002-指先に残る熱
この一か月、私は一度も坂本家へ顔を見せていない。
屋敷の執事までもが「お嬢様、ご病気などでは?」と噂を立て、数日姿を見せぬとなれば、家のご隠居さまも案じられたという。
その話を耳にしたとき、私は悟った。――理光は、まだ母上に退婚を言い出していないのだろう。
だから私は「病気」という嘘で彼を援け、時間を稼いでいた。
しかしその間、理光は退婚の話どころか、花街出身の人気女優・仁野愛子との噂を新聞に載せられてしまった。
商才と美貌、二つの名声が重なり合い、新聞も“才子佳人”と讃える始末である。
かつては両親も私たちを“金童玉女”と自慢していた。
今思えば、私だけが真に心を寄せて愚かだったのだろう。
――愛子さんが私と同じように傷つかないといいけれど。
この騒動は他人にどう思われようと構わない。
ただ――問題は私、渡辺美惠だった。
渡辺の父は激怒に震え、「坂本理光、お前は人としてどうかしている」と声を荒げ、椅子に座り込んで溜息ばかりついている。
私はこれ以上、両親に苦心をかけたくなかった。
意を決して理光に連絡を取り、誠意を尽くして対話を申し込んだ。
電話口は彼の秘書で、「今、四条通の『東華』という料亭にいる。用があるならそちらへどうぞ」と告げられた。
私はいつも彼の前では怯えてしまう。
幸いにして川合という従兄が手伝ってくれるというので、同行を頼んだ。
その日、料亭の前で私は車を待っていた。
煙草をふかしていた運転手は、私を見ると慌てて火を消し、深々と頭を下げた。
対面の川合がそっと私の隣へ寄り添っている。
彼は車のナンバーを見て私が誰を待っているか察したようだった。
言葉は交わさなくとも、彼の視線に――気遣いを感じた。
車がやってきた。運転手が小走りに近づき息を整えながら、「渡辺さま、旦那様がお車でお待ちです」と告げる。
私は窓越しに理光の横顔を見た。
ぼんやりとしか映らないが、その冷たい端正な輪郭は、はっきりとそこにあった。
私は川合に軽く頭を下げて彼の元を離れ、そっと車に近づいた。
そしてそっと窓を叩いた――だが、理光は振り向きもしない。
私は誤解されたのかと焦り、説明しようとした瞬間、運転手が乗れと促すように合図してきた。
車中はとても広いのに、私は息苦しさを覚えた。
ここにいるのは、理光と私だけ。彼の気配が、隙間を埋め尽くして動けなかった。
「用件は?」彼は淡々と口を開いた。酒の匂いが鼻をつく。
私は唇を噛み、鼓動が高鳴るのを感じながら言った。
「――父が、退婚は新聞に告知させようとしたそうです。ただ、理光さまのお評判を慮って踏み止まりました。ですから、お願いです。関係者の方々に、きちんと誤解を解いていただけないでしょうか。」
父の名を借りて、ほんの少しでも主導権を握りたいと思ったのに。
私はどこか棒読みになってしまい、頬が赤くなり、瞼の奥が震えた。
理光は肘をかけ、あごを支えながら窓越しに外を見つめている。
その目には、どこか暗い影が横たわっていた。
「──誤解って、何の?」彼はそっと尋ねた。
私は胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
彼は、私がどんな辱めを受け、どんな苦労をしているかなど、これっぽっちも気にしていないのだ。
「私と理光先生の婚約は、もうございません――」
私は少し声を震わせながら告げた。
「誰がそう言った?」彼の声は冷たくて、窓越しの私を氷のように包み込んだ。
私は一瞬、言葉に詰まった。唇をかみしめただけで、先の言葉は続けられなかった。
「──唇を噛むのはよせ」彼は苛立ち気味に言った。
彼の命令調に、胸がぎゅっと縮んだ。
どうして私はこんなにも、彼の理不尽な言葉一つに怯えて震えるのだろう。
恨めしげに、しかしどこか哀しげに言った。
「あなたはもう、私の夫でも何でもないでしょう? どうして、私に口を挟む権利があるのですか?」
その刹那、彼の瞳が鋭く光った。
その光は刃のように私を貫いた。
私は息を飲んで縮み上がった。
すると、次の瞬間――
彼の指がさりげなく私の髪をかき分け、首筋に触れて、
さっ、という勢いで私を自分に引き寄せたのだ――




