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011-ひとしれず

 私は、必死に後ずさりしながら問いかけた。

「……なにを、しようとしているの?」

 坂本さんの声音は、あくまで穏やかだった。けれど、その奥には鋼のような冷たさが潜んでいた。

「渡辺さん、いい子にしていてくださいね。」

 理屈など通じないことは、わかっていた。彼が望むことは、誰にも止められない。

 目の奥が熱くなり、涙がこぼれそうになる。私は彼の言葉に従うしかなかった。

 彼の望みがなんであれ、それは決して私の中に生まれるはずのないものだった。けれど、彼の手が導くまま、私は指先を動かす。そこにあるものは、まるで熱を持った生きもののように、微かに震えていた。

 ——筆を握る手と、似ている。けれど、教わる文字とは違って、これは、ただ私を紅く染めていく。

 恥辱という言葉すら薄っぺらく思える。顔が火照り、身体の芯が軋む。

「どうすれば……いいの……?」

 唇が震え、問いかける。けれど、彼の答えは、ただひとつだった。

 私は目を伏せる。その言葉の意味に、最初は気づけなかった。けれど彼の手が、私の顎をそっと持ち上げ、答えを教えてくれる。

 「嫌……やだ……お願い……」

 頭を押さえられ、唇に何かが触れる。拒む気持ちと、どうしようもない従順が、胸の内でせめぎ合う。

 目の前が真っ白になる。息ができない。喉の奥まで迫る圧迫感に、涙が頬をつたう。

 ようやく解放された時、私は肩で息をしながら、涎に濡れた唇を押さえていた。そこにあるのは、私の知らない「女」の姿だった。

 「最後まで……ね。」

 彼は、耳元で囁く。その声は、ひどくやさしいくせに、容赦のない音だった。

 私の中に、どこかが壊れてゆく音がした。思考の端で、遠い誰かの顔が浮かび、香水の残り香が脳裏をよぎる。仁野さんだったのだろうか。——それとも、もっと別の、名前も知らない誰か?

 鼻の奥がつんとし、熱いものが零れ落ちる。

「君は……どうして、そんなに白けるんだ」

 その言葉に、また心が凍る。彼の接吻は、いつだって無骨で、唐突だった。

 私はもう、彼のこうした「やさしさ」にすら、うまく応えられなくなっていた。

 唇はぎこちなく、舌は迷い、歯が触れるたび、彼は一瞬、苦々しげな顔をした。

 けれど今夜は、何も言わなかった。ただ、そっと私の身体を離し、肩を抱いたまま小さく息を吐いた。

 それが、かえってつらかった。

 私は、彼が欲しかったのではなかった。けれど——。

 「やめて……」

 そう言いながらも、彼を拒みきれないまま、私はその腕の中にいた。身体のどこかが、もう勝手に彼に従ってしまう。

 「……君、もしかして、他の男に触られたいのか?」

 その言葉に、私の胸が凍りついた。

 彼の声には、微かな嫉妬と、怒りと、そして疑念が混じっていた。

 彼が——私を、疑っている?

 私が誰かを、想っていると——?


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