018-雨音に融けるロマンティック
ソファにもたれていた私の耳に、あの跳ねるような旋律がふわりと届いてきた。
いつの間にか、思いはあの遠い日の午後へと遡っていた。
坂本家の応接間。
若かりし理光様が、同じこの曲を、静かに弾いておられた。
「これは、なんという曲なのですか?」
そう尋ねた私に、彼はふっと微笑んで言った。
「ロマンティック、です。」
洋言葉に疎かった私は首を傾げ、すると彼は身を寄せて、そっと耳元で囁いたのだった。
言葉の意味よりも、その距離の近さに、私は顔が熱くなるのを止められなかった。
思えば、彼もまた、頬を染めておられたように思う。
あれから幾年が経ったのだろう。
琴の音のようなピアノの旋律に包まれながら、私はいつしか眠りに落ちていたらしい。
ただ覚えているのは、あの夜の雷鳴が、いつの間にか遠ざかっていたということだけ。
夢と現の狭間。
理光様がそっと私を抱き寄せ、その唇が、額に、瞼に、そして唇に、やわらかく触れた。
熱を帯びたその吐息は、まるで夏の夕立のあとの風のように、あたたかく、どこか切なかった。
白くすらりとした脚を、その掌がやさしく包み込むたび、不安も恐れも、すこしずつ消えていった。
涙が頬を伝っていることに、私は気づかなかった。
ただ、胸の奥に押し込めていたものが、少しずつ、溶けてゆくのを感じていた。
彼の額には、小さな汗の粒。
闇に沈む部屋の中で、彼の瞳だけが、凜として輝いていた。
まるで、この騒がしき世を超えて、何かを見つめているようだった。
やがて、彼の汗が私の胸に落ち、それを彼は何も言わずに、唇でそっと拭った。
その仕草が、あまりにもやさしくて、私はただ、身を任せることしかできなかった。
彼の胸に顔を寄せながら、微かな笑みが頬に浮かぶ。
指先が髪をすくうたびに生まれるくすぐったさが、妙に心地よかった。
窓の外では、風と雨が町家の瓦屋根を叩いていた。
雷の音も遠くに聞こえていたけれど、この洋間だけは、まるで時が止まったかのように静かだった。
時代は大きく揺れていた。
洋の風が吹き込む京の町にも、少しずつ陰が差し始めていた。
だがその夜――
蓄音機から流れる音楽に耳を澄ましながら、私はただ彼とともに、時を忘れていた。
世界がどれほど変わろうとも、この腕の中だけは、変わらぬぬくもりがあったのだ。