001-夢より醒めて
淡蜜色の着物は、思いのほか私の身体によく馴染んでいた。
絞りのきいた仕立ては、胸元から足首にかけてしなやかに沿い、腰の曲線をなぞるように美しく落ちてゆく。そのせいか、自分でも驚くほど、ひどく華奢に見えた。袖口から覗く腕には灯の光が差し、ほとんど眩しいほど白く輝いていた。
——けれど、それだけのこと。
私は、自分の体つきが悪くないことを知っている。だが、こうした装いにはどうにも馴染めない。目立ちすぎて、どうにも落ち着かない。そもそも、こういう衣服が似合う性質ではないのだ。
「今夜は一流のダンスホールだ。きちんとした格好で頼む。」
坂本理光はそう言った。私は逆らえず、ただ静かに頷いた。
彼の言うことに、私は一度たりとも背いたことがない。
坂本理光は、私の許婚である。婚約した年、彼は十二歳、私は九歳だった。親同士が決めた縁談だと聞いている。理光の母が初めて私を見たとき、「素直で、気立てが良く、理光によく合う子だ」と褒めたのだという。
もちろん、私は何一つ、断る権利など持っていなかった。
渡辺家は代々学問の家柄で、京都ではそれなりに名の知れた家だ。曾祖父は旧制高等師範の講師であり、後に文部省に勤めた人物で、新聞の文化欄に寄稿するような「知識人」でもあった。坂本家とは古くからの付き合いがあり、まさに「釣り合いが取れている」とされた。
私は家の末娘として、幼い頃から礼儀作法を叩き込まれ、「慎ましく、従順に、良妻賢母としての道を歩むように」と育てられてきた。
——皆が口を揃えて言う。「お前は良き妻になる」と。
かつてはこの縁談も「金童玉女」ともてはやされたものだが、時代は変わった。新聞も雑誌も、朝から晩まで「新思潮」や「自由恋愛」を謳っている。
……私は、そんな時代に取り残された象徴なのだ。
理光のような人間が、こんな古臭い約束に縛られるべきではない。
彼は五年もの間、欧州に留学し、帰国した時にはもう、英語を母語のように操っていた。半年足らずで家業の織物工場を倍に拡張し、四条通の一等地に高級絹織物の店を開いて、大層な繁盛ぶりだ。
「繊維業は軽工業だ。日本の未来は工業化にかかっている」と彼は言った。
私には難しいことはよく分からない。ただ、彼の母が幾度となく私にそう話し聞かせてくれるので、何となく覚えてしまっただけ。
理光は、時代の最先端を歩む人だ。洋服を纏い、英語を話し、雑誌を読み、オーケストラを聴きに行くような男。
そんな彼が、どうして私のような、親の決めた婚約者などを受け入れられるだろう?
——私という存在そのものが、彼にとっては滑稽な冗談のようなものなのだろう。
分からない。なぜ、彼が私をこんな場所に連れてきたのか。
そこは、上流階級の者しか出入りできぬ、格式あるダンスホールだった。水晶のシャンデリアが淡く光を落とすなか、私は黒いベルベットのソファに腰を下ろし、彼が差し出したブランデーを前に、ただうつむいて座っていた。膝を揃え、薄蜜色の着物を纏ったまま、まるで人形のように。
理光は、商談の最中だった。
私は話の内容も分からず、口を挟むこともできず、ただ黙っていた。
隣に座る坂本理光は、仕立ての良い黒の洋服を纏い、その肩幅は山のように広かった。唇には柔らかな微笑みを浮かべているが、漆黒の瞳は鋭く、誰も近寄れぬ刃のような冷たさを湛えていた。
言葉はいつも穏やかだが、彼の内面を知る者は皆、口を揃えて言う——彼は、容易く人の心を測れぬ男だと。
私にも、それは分からなかった。
人前では、彼はいつだって見事だった。軽妙な言葉で笑いを誘い、場の空気を自在に操って、誰もが彼に好印象を抱く。
けれど、私に向き直った途端、まるで別人のように冷たくなる。
口を開けば、皮肉ばかり。
「保守的で、世間知らずで、人の言いなりになる操り人形みたいだ」
「東に行けと言えば東へ。立てと言えば立つ。それ以外のことはできないのか」
そんなふうに責め立てられるたび、私はどうしていいかわからず、ただ黙ってうつむくしかなかった。気づけば、涙がぽろぽろと頬を伝っていた。声すら出せないのに、どうしても止まらない。
それでも彼は、冷たく言い放つ。
「泣くなら泣くで、せめて声くらい出したらどうだ。……本当に血の通った人間か?」
その一言一言が、私に思い知らせる。彼が私をどれほど鬱陶しく思い、どれほど嫌っているかを。
——なのに、そういう毒を含んだ口ぶりが、商いの場では妙に効果を発揮するのだから、不思議なものだ。
理光と向かい合う者は、すぐに理解する。彼はただの若造ではない。市況に通じ、判断は的確で、無駄のない言葉で核心を突いてくる。
私はそばに座っていただけで、商談の内容はほとんどわからなかったけれど、雰囲気でわかる。今日の取引は、うまくいっているのだ。
理光は上機嫌で、何杯かブランデーをあおると、華やかな洋装をまとったダンサーたちを何人か呼び寄せた。やがて客人たちはダンサーとともにダンスホールへと向かい、紅いドレスと緑のリボンが明滅する光の中で渦を巻いた。
その光景を見つめながら、私は思った。——あの世界は、私とはまるで縁のない遠いところにあるのだ、と。
私はただ、場を取り繕うために連れてこられた婚約者。時代錯誤な、操り人形。
一人の女がいた。身体の線をあらわにする洋装は、脇に深くスリットが入り、その動きにあわせて白い腿がちらちらと覗く。男の手がそこに触れた瞬間、彼女は甘く笑って身を寄せた。まるで蜜を溶かしたような声で、頬を赤らめながら。
彼女はダンサー——この店で働く“職業婦人”だ。理光は男で、彼女は女。だから、彼らがしていることは、理屈の上では“当然のこと”とされるのだろう。
私など、まるで存在しないかのように。
その女の化粧は濃く、睫毛は一本一本がくっきりと浮かび、唇は艶やかな赤に彩られていた。作り物であるはずのその姿が、なぜか、ガラス瓶に挿された薔薇の花よりもずっと生々しく感じられた。
彼女は細い腰をくねらせ、琥珀色の酒を一口飲み、そして何のためらいもなく坂本理光に顔を寄せ、唇を重ねた。
彼は拒まなかった。
喉仏が静かに動き、酒を飲み下すと、そのまま手を彼女の腿に滑らせ、白いガーターストッキングを指先で外し、首を垂れてその鎖骨に深く口づけた。
女は、くすりと笑った。まるでヴァイオリンの高音のように、澄んで、艶やかで、ひどく快い音だった。
彼女は理光に腕を絡めながら、こちらを振り返って見た。
その視線は、媚びを含みながら、どこか冷たく、そして——挑むようだった。
その瞬間、ようやく気づいた。
ああ、彼は私に「見せたかった」のだ。
……婚約を、解消するために。
「旧派」——そんな言葉が、私の存在そのものに貼りついて、彼にとっての「恥」となったのだろう。
けれど彼も、家のご隠居さまには逆らえない。正面から破談を切り出すわけにもいかず、だからこそ、こんな形で私を追い詰めようとしているのだ。
そう思ったとき、私はようやく合点がいった。
彼は、賢い人だ。
同時に、とても——残酷でもある。
頬を打たれたような熱さが顔に走り、火照りが耳の奥にまで染み込んでいく。唇をぎゅっと噛み締めた。胸の奥が強く掴まれたように痛くて、脈を打つたびにずきずきと軋んだ。目の奥は、泣くまいとしても、どうしようもなく熱を帯びていた。
——けれど。
今度だけは、私は涙を落とさなかった。
私は立ち上がった。
夢遊病者のように、ひどくゆっくりとした動作で。
手のひらには冷たい汗が滲んでいた。
うつむいたまま、私は小さな声で言った。
「……坂本さん。そこまでなさらなくても、よろしかったのに」
——そう、「坂本さん」と呼んだのだ。
もう、「理光」ではなくなった。
誰か他人のように、世間の人が呼ぶように、よそよそしく、他人行儀に。
その一言を口にしたとき、私は悟った。
私たちの間には、もう——何ひとつ、残っていないのだと。