第6話 先生、景色よりスゴいの見ちゃったんですけど!?
「うそ……」
エリセはぴたりと立ち止まり、ぎゅっと口を結ぶ。
先生もまた、すぐ背後で足を止める。その無言の気配に、思わず振り返ると――
彼は、目を見張っていた。
あの先生が。
あのいつも無表情で、冷徹で、感情の起伏なんて一滴も漏らさない魔術師が――驚いたように、ほんの少しだけ瞳を見開いて。
それがどうしようもなく衝撃で、エリセはそれ以上言葉を出せなかった。
先生は静かに右手を上げ、エリセが持つ《灯》に触れて囁く。
「……照らせ」
ぽ、と灯が光をともす。
淡く、そして確かに、あたりを照らす魔力の明かり。
それまでほのかにヒカリゴケが照らしていた空間は、一変した。
壁も、天井も、白と水色が織りなす繊細なマーブル模様の大理石。
そこに《灯》の魔光がそっと放たれた瞬間、あたり一面が幻想的な淡青の世界へと姿を変える。
さざなみひとつ立たぬ、コバルトブルーの水面。
その澄んだ水面には、輝く天井と、寄り添うふたりの影が揺らめいていた。
エリセは、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。
ここ、本当に――さっき通った洞窟?
こんなにも美しかったのに、全然気づかなかった。
静寂が満ちる。水音さえ遠く、時間が止まったようだった。
先生が、水際へゆっくりと歩いていく。
その足取りは静かで、迷いがなくて、まるで――この神秘的な景色の一部であるかのようだった。
――いや、むしろ、景色の中心。すべてが彼の存在を引き立てるために設えられているようにすら見えた。
「水が増えたのは、地下水脈の膨張だろう。
天井の岩間に流入は見られんし、音の反響も変わらん。
今は――満潮かもしれんな」
低い声が、空間に染みるように響いた。
先生は天井を見上げ、
もう一度、水面に目を落とす。
「もし水位が下がってくるようなら、ここで待つ。
逆に、さらに増えるようなら……別の道を探した方がいい」
《灯》の魔光が、彼の横顔をそっと浮かび上がらせた。
瞬間、エリセは息を呑んだ。
光の中の彼は、見慣れたはずの人ではなかった。
彫刻のように整った輪郭。
煌めきを宿す瞳。
それだけで、この場所が夢のように思えた。
(……うそ、なにこれ、ちょっと、綺麗すぎない……?)
水色に包まれたその姿は、まるで――
「……人じゃ、ないみたい」
小さくつぶやいた言葉に、先生がゆっくりと振り返った。
エリセの目が、ばちっと合う。
一瞬、視線を逸らしそうになった。
だけど、逸らせなかった。
だって、先生が――ほんの、ほんの一瞬だけ、
「……すごい景色が見られたのは、お前のおかげだな」
かすかに、笑ったのだ。
それはきっと、ほんのわずかな揺らぎだった。
けれど、エリセの心には、雷みたいに響いた。
笑った。
この人が。
“先生”が――微笑んだ。
あたしに向かって。
その瞬間、景色のきらめきが、一気に霞んだ。
目の前に広がる幻想の空間さえ、背景にしか感じられない。
なに、この顔――。
なに、この美しさ。
なに、この、現実感のなさ。
冷徹で無言で、感情なんてとうに手放したみたいなその人が、今、笑った。
ただそれだけなのに。
まるで月が微笑んだみたい。
その横顔は冷たくもなく、温かすぎるわけでもなく――ただ、静かに、完璧だった。
肌は、触れれば砕けそうなほど繊細で――それは「肌」というより、何か別の質感。
瞳は深海の底に沈む星みたいで、見つめていると、自分の心が吸い込まれていく気がした。
まつげの長ささえ罪。
長いまつげが影を落とすたび、時間の流れが遅くなったように感じる。
頬にかかる髪すら計算され尽くした芸術作品みたいで。
動くたびに、空気の密度が変わる気がする。
羞花閉月、って言葉が、なぜか浮かんだ。
花が恥じらって、月が身を隠すくらいの美しさ、だっけ?
……わかる。これは、隠れたくなる。
だって、並んじゃいけない。
あたし、今、とんでもないもの見ちゃったかもしれない。
(……この人、本当に、“人間”なんだろうか)
気づけば、視線を逸らせなくなっていた。
胸の奥が、ぐらりと揺れてる。
感情が波立つ。
理由なんて、もうどうでもいい。
ただひたすらに、美しいと思った。
――ああ、もう、やめてよ、先生。
それ、ずるすぎるってば。
そのとき、先生がシアをさらっとなでて言う。
「……明かりは消すな。ここで少し様子を見る。」
そして何事もなかったように、岩に腰を下ろした。
エリセも、遅れてその場に座りこむ。
水面に映るふたりの影は、静かに揺れていた――。