010-理光さん来訪
理光さんが「一目だけでいいから」と申し出た時、家人も特に反対しなかった。
そして彼は、ゆっくりと階を上がり、戸を叩いた。音はあくまで象徴的で、返事を待つこともなく、するりと扉を押し開けた。
私はちょうど、畳の上に身を伏せていた。すすり泣く音をごまかす暇もなく、振り返ると、あの、私が歯噛みしても足りぬほど忌まわしい男の顔がそこにあった。
咄嗟に、手近の座布団を掴んで彼めがけて投げつけた。
「何で入ってくるのよ、出てって!」
理光さんは、その座布団を片手で易々と受け止め、私の赤くなった目を見て、何も言わず、ただ部屋の内を静かに見渡した。
「また、泣いたのかい?」
「来ないでって言ってるの、出てってよ」
「本当に、そう思ってるのか?」
その声音は柔らかく、何処か戯けた響きを含んでいた。彼は机の方へ歩み寄り、そこに並べられた教科書や習字帖、端正に重ねられた原稿紙などを、手にとってしげしげと眺めた。
翡翠色のシェードがついたランプの鎖を、カチリ、カチリと鳴らしては、灯りを点け、消し、また点ける。煩わしいその音が、西洋時計の時を刻む音よりも耳についた。
私は羞恥に耐えかね、立ち上がって紙を奪おうと手を伸ばした。
「やめて、それ見ないで」
「この字、お前のじゃないな。誰が書いた?」
彼は一枚の紙を選び、広げて私の前に突き出す。
「関係ないでしょ、返して!」
紙を破りたくなくて力を込められず、私は必死に手を伸ばす。
その姿が余程滑稽に見えたのか、彼は小さく笑った。
「言いたくなけりゃ、いいさ」
と、言うや否や、彼の腕が私の腰を攫い、そのまま唇を寄せてくる。家にはまだ他の人もいるのに——私の抗いは、あまりに頼りなかった。
「言う、言うから」
私の声は震えていた。
「表兄に頼んで書いてもらったの、彼、書道教えてくれてるの」
しばしの沈黙ののち、理光さんは、ふと鼻先で笑った。
「まるで犬が書いたような文字だな」
その言葉が胸の奥に刺さる。熱が頬から首筋にかけて広がり、呼吸が浅くなる。
理光さんは筆を取り、墨を軽く含ませたかと思うと、私の背中を押して促した。
「紙を出して」
私は、硬くなった背筋のまま、襖の中から半紙を取り出し、そっと机の上に広げた。
彼は一筆、慎重に筆を走らせる。
墨色の濃淡が美しく、筆致も力強く、それでいて整った二文字。
「読めるか?」
私は、小さくうなずいた。
「理光……」
それは、私が最初に覚えた彼の名前だった。
「よくできました」
そう言いながら、彼は私の手に筆を握らせ、そのままもう一度、今度は私の名を書かせた。
彼の手に導かれて書かれた「美惠」の二文字は、たどたどしくも、どこか嬉しげで、「理光」と並んで紙の上に並んだそれは、まるで対になった印のように見えた。
「私、すぐに覚えられると思う」
「そうか、ならいい」
耳元で囁かれる声が、どこかくすぐったくて、私は反射的に顔を背けた。
「動かないで」
強く引き寄せられ、彼の腕の中に押し込まれる。鼻先が私の髪に触れ、洗い立ての香りを彼が吸い込む音が聞こえた。
「渡辺さん……君だけだよ」
その声と共に、柔らかい耳たぶが彼の唇に触れる。舌先が耳の輪郭をなぞり始めた時、私は、もう立っていられなくなっていた。
——身体の奥底が熱を持ち、空虚の中に疼きが生まれる。
それでも、私はかすれた声で彼の名を呼んだ。
「坂本さん……お願い、やめて……こわいの、痛いのはもう……」
「字を教えてやったのに、礼もなしとはな」
「教わらなくていい……!」
「選択肢はない」
彼の声は甘く冷たく、次の瞬間には、私の手が彼の膝の間に導かれていた。
「ここで跪いて。さあ、解いてごらん」