016-君を離さないで、と彼は言った
「血が……理光さん、あなた、血が……どうしよう、わたし、どうすれば……誰か、誰か来て!お願い、助けて……!」
傷口を必死に押さえていた。けれど、わたしの指の隙間からは、まだ熱い血が溢れ出していた。ぬるりとした感触と、火傷のような熱が手のひらを焦がしていく。それが恐ろしくて、でも離せなくて、ただ泣きながら止血を試みるしかなかった。
そのときだった。彼はゆっくりと身を倒し、わたしの肩に寄りかかるようにして、そっと指先でわたしの頬についた血を拭った。
――慰めるように。
その微笑みは、ひどく優しくて、どこか遠くから戻ってきた人のようだった。まるで、死の淵から帰還した者が、ようやく望んだ答えを得たかのように。
「君は、あいつが“綺麗”だって言ったよね……僕を殺しに来た人間が、“綺麗”だって。」
彼はそう囁き、そして、わたしの声にはもう応えなかった。
「渡辺さん……どうして僕のこと、もう好きじゃなくなったの……?」
子どもみたいな声だった。拗ねたような、悲しげな、でもどこか諦めていない声。
「……置いていかないで。美惠……頼むから、僕を、置いていかないで。」
坂本理光さんは、そのまま足立病院へ運ばれていった。
わたしも一緒に行くと強く願ったけれど、彼の部下たちによって静かに制止された。
「それは、坂本様のご指示です」と、彼らは言った。
その瞬間、わたしの目には自然と涙が滲んでいた。
あの瀕死の状態でも、わたしを抱きしめ、「行かないで」と願った彼と――
そして今、わたしを遠ざけようとする彼は、同じ人なのだ。
北山のアパートに残されたわたしの前には、坂本家の人間が立っていた。まるで見張るように、玄関の外に控えていた。
しばらく静かに座っていたが、やがて立ち上がり、そのうちの一人に頼んだ。
「渡辺家に、無事を伝えていただけますか……?」
その男は柔らかく頷いた。
「渡辺様には、すでに坂本公館の方からお知らせしております。どうかご安心を。」
安心……なんて、できるわけがなかった。
わたしは障子の影から、外の景色を見つめた。
北山の街は変わらず静かだった。ただ、警官の姿が少し増えていて、制服の肩に取り付けられた警灯が時折、赤く明滅していた。その光が石畳をなぞり、そしてわたしの胸の奥も、どこか冷たく照らしていた。
肩を抱きしめるようにして立ち尽くす。室内の柱時計が、カチリ、カチリと静かに時を刻んでいた。まるで心臓の鼓動みたいに、鈍く、遅く、でも止まることのない拍動。
二日ほどが過ぎた。
その間、年配の女中が決まった時間に食事を用意してくれた。坂本家の護衛たちは寡黙だったが、わたしは一緒に食卓を囲みながら、思い切って尋ねてみた。
「坂本さん……ご無事ですか?」
彼は箸を置き、淡々と答えた。
「大事には至りません。意識は戻っております。ただし、事件について警察署のほうで取り調べがあり、しばらくは戻れません。」
その言葉に、わたしは心底ほっとした。安堵のせいか、頭がぼんやりして、他のことはすっかり忘れてしまいそうだった。ただ、彼が意識を失う直前に囁いた「置いていかないで」という言葉だけが、心の中に残っていた。
それは、まるで胸の奥にこびりついた煤のようだった。熱くはないけれど、決して取れそうになかった。
しばらくして、もう一つ気がかりだったことを訊ねた。
「……中山川合さんについて、ご存知ですか?」
すると、彼は表情を曇らせながら、即座に言った。
「すでに素性は調べました。坂本様も以前から彼を警戒しておりましたが、証拠がなかったのです。」
「じゃあ、彼は……誰の命令で? 坂本さんを、殺そうとしたのは……」
男は微かに笑って、首を振った。
「さぁ、それは分かりません。坂本様を狙う者は、多いですから。」
「でも……ただの商人でしょう? そんな命まで狙われるようなこと……」
そのとき、男はふとわたしを見つめた。そして、口元を少しだけ緩めながら言った。
「商売にも、いろいろございます。――渡辺様。坂本様は、南方の“準備”に携わっておられるのです。」
そう言って、彼は手を伸ばし、親指と人差し指で何かを形作った。
最初は意味が分からなかった。
でも、少しして――それが“銃”を模したものだと気づいたとき、わたしの背筋にひやりとしたものが走った。
もう、それ以上は訊けなかった。