第66話 漆黒と白銀、双蛇の紋章
——というのは、あくまでルザリオ側の認識。
要するに、騎士フレイが上司へ報告した“建前上の”事実である。
実際には、そこに至るまでの出来事は、ずいぶんと削ぎ落とされていた。
抱えた黒蛇の案内で、息を切らせながら展示会場から倉庫街の闇を抜けたエリセとレジットは、ようやくツィグナトたちの前にたどり着いた。
「先生ッ!」
振り返った三人の視線が彼女を捉える。
頬は真っ赤、汗と夜風で髪が乱れている。
「何してんのよ!? どうしていつも何でもかんでも壊してんの! 思春期か!」
黒蛇が小さく嘆息をもらす。
エリセの声は夜風に吸い込まれていき――その音に、セラフィスが顔を上げた。
「……なんとまぁ、血気盛んな小娘よ。顔を朱に染め、息を切らして駆けてくるとは……まるで雛鳥ではないか」
一拍の沈黙。
視線の先でツィグナトがわずかに口角を上げるのを見て、セラフィスの頬がぴくりと引きつる。
「ふ、ふん……っ、余は別に、その愛らしさに心を動かされたわけではないぞ!
ああもう、妬まし――むぐ、けしからぬ!
餌の分際でナトに近づくなど、不敬極まりないわ!」
「えぇっ、セラフィスちゃん?」
エリセが目を丸くした瞬間、ツィグナトの冷たい手がセラフィスの顔面を容赦なく掴んだ。
五指を広げてがっちりと。
「んむっ……!」
声も出せず、眉をひそめるセラフィス。
涙目で睨み上げるが、ツィグナトは視線一つよこさない。
冷たく乾いた手の感触が頬の奥まで沁みこみ、心臓が早鐘を打った。
呼吸が浅くなる。
胸の奥がくすぐったく、息を吸うたび喉が鳴る。
(な、なんと破廉恥なっ……!
こ、このような心臓に悪い仕打ちっ……!)
頬を掴まれたまま、もごもごと抗議する。
「んむ、んぐぐ……っ!
は、離せ!
余の顔を弄ぶでない、この……不埒者め!」
ツィグナトの低い声が、耳のすぐ傍で落ちた。
「……害虫退治だ。お前には関係ない」
その低音が頬の奥を震わせ、セラフィスの肩がびくりと跳ねた。
(い、今の声……ぞわぞわする……!
な、なんなのじゃこれはっ……!)
そのあまりに無造作な光景に、エリセは息を呑んだ。
(ちょ、ちょっと!? 顔掴んだ!?
この人ほんとに掴んだ!?)
目の前で繰り広げられる“成人男性による可憐な少女の顔面掴み”という、倫理的にも絵面的にも衝撃的な場面に、脳が追いつかない。
思わず一歩踏み出しかけ――踏みとどまる。
(止めたほうがいい?
いやでも下手に口出すと……絶対ヤバいやつ!
次に掴まれるの、あたしの顔だよね!?)
喉まで出かけた「やめてあげて!」が、冷たい理性に押し戻される。
けれど、見て見ぬふりもできなかった。
(ああもう、何がどうなってるのか知らないけど――!)
「嘘! 先生、あたしを囮にしてたってことでしょ!
黒蛇ちゃん一匹に尻拭いさせて!」
「……黒蛇ちゃん?」
ラゼルは目を丸くし、次の瞬間、腹を抱えて吹き出した。
「ぶはっ! 黒蛇ちゃんて!
あはははっ! もう駄目だ、君たち全員、腹痛い……!」
「笑いごとじゃないのよ!」
掴んだ黒蛇をブンブン振り回しながら抗議する涙目のエリセを横目に、ラゼルは口角を上げたまま、ちらりとツィグナトを見る。
「ま、僕も似たようなもんだよ。――同郷のよしみ。利用されたヴィステ・ゼルハイムのお礼参りってとこかな?」
「……お礼参り?」
「そ。ちょっとした大人の因果関係。気にしないでいいよ」
ふと、その声音にいつもの軽薄さがなかった。
どこか遠くを見ているような笑い方。
エリセは無意識に眉を寄せ、握っていた黒蛇をそっと撫でる。
勢いがふっと落ちたのを、自分でも感じた。
「……おかしいと思ったのよ」
言葉が自然と、少しだけ柔らかく落ちる。
「展示会で聖樹の葉を飾って、“星域の感動を皆にもわけてあげるといい”なんて……
先生が考えるわけないのに」
《聖樹の葉》とエリセが口にした瞬間、フレイの肩がわずかに揺れた。
(……星域?)
胸の奥に、ひやりと冷たいものが落ちる。
(まさか――“星の領域”のことを言っているのか?)
伝承と聖句の中でしか語られず、誰もが実在を疑ってきた場所。
それを、まるで見てきたように口にする少女。
喉が詰まり、視線が自然とツィグナトへ向かう。
薄く笑んだ横顔に、言葉を失った。
(……駄目だ。聞いてはいけない。これ以上は、俺が踏み込んではいけない領分だ)
沈黙が張りつめていく。
息をするのさえ憚られるほどに。
フレイはその場に立ち尽くしたまま、ただ目を逸らした。
エリセは今も黒蛇をしっかりと握りしめたまま、ツィグナトとラゼルを見上げている。
ツィグナトはしばらく黙したまま、その様子を見つめ――やがて、目の奥に淡い光を灯らせて口にした。
「随分仲良くなったものだな」
「そりゃ見た目はコレで、障り心地もアレだけど!
それでも先生のペットだし、何回も助けてもらってるっぽいし、言葉がわかってるの?ってゆうくらいかしこいし、おとなしいから、さすがにこの子だけはちょっと…
すっごいちょっとだけだけどマシかなって思うようになってきた?」
「……ほう」
そのときだった。
ツィグナトの指の間で、白銀の長く艶やかな髪をした少女の輪郭がふっと揺らぐ。
白い光が滲み、空気がぽふっと弾けた。
次の瞬間、彼の掌にいたのは――小さく、滑らかな鱗を持つ白銀の蛇だった。
「せ、セラフィスちゃん……?」
エリセが目を見開く。
白蛇はゆるりと身をくねらせ、ツィグナトの手から地面へと滑り落ちる。
同時にエリセの手から黒蛇も地面へスルリと落ち、2匹はまるで対を成すように並んだ。
白と黒、絡み合うように描く軌跡――それは、封印術式のあの図案そのものだった。




