017-雷鳴の夜、彼の胸で
「本来なら、お嬢様にお話しするようなことではございません。ただ……先生が渡辺様とのご縁を望まれている以上、事前に知っていただくのも悪くはないかと。心の準備という意味で。」
――準備?
わたしに、いったい何の準備ができるというの……?
銃声が怖い。血が怖い。それ以上に怖いのは、突然すべてが崩れ落ちていくこと。
どんなに覚悟しても、どれだけ強くなろうとしても、やっぱり、怖いものは怖い。
あの日の空は、朝からずっと重く垂れこめていた。
まるで空から落ちてきた灰の壁がそのまま世界を覆ったような――そんな灰色。
雲は墨を流したように渦を巻き、ときおり稲光が走ると、そこに燃えるような色が潜んでいることにようやく気づかされる。
ひときわ大きな雷鳴が轟いた瞬間、部屋のガラス戸がガタガタと震えた。
その音に身体が勝手に反応して、わたしは思わずクローゼットの中に身を潜めていた。
膝を抱え、耳を塞ぎ、ただただ、すべての音が聞こえなくなればいいと願っていた。
こんなにも恐怖に震える自分がいるなんて、想像したこともなかった。
怖いのは、死ではない。
制御できないこと、手の届かない運命――
彼のことさえも、もう自分の手には負えないのだと思い知らされるのが、何よりも怖かった。
戸の隙間から稲光が差し込むたび、わたしの肩はびくりと跳ね、
雷鳴が続けば、骨の奥まで震える気がした。
どれほどそこにいたのかはわからない。
息苦しいほど湿って熱い空気に包まれて、
顔に流れるのが汗なのか涙なのかも判別がつかなくなっていた。
ただ、耳に残っていたのは――窓枠に当たる雨音。
「タッ、タッ」と刺すようなその音が、胸の奥にじくじくと染みこんでいく。
そのときだった。
ひやりとした風が足元を撫でたかと思えば、扉が「カチャリ」と開いた。
びくりとしながら顔を上げると、そこに彼がいた。
坂本理光――
彼はそこに、静かに立っていた。
痩せた身体はまっすぐで、まるで山のように黙然としていた。
その眼差しには、最初こそ驚きがあったけれど、すぐに痛みの色が差した。
何かに刺されたような表情だった。
彼は何も言わず、ただ手を差し伸べた。
低く、しかし優しい声で。
「……おいで。ここに来て。」
けれど、わたしは動けなかった。
ほんの少し、身を引いてしまった。
その様子を見て、彼はほんのわずかに喉を鳴らし、
やがてゆっくりと手を下ろして、静かに言った。
「……寺町に送らせる。今すぐ、準備を。」
そのとき、また雷光が天を裂いた。
反射的に、わたしは彼の胸に飛び込んでいた。
彼はまるでそれを予期していたかのように、しっかりと、わたしを抱きしめた。
雷鳴が耳のすぐ傍で炸裂する。
わたしは全身を震わせながら、彼の服をつかんで泣いた。
嗚咽が喉をつまらせ、息が苦しいほどだった。
「理光……こわい……雷の音、怖いの……銃の音に、聞こえて……」
震える舌でようやく搾り出した言葉に、彼は俯きながら、
髪にそっと口づけを落とした。
「……大丈夫だ。怖くない……僕がいる。」
彼はわたしをリビングのソファに連れて行き、毛布で包んでくれた。
それでもわたしは、彼のネクタイを掴んだまま、手を離せなかった。
その手を離せば、またあの悪夢のような銃声と雷鳴に引き戻されてしまいそうで。
彼はわたしの手をそっと握りながら、囁いた。
「……ピアノを弾こうか。」
わたしはこくんと頷いた。
リビングの片隅にある黒いグランドピアノ――
それは、昔彼がわたしのために買ってくれたものだった。
彼は蓋を開け、鍵盤に手をかけた。
雨音の中で浮かび上がるその姿は、どこか冷たくもあった。
けれど、その横顔は、彫刻のように凛としていた。
久しぶりだからか、最初は指が少しだけぎこちなく動いた。
けれどやがて、黒と白の鍵盤の上を滑る彼の手が、柔らかな旋律を紡ぎはじめた。
懐かしい、わたしのための、音。