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013-指輪は誰のために

今夜、彼が帰ってくることはない――私は、そう確信していた。

空は暗く、星一つ見えない。まるで誰かが濃墨を筆に取り、夜空一面を乱暴に塗り潰したかのようだった。その中央に、ぽつりと浮かぶ蒼白い月だけが、ひどく冷たくぶら下がっている。

この時間、坂本理光さかもと・りこう氏はきっと、御所南の邸宅に戻っていることだろう。

あそこはまるで宮のように広く、灯りは煌々と輝き、玄関にはいつも執事が恭しく並んで彼の帰りを待っている。まるで京の御所から戻られる高貴な方を出迎えるかのように。

彼にはいつだって帰る場所があり、美酒と佳人が傍にある。

けれど、私には何もない。

今ごろ、あの仁野愛子にの・あいこという女性は、香り高い絹の寝間着に着替え、彼の応接間のソファで《朝日新聞》を優雅に広げているはずだ。彼女は、男の機嫌を取る術を熟知している――風呂も済ませ、紅も丁寧に差し、髪は波打つ水面のように整えられていて、その上、最も効果的な瞬間に艶然と微笑む。

もし、彼が不機嫌そうな顔をしていれば、彼女はそっとその背に凭れかかり、細い腕で彼の肩を撫でるように巻きつけるだろう。まるで、艶やかな蛇のように。

「また、渡辺さんに苛立たされましたの?」

そんなふうに、戯けた口調で問いかける。だがその声音の奥には、毒がある。

彼が私の名前を聞けば、きっとまた眉を顰めるに違いない。いつだってそうだ。私のことを思い出すだけで、彼の胸には針が刺さったような苛立ちが走るのだ。

――私だって、彼に好かれようとしたことがないわけじゃない。

でも、上手くいった試しがない。

口にすれば言葉を選び損ね、キスもぎこちなく、甘え方など知る由もなく。彼に贈ったハンカチは、縁が曲がっていたらしい。彼は言った。「君は本当に不器用だ」と。愛子さんみたいに気が利かないとも。

それでも――

あの夜、彼のポケットからこぼれ落ちた、あの小さなベルベットの箱。あの中の指輪が、もし私への贈り物だったのなら。それがただの気まぐれでも、思い直した結果でも……それは、私の好きな色、淡い桜色の石だった。

もしあれが彼女への贈り物だったのなら、彼があんな冷たい顔で言うはずがない。

「――取っておけ」

その光景が、頭にこびりついて離れない。

彼女が指輪を指にはめ、灯りにかざして微笑む姿が浮かぶ。きっと、彼女は気づいている。それが自分のためではなかったことも。

それでも、あの人はきっとこう言うのだ。

「あなたが彼女に贈った指輪が、今は私のもの……。そう思えば、私のほうが勝っているって、自分に言い聞かせられるわ」

でも、そんな言葉では、自分をごまかせない。

彼女が愛されていないのと同じように、私もまた、彼に愛されたことなど、一度としてない。

彼が欲しているのは、名家の令嬢。東京の晩餐会で隣に立ち、銀行頭取と笑顔で盃を交わせるような女だ。決して――道端で濡れながら見知らぬ人に傘を差し出すような、私のような女ではない。

……それでも、彼は知っている。私がどれほど不器用で、どれほど臍を曲げやすく、どれほど小さなことで拗ねるかを。

知っていて、構おうとしないだけだ。

彼が怒ったのは、私が「誰でもいい」と言ったからだ。

あれは、間違いだった。

そんなわけがないじゃないか。

なのに、彼が「関係ない」と言った時、私は何も言えなかった。

お互い、あまりにも意地っ張りで――

まるで、大人ぶった子供のように、最も幼稚なやり方で、互いを傷つけ合っている。

彼が側室を持つというのなら、たとえ内心でどれほど悔しくとも、私は声を上げたりしない。

渡辺の家で育った女として、それが身に染みついた生き方だった。名がなければ、言葉を持たぬ。それが女の規範。

けれど、彼は知っている。私が怒っていること、妬んでいること、そして諦めきれずにいることを。

もし本当に、私が気にしない人間だったなら、彼はきっと私になど興味を持たなかった。

彼が惹かれたのは、私の不器用さ。私の狭量さ。顔を真っ赤にして、唇を噛み締め、それでも彼の裾を掴んで離さない、そんな私の姿だ。

坂本理光という男は、本気で女を捨てたいと思った時、容赦などしない。切ると決めたら、刃で水を裂くように、一瞬で断ち切る人だ。愛していると言えば、邸を与え、宝石を送り、洋館を建てる。愛していないと言えば、翌日にはその女は、何者でもなくなる。

もし今夜、彼が仁野愛子に「ここは、もう君の家でもある」と言ったのなら――

私は、いったい何なのだろう。

……きっと、何者でもない。


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