014-誰のものでもなく、あなたのものでもない
ばかな私は、まだお祖母様の言葉を信じていた。
「四条で一緒に髪飾りでも選びましょう」などと誘われ、そのつもりで玄関を出たというのに、車が停まったのは坂本邸の前だった。
門の前には彼の車が既に停まっていて、運転手はまるで私が来ることを知っていたかのように、にこにこと笑って言った。
「お嬢さま、理光様から“先に中でお待ちを”とのご伝言です」
信じられなかった。
私はすぐに踵を返し、石畳の上を木履で踏み鳴らしながら歩き出した。だが運転手は諦めず、車を発進させて私の横にぴたりと付き添うように、軋む音を立てながら低速で走り出した。
京都という街は、いつだって人の噂に事欠かない。
有名な坂本理光との間に女が揉めているなどと分かれば、往来の人々の目がじろじろと、足の先までなめ回すように注がれる。
私は人目が何より苦手だった。
だから足を止め、真っ赤になった顔で振り返り、睨みつけた。彼は車の中にいた。窓を半分ほど下げ、きっちりと結ばれたネクタイ、整えられたスーツの襟、隙のない姿――ただ、目だけは笑っているようにも見えて、私を見つめていた。
「――からかってるの?」
歯を噛み締めて問いただすと、彼は車から降りることもせず、斜めに身を傾けながら、淡々と囁いた。
「本気で彼女と添うつもりなら――君は、反対などしないだろう?」
その言葉は、刃物のようだった。
私の身体ではなく、心の一番柔らかい場所に、音もなく冷たく突き立てられ、骨の隙間をなぞるように、じわりと痛みを残していった。
私はもう何も言わなかった。ただ、涙が音もなく、ぽたりと頬を伝った。
彼は車を降りた。傘も持たず、ハンカチもなし。まるで、私の怒りを受け止めに来たように、準備万端という顔をして。
私には、彼が何を望んでいるのか分からなかった。
彼には屋敷があり、女もいくらでもいる。どうしてわざわざ、私の涙や怒り、耐えている姿など見たいのか。
きっと彼は――私に、他の誰でもなく、“彼だけを憎んでほしい”のだ。
「もう、逃げないのか?」
そう問われて、私は冷ややかに見返した。
「一体、何がしたいの?」
「何も。ただ、坂本先生が坂本夫人とデートしたかっただけさ」
そう言って笑う彼の顔は、どこまでも品が良くて、まるで人を惹きつけるために生まれたような男だった。けれど私は知っている。この柔和な仮面の下に隠された、容赦ない本性を。
優しさは見せかけだ。残酷さこそが本物なのだ。
彼が一度その気になれば、人が変わったようになる。
私は彼を避けようと、通りで人力車を呼び止めた。「あなたとは会いたくない。もう帰るわ」
ところが、彼も車を降り、私の腕を強く引き寄せた。
「この通りで、坂本理光と女を取り合おうという車夫がいるか、見てみようか」
車夫はその言葉を聞くなり気配を察し、黙って車を引いて立ち去ってしまった。通りには好奇の目が集まり、視線が焼きつくようだった。
「もう、はっきり言ったでしょう?会いたくないって。いつまでこんなふうにしつこくするの?恥ってものがないの?」
彼は私の言葉など意に介さず、まるで聞こえないふりをして、のんびりと尋ねた。
「映画がいい?それとも狂言を観に行くか?」
私はもう諦めるしかなかった。結局、金剛能楽堂まで連れて行かれた。
能楽堂を出たあと、彼は運転手に命じた。
「北山のマンションまで」
私はその言葉に足元が凍りつくような感覚を覚え、即座に車を拒否して背を向けた。
「渡辺」
呼び止める声には、苛立ちが滲んでいた。
「もう、いい加減にしてくれ。どうすれば君の機嫌が直る?」
彼の口から“私が彼を困らせている”というような言葉が出た瞬間、喉の奥が詰まり、目の奥が熱くなるのを感じた。
「……私のこと、何だと思ってるの?あなたの愛人の一人とでも?今日は御所南の洋館、明日は北山のマンション……」
声が震えていた。
「坂本先生、舞妓だって今は花街を出て、自分の道を歩いてる時代なのよ。私は、その人たちよりも、まだ下ってこと?舞台を降りたあと、あなたの部屋で眠るのが私の役目?」
それでも、私は言わずにはいられなかった。
彼の表情が沈み、低く呟いた。
「誰が、君を寝所の相手だと言った?」