第74話 『蛇使い座』――小さな星空の秘密
そのあと、売店でエリセが購入したのは、小ぶりな木製の天球儀だった。
球体の中には、細い金線で組まれた星座の輪がいくつも交差していて、
星々には小さな光石が埋めこまれている。
手のひらでそっと回すと、星の粒が淡くきらめき、
まるで小さな夜空を閉じ込めたようだった。
(……先生の工房にあったのは、もっと大きくて立派なやつだったな)
思い出すのは、ツィグナトの工房の奥に据えられた、重厚な天球儀。
青白い光を反射しながら、静かに回転していたあの球体。
それに比べれば、この天球儀はずっと小さいけれど――
彫刻も造りも精密で、なぜか目が離せなかった。
(けっこう高いけど……これはたぶん、買わないと絶対後悔するやつ!)
そう心の中でつぶやきながら、エリセは木製の台座を胸に抱えて支払いを済ませた。
星座に触れるたび、星を模した光の粒が瞬くようにきらめいて見える。
「先生、見て! すごくきれいでしょ?」
ツィグナトはちらりと視線を向けただけで、何も言わなかった。
その無言が、なぜか言葉よりも優しく感じられる。
(……まぁ、いつものことだけど)
エリセは軽く肩をすくめ、笑った。
彼に無視されるのは日常茶飯事だ。
でも、知るべきことはいつも教えてくれる――
それが分かっているから、気にしない。
ふと、球面に刻まれた星座名の一つが目に入った。
《蛇使い座》。
星座の名前が、記憶していたものとは違う。
エリセは首をかしげ、ツィグナトに尋ねる。
「先生、この星座って、ルザリオと名前が違うの?」
ツィグナトは淡々と答える。
「国が違えば呼び名が変わることもある」
「そっか、じゃあ一つ賢くなったね!」
そう言って笑ったエリセは、天球儀を胸に抱いた。
(これ、先生と一緒に回った記念の品だ)
……そんなほのかな余韻のなかで、ふたりはルザリオの展示区画へと戻った。
道すがら、エリセはぽつりぽつりと今日見て回った各国の展示物の話をする。
ツィグナトは相変わらず無言で、だがときどき小さな返答を返す。
戻ると、フレイが聖樹の葉の前に立っていた。
かつて警備に張り付いていたカークと他数名の騎士たちは、床にへたり込んで疲れ切った顔をしている。
ユフィが彼らの頭に冷やした布をかけて回っていた。
「おかえり、エリセ。あいつら何人か戦線離脱したよ。さすがに長丁場だ」
フレイは目を細める。その横顔にも、かすかな疲労の陰りがあった。
「……理解し難い言葉の応酬を聞かされ続けるのは……さすがに、くるな。
剣で解決したい衝動を抑えるのが、な――」
その“剣で解決”の言葉に、エリセは思わず固まった。
(えっ、ほんとに剣!?)
後ろに一歩下がり、肩をぎゅっと上げて息を呑む。
心臓が跳ね、掌がかすかに震えた。
「はっ…」思わず小さく息が漏れる。
慌てて首をかしげて必死に動揺を隠す。
それでも目の奥の驚きは隠しきれず、見開いたままだった。
展示台の最前列では、オルディアの研究員二名が聖樹の葉に張り付いたまま、休むことなく語り合っている。
「葉脈の輝度変化は内部魔力の呼吸だ」
「いや、表皮の再生周期こそが――」
延々と続く熱弁が響き、誰も止められない。
騎士たちは物理的ではなく、精神的に削られていた。
エリセは再びツィグナトに視線を向け 、震える手で二人を指さし必死に声を絞り出す。
「せ、先生……あの二人、オルディアの展示区画に――お願いです、どうにかしてくださいっ……!」
その声も震えていた。言葉だけでなく、体中から必死さが滲み出ている。
「もう……これ以上、聞かされ続けるの、無理ですっ!」
肩もぎゅっと震わせ、涙が滲みそうになるのを必死で抑えた。
ツィグナトはしばし黙り、眉間に薄い影を作る。
彼の目は冷たい。まるで面倒ごとを見極めるときの獣のそれだ。
『なんでオレが』と言いたげな表情が、やがて『……仕方ないな』に傾く。
そしてツィグナトは床にしゃがみ、小さなサークルと古語の符を素早く描いた。
指先が最後の一画を結んだ瞬間、淡い青白い光が輪郭を走る。
すぐに、空気がひやりと張りつめた。
聖樹の葉の前で語り続けていたオルディア研究員二人の足元から、細い氷の筋が伸びる。
「え、あ、ちょっ――」
ピキ、ピキ、ピキィ――。
みるみるうちに透明な氷が二人の身体を包み、驚愕の表情のまま凍りついた。
一瞬の静寂。
ツィグナトは立ち上がり、氷像と化した二人を淡々と見下ろす。
「誰かに引き取りに来させろ。落として割るな。夜になったら解ける」
その言葉に、周囲の空気がようやく動き出した。
騎士たちは思わず背筋を伸ばし、ユフィが口を押さえて息を呑む。
まるで彫像――いや、本当に凍ったのだ。
あまりにも無慈悲で非情な解決法に、エリセもフレイも思わず顔を見合わせる。
情け容赦はないが、実に合理的だった。
エリセは少し悲しそうに眉を下げる。
だが同時に、あの瞬間、自分の頼みを聞いてくれたことに内心でほんの少しだけ喜びを覚えていた。
ツィグナトの無言の協力は、彼なりの好意表現なのだと、彼女は知っている。
(……先生もうるさかったからだろうけど)
彼の指先にも、うっすらと氷の結晶が張り付いていた。
淡い灰の粒が光を返し、それを見つめながら――エリセは胸の内で、小さく笑った。




