第79話 世界から零れ落ちた王国
――その夜、空は普段と変わりなかったという。
雲一つなく、星々は冴え冴えと瞬いていた。
夜明け前に突然、空が鳴った。
雷ではない。
地鳴りでもない。
まるで天そのものが引き裂かれるような、低く、長い音だった。
――星が、落ちる音だ。
ひとつではない。
光の尾を引き、空を裂きながら、複数の星が地上へ吸い込まれるように落ちていく。
わずかに遅れて、白熱した光が昼のように世界を照らし、
次の刹那――
轟音とともに、世界の芯を打ち鳴らす衝撃が走った。
山々がうめき、
河が逆流し、
国境線をなぞるように、大地が裂けた。
正確すぎるほど正確に。
障壁も、街道も、川も、森も、山の尾根も、監視施設も――
地面ごと崩れ、裂け目に呑まれていく。
まるで、
世界がその国を切り取ることを、最初から決めていたかのように。
――こうして人知では推し量れぬ『災厄』により、
ひとつの国は、一夜で消えた。
◇◇◆◇
境界線の外にいた者たちは、音の正体を理解するより先に膝をついた。
鐘楼の鐘が、ひとりでに鳴り出した。
人が撞いたのではない。
空気そのものの震えが、金属を揺らしたのだ。
夜空を見上げた者は、皆、同じものを見た。
星が落ち、地面が裂けるその音は、
雷が幾重にも重なったようでもあり、
巨大な布を引き裂く音にも似ていた、という。
翌朝、国境沿いの監視塔に詰めていた隣国の兵士達の前には、深く、大きな亀裂が現れていた。
熟練の弓兵が、全力で矢を放っても、向こう岸には届かない。
松明を投げ落としても、底は見えず、音も返らなかった。
それでも――
双眼鏡を覗けば、亀裂の向こうに街は見えた。
城も、塔も、屋根も、そこに「在る」。
だが、旗は揺れず、煙は立たない。
昨日まで確かに存在していたはずの国からは、
使者も、商人も、噂話すら届かなかった。
あまりにも、静かだった。
最初に異変を記録したのは、教会でも王侯でもない。
国境の監視塔に詰めていた、名も残らぬ書記官だ。
彼は、その朝の記録にこう書き残している。
国境のこちら側では、いつも通り夜が明けた。
星も、地震も、稲光も越えてこなかった。
ただ、向こう側だけが夜に沈んだままだった 。
人々は恐れ、同時に囁いた。
「災厄だ」
「奇跡だ」と。
何が起きたのか、
誰が招いたのか、
なぜ、そこだけが滅び、外は無事だったのか。
答えを知る者はいなかった。
残されたのは、
深さという概念だけが存在する亀裂と、
あの夜以降、二度と朝を迎えなかった土地だけである。
そして、その記録の末尾には、こう記されていた。
――この夜、
災厄と奇跡は、同じ場所に降りた。
神学者と魔術研究者たちは意見を割った。
「神罰だ」
「星の運行異常だ」
「禁忌の魔術が失敗したのだ」
だが、ただ一人の天文学者だけが、首を横に振った。
「奇跡だと? ばかげている」
彼は、分厚い星図と観測記録をめくりながら言った。
何百年にも渡る恒星の運行が、正確な数値と線で記されている。
「これは――止められたんだ」
誰かが、
意図的に。
完全な防護でもない。
完全な救済でもない。
ただ、
「これ以上、広がらせないという”干渉”」だと。
神の奇跡にしては冷たく、
人の魔術にしては、あまりにも過剰だったため、
その説が支持されることはなかった。




