第80話 終章を持たない魔術書
星が冴え冴えと瞬く夜だった。
高台にある荒れ果てた神殿跡で、ネクレオスは崩れた柱に身を預け、静かに様子を窺っていた。
影は深く、闇は濃い。
彼の輪郭は夜気に紛れ、そこに“いる”はずなのに、意識しなければ視線から抜け落ちてしまう。
まるで闇そのものが、少しだけ形を持ったかのようだった。
ふと。
空気が、止まった。
風が消え、遠くで鳴いていた虫の音が途切れる。
代わりに、星の光だけが異様なほど強くなる。
ネクレオスは小さく息を吐く。
柱の陰から視線だけを動かし、振り返った先に、
濃灰色の外套を纏った青年と、白銀の髪を揺らす幼い少女の姿があった。
歩みは静かで、気配は薄い。
だが、その存在を理解した瞬間、周囲の魔力が一段、沈む。
「お、ナトも来たんか?」
軽く名を呼ぶが、ツィグナトは答えない。
ただ、神殿跡の奥――魔術師たちが取り囲む羊皮紙の束へと視線を向けた。
一拍。
返事をしない ツィグナトに、ネクレオスは眉をわずかに上げる。
「……あぁ、エリセなら寝落ちしとったで。
オレのローブ貸してきたし、一晩くらいどぉってことないやろ」
軽い調子で付け足す。
ツィグナトは、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
外套の下で、指先がわずかに止まる。
不快というほどではない。
だが、納得していないことだけは、沈黙にはっきりと滲んでいた。
ネクレオスは肩をすくめる。
「いや、さすがにナトの書いたあの写本が見つかったって聞いたらな。
そら、こっち優先するやろ」
一つ、息を吐く。
それ以上は何も言わず、
彼の視線は再び――魔術師たちが囲む羊皮紙へと戻った。
無造作に重ねられた羊皮紙の束は、端の一部だけが黒く、浅く焦げている。
焦げ跡からは、封じられていた術式の一端が、否応なく覗いていた。
だが、魔術師たちには分からない。
そこに現れているのが――
封じ込められた呪いの“縁”であることが。
白銀の姫が刻んだ呪力と、雷を孕む闇が、
幾重にも絡まり合い、紙の奥で渦を巻いていることが。
——その奥で、災厄級の気配が、静かに脈打っていた。
「何回見てもへこむわぁ。
俺とセラフィスの神力、どないしたらあんな上手いこと仕舞いこめるんやろなぁ」
ネクレオスは半眼で肩をすくめる。
魔術師たちのざわめきには、何の反応も示さずに。
「あいつら……分かった“つもり”で触っとるのが、一番タチ悪いわ。
文字と構造だけ追って——、
……アカン。ナトの手書き持っとるん見てたら、腹立ってきた」
白銀の少女が、鼻で笑った。
「ふん……お前と意見が合うなど、百年ぶりじゃな。
危うき書を救済の鍵と信じる、あの愚昧なる者どもに与える神罰、余は既に百ほど思いついておる。 ――今更、腹を立てたところで遅いわ」
彼女の金の瞳には、焦げた頁の奥で蠢く災いが、はっきりと映っている。
だが、魔術師たちは気づきもしない。
希望の遺産だと、そう信じて疑わない。
ツィグナトは目を細め、低く息を吐いた。
「どいつもこいつも煩わしいな……」
ネクレオスは腕を組み、目を閉じる。
遠い記憶をなぞるように。
「ん……?
あれって確か、地核に沈めた……やんな?
端が焦げただけ、て……おかしない?」
そして、わずかに間を置いた。
視線が、もう一度だけ焦げた頁へ戻る。
それから、口の端をわずかに緩め、ツィグナトをちらりと見る。
「ナトの写本に、防衛機構でも仕込んであったんか?
それとも――俺の闇か」
問いは軽いが、含みは鋭い。
ツィグナトは視線も上げず、即座に答えた。
「ない。
そんな余地はなかった」
それだけだった。
ネクレオスは、ふっと口元を緩める。
声には出さない。
説明もしない。
ただ、白銀の幼い姫――セラフィスの方を見る。
金の瞳が、細くなる。
「……勘違いするな。
お前の闇が絡みついたのではない。
余の呪いが、許しただけじゃ。
次に触れた時は――神格もろとも、焼き切る」
吐き捨てるように言い、ふんと鼻を鳴らした。
だが、それ以上は言わなかった。
ネクレオスは、ただ、肩をすくめる。
その沈黙が、答えだった。
「それにしても……」
声が、少しだけ低くなる。
「……あいつら、ちゃんとあれ読んだんか? 」
「“人やった頃のナト”が書いた術式やとしても、オレとセラフィスの攻撃を受け止めるための術式や。そこらの魔術師が扱う前提ちゃうって解るやろ。」
◇
荒れ果てた神殿跡にある崩れた円形祭壇。
その中央に、それは置かれていた。
最後の頁がわずかに焦げ、歪んだ羊皮紙の束。
人の手で書かれたとは思えぬほど精緻で、
同時に、書いた者の躊躇と迷いが、生々しく残る文字列。
「これが……名を奪われた魔術師の……!」
「星の子の……」
誰かが震える声で呼ぶ。
――《終章を持たない魔術書》の写本。
ルザリオの星界回帰派は、ある夜を境に地上から消えた。
警告も宣告もなく、拠点は次々と襲撃され、結界は破られ、研究者も信徒も区別なく倒れた。
ただ一人、老魔術師ハリソンだけが生き延びた。
崩れ落ちる書庫の奥から、彼はひとつの箱を抱えて逃げ出した。
中にあるのは、星界回帰派の至宝。
《終章を持たない魔術書》の写本。
それは、神に名を奪われた魔術師が、人であった頃に自らの手で記した書。
まだ人の理に立っていた時代の遺物だった。
「そうだ。
これは……人を、取り戻す書だ」
ハリソンは、そう信じて疑わなかった。
星界回帰派の教義は明確だった。
神々は偉大な魔術師から名と尊厳を奪い、星の子として人の外へ追いやった。
この書は、その運命に抗うために書かれたのだ、と。
正しく発動できれば――
名を奪われ、星の理に囚われた偉大な魔術師を、再び人の理へ引き戻せる。
正面に立つ魔術師が唇を噛む。
「だがな、ハリソン。
発見から二十年……すべてを解読できたわけじゃない。
意味の分からぬ余白が多すぎる。
火と水、天と地……双極の属性魔術を、同時に幾つも展開せねばならん。
扱うには、あまりにも危うい」
「終章が見つかっていないから、そう思うだけだ!」
ハリソンは叫ぶ。
「急がねばならん。
書を失えば……すべてが無駄になる!」
この国の拠点へ辿り着いたとき、彼は追い詰められていた。
ルザリオで全てが失われたのは、あまりにも突然だった。
仲間も、研究も、数々の星界魔術具も。
次に失われるのは、この写本かもしれない。
魔術書の改ざんは容易だった。
――終章が、なかったからだ。
本来存在しない補助式を継ぎ足し、欠けた箇所を己の解釈で埋める。
魔力が足りぬなら、世界から奪えばいい。
ハリソンは写本に片手を置き、ゆっくりと魔力を流し始めた。
その瞬間だった。
足元の大地が、悲鳴を上げる。
魔力が、足りない。
術者の器では、到底支えきれない双極魔術。
不足分を補うように、
土地の基盤から、
天の星から、
魔力が引き剥がされていく。
空が裂け、
風が止み、
地面が褪せて砂に変わる。
星が――落ちた。
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