた。
「……あなたは最低の男よ」
彼はふっと笑った。認めるように、しかし開き直るように。
「そうかもな」
それでも、という言葉がその後ろに透けて見えた。
彼は続けて囁いた。
「でも……お前は、それでも俺を求めているんじゃないのか?」
なぜ坂本が私にこんな仕打ちをするのか――私には分からなかった。
舞踏会の夜、彼は私の目の前で別の女と親しげに微笑んでみせた。あれはきっと、彼自身の意思表示だった。
「お前は特別じゃない」と。
分かっていた。私は、彼にとって必要な存在ではない。
だったら、私のほうから離れるべきだった。
なのに――なぜ彼は婚約を解こうとしないのか。
どうして、あのように私を……。
焼けつくような痛みを今も体の奥に残したまま、彼はまるで仔犬のように私の頬を舐め、睫毛に唇を触れさせ、耳元で吐息を落としながら、そっとタオルで私の肌を拭っていた。
その仕草だけが妙に優しくて、私はまたしても迷ってしまう。
あれほど荒々しかったくせに、どうして今は、こんなにも穏やかなんだろう。
この人は、私の心を試しているの?
涙が滲む視界の中、私は彼に問いかけた。
「……どうしたいの? あなたは、私を愛していないのに。なぜ、私のすべてを奪ったの?」
「あなたが学問に打ち込んでいたあの頃、私は家であなたのお母様に仕えていたわ。婚姻を望まないなら、私も無理強いはしなかった。……私は、何もあなたに借りはないはずよ」
坂本は、静かに私の腫れた目を見つめたまま、胸元へ口づけて囁いた。
「……バカだな、お前は」
私は唇を噛みしめ、小さく震えた声を洩らした。
その唇に彼の指が触れ、やわらかく押し開かれる。
「また噛んだら、もっと意地悪するぞ」
その言葉に、私は声を失い、ただ黙って彼の動作を受け入れるしかなかった。
彼は私の前歯に触れ、舌の奥へそっと探るように動かした。
……私は弱い。
自分がこんなに弱く、涙でしか何も表現できないことが、悔しくてたまらなかった。
心の中で「なぜ」と叫び続けても、誰にも届かない。
私は誰のことも傷つけていないはずなのに――。
けれど、今の世の中では、「傷つけていない」というだけでは、何も守れない。
彼の指先が口から引かれ、その湿った感触を指の腹で確かめるように撫でたあと、ぽつりと呟く。
「……泣くな。お前が泣くと、こっちの頭までぐちゃぐちゃになる」
坂本は立ち上がり、眼鏡をかけ、何も言わずに書斎へと向かっていった。
私は布団に丸まり、ひとしきり泣いたあと、そのまま夢のように眠ってしまった。
夜。
いつの間にか、誰かに抱き起こされ、淡い藍色の和服へと着替えさせられていた。
目を覚ました私は、どこか現実感のない意識のまま、ゆっくりと階段を下りてゆく。
階下では、すでに身支度を整えた坂本が新聞を手にしていた。
靴音に顔を上げ、私を見て、わずかに表情を緩める。
私は階段の欄干に手をかけ、ゆっくりと彼の元へ歩み寄った。
立ち襟の黒い長着、頭には端正な帽子――彼はまるで、商人というより学者のようだった。
私の目は腫れて、桃のように赤く膨らんでいた。
氷で冷やしても完全には引かず、赤く染まった目元のまま、私は彼の前に立つ。
彼は私の耳元に垂れた小さな真珠の飾りに触れ、低く囁いた。
「和服が似合うな。今後、俺に会うときはそれで頼む」
……彼はもう、婚約を破棄するつもりはないのかもしれない。
“これからも”という言葉が、その証のように思えた。
でも――私は、もう彼の心が読めなかった。
読もうとする気力さえ、残っていなかった。
ただ、心の底で確かにひとつの感情だけが渦巻いていた。
――私はこの人が、どうしようもなく憎い。
それでも、それだけでは終われないのが、一番の苦しみだった。




