第73話 宗教と魔術師――相性の悪い空気 、と居たたまれないあたし。
喧噪の波を抜けると、空気がすっと鎮まった。
熱を帯びた通路のざわめきが遠くなると、そこだけ別の時間が流れているように感じられる。
白と金を基調とした展示区画は、光を淡く受け止め、甘い香りの煙がゆるやかに漂っていた。
ミリオネス神聖教国――宗教の威光をそのまま形にしたような区画だ。
南方の陽気な喧噪とは対照的に、ここでは声が自然と囁きに変わる。
エリセは思わず口元を押さえ、足を踏み入れた瞬間、まるで神殿の中へ迷い込んだような錯覚を覚えた。
(なんかもう、空気が違う……荘厳ってこういうことか)
——この大陸には教会と魔術師の間に深い断絶の時代があったという。
“自らの力を振るう者”である魔術師を異端視し、今もなお聖職者たちは魔術を遠ざけている。
そして、彼らは魔術具を「神の力を宿す道具」――すなわち《聖具》と呼び、
それを造る者たちもまた《聖具師》と称す。
魔力は“恩寵”であり、“奇跡”であり、“祈祷力”――神に属する力なのだ。
現代、教会は魔術そのものを禁じることなく、“神の御業の模倣”として再定義しており、
信仰の威厳を保ちながら、隣国との融和を示すための冷たい外交の上で成り立つ。
――それが今、この展示会で《聖具》を出展する彼らの政治的な立ち位置でもある。
白い大理石の床に、燭台の光が柔らかく反射する。
エリセは首を軽く傾げ、香りの漂う方へ歩を進めた。
展示台の前には、純白の法衣をまとった聖具師が柔らかい声で呼びかけている。
「どうぞ、ご自由に体験なさってください。《沈黙の聖典》は、読む者の心を清め、魂を正しい道へ導く聖具でございます」
古びた装丁の聖典が静かに開かれており、表紙には金糸で小さく《光》の紋が縫い取られていた。
(……これを読むだけで心が洗われるの?)
半信半疑で足を止めると、その向こうに見慣れた背中があった。
「あ……先生!」
静寂の中、肩にかからないくらいの長さの黒髪が、自然に波打つ。
燭台の光にひそやかに艶めくスパイラルは、柔らかな陰影を落としている。
彼は展示列の少し外れで、香の流れを追うように佇んでいた。
肩から羽織った濃灰色の外套が、周囲の白さを際立たせる。
「……ネイムさん探してるんだけど、見てない?」
「知らんな」
「……ですよね」
(でも先生なら、オルディアのあの二人を強制送還できるかも……)
そんなことを考えているうちに、聖具師の声が近づいた。
「お二人とも! ぜひ体験を。神の御言葉に触れれば、心の曇りも晴れましょう」
背後でツィグナトが低く「(この区画から)出るぞ」と言った気がしたが、遅かった。
エリセが「いえ、結構です」と手を振る間もなく、聖具師にあっさり腕を取られる。
「えっ、いや、あの……!」
「さあ、聖句を一節、お読みくださいませ」
(……押しが強い……)
だがここでは、その押しの強ささえ祈りの一部に見える。
そして背後のツィグナトのため息が何気に刺さる。
(自分だけちゃっかり逃げてるくせに……)
仕方なく、エリセは聖典を手に取り、声を出して読んだ。
「――“人は恩寵宿す器なり。神の律は、澄みたる水にのみ映る。”」
言い終えた瞬間、胸の奥がすっと軽くなった。
顔に自然に柔らかな笑みが戻る。
(……あれ、なんか……清々しい……?)
エリセはツィグナトの方を振り返った。
「ねぇ、なんか魂が高潔になった気がする」
ツィグナトは無表情のまま、淡々と返す。
「気のせいだ。それはただの聖書だ」
「……へ?」
静かな空気の中、聖具師のまつげがわずかに震える。
(……“ただの聖書”? まさか、この人……)
彼女は笑顔を崩さぬようにしたが、頬の筋肉が一瞬だけこわばる。
「清めの効果があるのは、その本を収めている箱――《聖浄匣》の方だ」
ツィグナトが視線を送ると 、展示台の影の古めかしい木箱がその存在を主張するように鈍く光った。
聖具師の瞳が一瞬、驚きに見開かれる。
心臓が小さく跳ねた。
(……! なんで気づいたの、この人……?)
けれど次の瞬間には、彼女の表情がすっと戻る。
笑みは穏やかに、声もやわらかく。
まるで最初から何も起きなかったかのように。
――さすがは神聖教国の老獪な聖職者。動揺は一瞬で封じられた。
「……じゃあ、あたしの魂が洗われたのは……?」
エリセが首を傾げる。
「燭台の効果だ。あの蝋燭の光には、精神の疲弊を鈍らせる作用がある」
その一言に、聖具師の口角がぴくりと引きつった。
(“鈍らせる”……? いや、それを言っちゃ……!)
一瞬、頬から血の気が引く。
けれど老練な聖職者の矜持が、すぐに表情を整えさせた。
唇に微笑を戻しながらも、目の奥にだけ焦りの影がちらりと揺れる。
(……この方、いったい何者……? なぜ全てを見抜くような目を……)
そんな動揺をよそに、ツィグナトはただ燭台を一瞥しただけだった。
エリセはその炎を見つめ、ゆるく息を吐く。
(鈍らせる……? 清めるんじゃなくて鈍らせるって……)
(……先生、台無しです、その理屈!!)
ちらりと聖具師を見やり、いたたまれない気持ちになる。
けれど、揺れる炎を見ているうちに、胸の奥がまたすっと落ち着いていくのを感じた。
エリセは苦笑し、聖具師は平静を装いながら指先で汗をぬぐう。
――神の灯に照らされたのは、信仰の真実ではなく、彼女自身の冷や汗だった。
そのとき、ツィグナトの視線が聖具師の胸元へと滑った。
そこには小さな銀のペンダントが淡く光っている。
ツィグナトはそれを見つめたまま、何かを測るように黙り込んだ。
エリセがぽつりと口を滑らせる。
「先生、あんまり女の人の胸元じっと見たらダメだよ」
その瞬間、聖具師の肩がぴくりと跳ねた。
「えっ、あっ、い、いえっ、あの、私は――!」
顔がみるみる赤くなり、手が所在なく宙を泳ぐ。
周囲の見学者たちが、何事かと視線を向けた。
ツィグナトはゆっくりとこちらを見やり、無表情のまま淡々と返した。
「見ていない」
「嘘っ、絶対見てた!」
エリセが思わず突っ込む。
聖具師はさらに真っ赤になり、両手で胸元を押さえて後ずさった。
「い、いえっ、そんな……っ! そのような……!」
慌てふためくその姿に、他の聖職者や見学者たちが笑いを堪えきれず、場は柔らかくざわめいた。
ツィグナトはその空気を一顧だにせず、再びペンダントへ視線を戻す。
(……しっかり見てるしっ!)
エリセは心の中で叫びながらも、頬の内側がほんのり熱くなるのを感じた。
胸の奥が、もやもやと甘く渦を巻く。
聖具師は耳まで真っ赤にしながら、どうにか平静を取り戻し、
「お、お騒がせして……まことに申し訳ございません……!」
とぎこちなく頭を下げた。
けれど、その指先はまだ小刻みに震えていた。
やがて聖具師は気を取り直し、別の展示物の説明を始める。
エリセは満足そうに頷き、合間にツィグナトへ小さな質問を投げた。
――それは、エリセも聖具師もすっかり油断していたころ合いだった。
「ねぇ、あの胸元のペンダント、あれも魔術具なの?」
エリセの囁きに、ツィグナトは肩をすくめてエリセの耳元で囁く。
「聖職者の声質を調律するための魔術具だ。本来はな。
祈りの言葉が、より澄んで、耳に心地よく届くように――
聞く者の心に、抵抗なく染み込むように設計されている」
「――!」
エリセと聖具師の息が同時に止まった。
二人とも一瞬で血の気が引き、次いで、頬がぱっと真っ赤に染まる。
(……ば、ばれてる……!? な、なぜ、どうして……!)
心臓が跳ね上がり、額に汗が滲む。
――この方、いったい何者……!
ただの祈祷具にしか見えないはずなのに……!
(せ、先生! 耳打ちは反則です! 殺す気ですねっっ!!)
両手で顔を覆うエリセの耳は、燃えるように赤かった。
ざわめいていた空気が、再び静まり返る。
だが今度は、どこか微笑ましい温度を孕んでいた。
甘い花の香りがふわりと流れ、エリセはそれを深く吸い込み、ぎゅっと目を閉じた。
(…………神よ!!! どうしてあたしだけ試練が多いんですか……!!!!!)




