表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/18

002-指先に残る熱

この一か月、私は一度も坂本家へ顔を見せていない。

屋敷の執事までもが「お嬢様、ご病気などでは?」と噂を立て、数日姿を見せぬとなれば、家のご隠居さまも案じられたという。

その話を耳にしたとき、私は悟った。――理光は、まだ母上に退婚を言い出していないのだろう。

だから私は「病気」という嘘で彼を援け、時間を稼いでいた。

しかしその間、理光は退婚の話どころか、花街出身の人気女優・仁野愛子との噂を新聞に載せられてしまった。

商才と美貌、二つの名声が重なり合い、新聞も“才子佳人”と讃える始末である。

かつては両親も私たちを“金童玉女”と自慢していた。

今思えば、私だけが真に心を寄せて愚かだったのだろう。

――愛子さんが私と同じように傷つかないといいけれど。

この騒動は他人にどう思われようと構わない。

ただ――問題は私、渡辺美惠だった。

渡辺の父は激怒に震え、「坂本理光、お前は人としてどうかしている」と声を荒げ、椅子に座り込んで溜息ばかりついている。

私はこれ以上、両親に苦心をかけたくなかった。

意を決して理光に連絡を取り、誠意を尽くして対話を申し込んだ。

電話口は彼の秘書で、「今、四条通の『東華』という料亭にいる。用があるならそちらへどうぞ」と告げられた。

私はいつも彼の前では怯えてしまう。

幸いにして川合という従兄が手伝ってくれるというので、同行を頼んだ。

その日、料亭の前で私は車を待っていた。

煙草をふかしていた運転手は、私を見ると慌てて火を消し、深々と頭を下げた。

対面の川合がそっと私の隣へ寄り添っている。

彼は車のナンバーを見て私が誰を待っているか察したようだった。

言葉は交わさなくとも、彼の視線に――気遣いを感じた。

車がやってきた。運転手が小走りに近づき息を整えながら、「渡辺さま、旦那様がお車でお待ちです」と告げる。

私は窓越しに理光の横顔を見た。

ぼんやりとしか映らないが、その冷たい端正な輪郭は、はっきりとそこにあった。

私は川合に軽く頭を下げて彼の元を離れ、そっと車に近づいた。

そしてそっと窓を叩いた――だが、理光は振り向きもしない。

私は誤解されたのかと焦り、説明しようとした瞬間、運転手が乗れと促すように合図してきた。

車中はとても広いのに、私は息苦しさを覚えた。

ここにいるのは、理光と私だけ。彼の気配が、隙間を埋め尽くして動けなかった。

「用件は?」彼は淡々と口を開いた。酒の匂いが鼻をつく。

私は唇を噛み、鼓動が高鳴るのを感じながら言った。

「――父が、退婚は新聞に告知させようとしたそうです。ただ、理光さまのお評判を慮って踏み止まりました。ですから、お願いです。関係者の方々に、きちんと誤解を解いていただけないでしょうか。」

父の名を借りて、ほんの少しでも主導権を握りたいと思ったのに。

私はどこか棒読みになってしまい、頬が赤くなり、瞼の奥が震えた。

理光は肘をかけ、あごを支えながら窓越しに外を見つめている。

その目には、どこか暗い影が横たわっていた。

「──誤解って、何の?」彼はそっと尋ねた。

私は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。

彼は、私がどんな辱めを受け、どんな苦労をしているかなど、これっぽっちも気にしていないのだ。

「私と理光先生の婚約は、もうございません――」

私は少し声を震わせながら告げた。

「誰がそう言った?」彼の声は冷たくて、窓越しの私を氷のように包み込んだ。

私は一瞬、言葉に詰まった。唇をかみしめただけで、先の言葉は続けられなかった。

「──唇を噛むのはよせ」彼は苛立ち気味に言った。

彼の命令調に、胸がぎゅっと縮んだ。

どうして私はこんなにも、彼の理不尽な言葉一つに怯えて震えるのだろう。

恨めしげに、しかしどこか哀しげに言った。

「あなたはもう、私の夫でも何でもないでしょう? どうして、私に口を挟む権利があるのですか?」

その刹那、彼の瞳が鋭く光った。

その光は刃のように私を貫いた。

私は息を飲んで縮み上がった。

すると、次の瞬間――

彼の指がさりげなく私の髪をかき分け、首筋に触れて、

さっ、という勢いで私を自分に引き寄せたのだ――


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ