表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/18

010-理光さん来訪

 理光さんが「一目だけでいいから」と申し出た時、家人も特に反対しなかった。

 そして彼は、ゆっくりと階を上がり、戸を叩いた。音はあくまで象徴的で、返事を待つこともなく、するりと扉を押し開けた。

 私はちょうど、畳の上に身を伏せていた。すすり泣く音をごまかす暇もなく、振り返ると、あの、私が歯噛みしても足りぬほど忌まわしい男の顔がそこにあった。

 咄嗟に、手近の座布団を掴んで彼めがけて投げつけた。

「何で入ってくるのよ、出てって!」

 理光さんは、その座布団を片手で易々と受け止め、私の赤くなった目を見て、何も言わず、ただ部屋の内を静かに見渡した。

「また、泣いたのかい?」

「来ないでって言ってるの、出てってよ」

「本当に、そう思ってるのか?」

 その声音は柔らかく、何処か戯けた響きを含んでいた。彼は机の方へ歩み寄り、そこに並べられた教科書や習字帖、端正に重ねられた原稿紙などを、手にとってしげしげと眺めた。

 翡翠色のシェードがついたランプの鎖を、カチリ、カチリと鳴らしては、灯りを点け、消し、また点ける。煩わしいその音が、西洋時計の時を刻む音よりも耳についた。

 私は羞恥に耐えかね、立ち上がって紙を奪おうと手を伸ばした。

「やめて、それ見ないで」

「この字、お前のじゃないな。誰が書いた?」

 彼は一枚の紙を選び、広げて私の前に突き出す。

「関係ないでしょ、返して!」

 紙を破りたくなくて力を込められず、私は必死に手を伸ばす。

 その姿が余程滑稽に見えたのか、彼は小さく笑った。

「言いたくなけりゃ、いいさ」

 と、言うや否や、彼の腕が私の腰を攫い、そのまま唇を寄せてくる。家にはまだ他の人もいるのに——私の抗いは、あまりに頼りなかった。

「言う、言うから」

 私の声は震えていた。

「表兄に頼んで書いてもらったの、彼、書道教えてくれてるの」

 しばしの沈黙ののち、理光さんは、ふと鼻先で笑った。

「まるで犬が書いたような文字だな」

 その言葉が胸の奥に刺さる。熱が頬から首筋にかけて広がり、呼吸が浅くなる。

 理光さんは筆を取り、墨を軽く含ませたかと思うと、私の背中を押して促した。

「紙を出して」

 私は、硬くなった背筋のまま、襖の中から半紙を取り出し、そっと机の上に広げた。

 彼は一筆、慎重に筆を走らせる。

 墨色の濃淡が美しく、筆致も力強く、それでいて整った二文字。

「読めるか?」

 私は、小さくうなずいた。

「理光……」

 それは、私が最初に覚えた彼の名前だった。

「よくできました」

 そう言いながら、彼は私の手に筆を握らせ、そのままもう一度、今度は私の名を書かせた。

 彼の手に導かれて書かれた「美惠」の二文字は、たどたどしくも、どこか嬉しげで、「理光」と並んで紙の上に並んだそれは、まるで対になった印のように見えた。

「私、すぐに覚えられると思う」

「そうか、ならいい」

 耳元で囁かれる声が、どこかくすぐったくて、私は反射的に顔を背けた。

「動かないで」

 強く引き寄せられ、彼の腕の中に押し込まれる。鼻先が私の髪に触れ、洗い立ての香りを彼が吸い込む音が聞こえた。

「渡辺さん……君だけだよ」

 その声と共に、柔らかい耳たぶが彼の唇に触れる。舌先が耳の輪郭をなぞり始めた時、私は、もう立っていられなくなっていた。

 ——身体の奥底が熱を持ち、空虚の中に疼きが生まれる。

 それでも、私はかすれた声で彼の名を呼んだ。

「坂本さん……お願い、やめて……こわいの、痛いのはもう……」

「字を教えてやったのに、礼もなしとはな」

「教わらなくていい……!」

「選択肢はない」

 彼の声は甘く冷たく、次の瞬間には、私の手が彼の膝の間に導かれていた。

「ここで跪いて。さあ、解いてごらん」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ