第58話 映せぬ美、許されぬ筆
展示ホール第5区画。
陽光を受けた大理石の床は、磨かれた銀のように白く輝いている。展示品の準備はすでに整っていた。
その一角で、ツィグナトは魔術具の解析を進めていた。
空中に淡い光の糸が張り巡らされ、彼の指先に合わせて形を変えてゆく。幾何学めいた魔術陣が浮かび、星の瞬きのような火花が細やかに弾ける。その光景は冷厳で美しく、まるで星々が刻む天文の記録を目の前で繰り広げているかのようだった。
――遠巻きに、オルディアの技師や魔術師たちが固唾を飲んで見守る。
メモを取り、眉を寄せ、息を詰める。普段なら routine に過ぎない解析作業も、この場では緊張に満ちた儀式そのものに思えた。光の一筋一筋、指先の微細な動きまでもが視線を奪う。
「す、すごい……」
「何をどうしたらこんな解析になるんだ……」
小声が、静まり返ったホールに響いた。
「先生みっけ!」
張りつめた幻想の空気をやわらげるように、エリセの無邪気な声が響いた。
彼女はにやりと口角を上げ、ツィグナトの袖を引き一冊の雑誌を差し出す。
表紙には――《世界のイケメンランキング525年春号》。
瞬間、周囲の空気が凍りついた。
「ねえ、先生。ほら……見て」
一斉に視線が集まる。
厳粛な空気を中断させたその行為に、絶句する者、眉を顰める者、残念な子を見るようにため息をつく者まで。
「正気か……」
「よりによって今……」
ささやきが波紋のように広がった。
エリセが開いたページには――《世界のイケメンランキング・殿堂入り》。
そこに並ぶのは、微笑むツィグナトの顔。
ツィグナトはわずかに視線を落とし、そのページを見ただけだった。それだけで、紙面に印刷された笑顔など到底及ばない存在感が際立つ。
――と、その瞬間。
誌面のツィグナトが、現実との落差に耐えかねたように、濁ったインクとなって滲み出した。黒い滴が紙を伝い、ぽたぽたと床に落ちてゆく。ページは白く抜け落ち、床には小さなインク溜まりが残された。
「な、なんだ……魔力の浸食かっ?」
「インクを採取しろ、成分を調べるんだ!」
「君、その本貸してっ……!」
思わず誰かがエリセの手元から雑誌を奪おうと身を乗り出す。別の者は床に膝をつき、滴るインクに小瓶を差し出した。
静寂を破ったのは驚嘆と検証欲に駆られた声。誰もが息を呑み、しかし視線は凝視するだけでなく、既に観察と記録へと動き始めていた。
エリセは息を呑み、呆然と立ち尽くす。
床に残された黒い雫を見下ろし、小さく唇が震えた。
「はわ……あたしの、本……」
それは残念とも悔しさともつかぬ、子どもじみた呟きだった。
ツィグナトは一瞬、指の動きを止める。彼女の落胆に気づき、わずかに眉を寄せる。返す言葉を見つけられず、視線だけが宙をさまよった。
◇◇◆◇
――翌日、遠く離れた北国オルディア。
川面は厚い氷に閉ざされ、遠くの山並みは鉛色の雲に沈んでいた。
吐息は瞬きの間に白く凍り、石畳の路地を踏みしめるたびに足もとで雪がきしりと音を立てる。
白金の長い髪を揺らす幼い少女――セラフィスが小さな足を止め、周囲をきょろきょろ見渡す。
「むぅ……ここは、どこじゃ? む、あっちの気がする……」
視線は路地や建物に飛び、注意がまったく定まらない。小さな眉をひそめ、ふくれっ面を作る仕草も、自由奔放さがにじむ。
隣で黒髪の少年――ネクレオスはため息混じりに肩を竦め、指をさす。
「セラフィス、ここは北のオルディアやし、”サラ・ヴェルグラント”の現在地は反対方向や」
彼の声は穏やかだが、ちょっと呆れ混じり。目は彼女の行動を先読みしているかのようだ。
「な、なんでお主はついてくるのじゃ! 余はひとりで行けるゆえ、放っておくがよい!」
セラフィスは振り返り、手を振って抗議する。だがその視線はすぐに別のものに逸れ、あちこちの建物を観察し始める。
「いや、放っといたら絶対辿り着けへんやろ?」
ネクレオスは落ち着いた声で歩き出す。
小さな手で彼の袖をつかむセラフィス。指先が絡むたび、ネクレオスはちょっと困った顔をするが、すぐに手を放し、無言で道を示す。
「むぅ……あの建物の中にいる気がする……あ、でもこっちの建物かもしれん……」
セラフィスはひとつの道を選べず、足を止めてはあちこちを見渡す。
ネクレオスは少し眉をひそめ、口元に薄く笑みを浮かべる。
「おう、ごちゃごちゃ言うんは目的済ませてからや。お前の好奇心満たすんはその後や」
「……仕方あるまい、今回は案内してもらおうぞ……ありがとな」
セラフィスは小さく頭を下げる。強がりの裏に、素直な信頼がにじむ瞬間だ。
――通りすがる町人たちは、二人の凸凹コンビぶりに思わず足を止め、二度見する。
自由奔放な姫君のような少女と、冷静に付き合う小さな貴公子。
その落差と絶妙なバランスに、誰もが目を離せなかった。
――すれ違う町人たちは、幼い二人の姿と交わされる言葉に思わず振り返った。
愛らしい姫君のような少女が「余」と称して声を荒げ、隣の小さな貴公子が飄々と変な話し方でたしなめる。
容姿と口調のあまりの落差に、誰もが二度見しては「夢でも見ているのか」と首を傾げ、足を早めた。
サラ・ヴェルグラントは、午後のカフェテリアでペンを走らせていた。
磨かれた窓からは冬の光が差し込み、木のテーブルには紅茶の香りが漂う。
周囲には談笑する学生や研究者たちの声が混じり合い、氷に閉ざされた街路の冷気を忘れさせるような温かさがあった。
サラは旅先で拾った恋の物語を軽快に書き連ね、最後にひとつ文を締めくくると、満足げに小さく微笑んだ。
――そのとき。
「サラ・ヴェルグラント?」
背後から幼い声に名を呼ばれ、サラは驚いて振り向いた。
そこには、まるで物語から抜け出したような二人の姿があった。
白金の髪を流し、金の瞳を細める幼い少女――セラフィス。
幼いながらも悠遠な威厳をまとい、ただそこに立つだけで周囲のざわめきを凍らせる。
その傍らには、黒髪をふわりと揺らす少年――ネクレオス。
ぱっちりとした黒い瞳は人懐こげで、どこか小さな貴公子を思わせる気品を漂わせていた。
セラフィスは小さな唇を吊り上げる。
「理由は告げぬ。されど――汝が世に放ったあれは、余にとりて許しがたきものじゃ」
「え……?」
「ナトの美も、儚さも、気高さも――余らだけが知っておればよいことよ」
細い指先が宙をなぞると、赤黒い光が弧を描いて走った。
「この世に刻む文字は皆、汝を裏切らん」
光はサラの掌に沈み、灼けるような痛みにサラは思わず悲鳴をあげ、ペンを取り落とす。
掌に浮かび上がった、赤黒く脈打つ痣を目にした後、彼女の視界はぐにゃりと歪んだ。
――以後、ペンを取れば、文字は紙を這い出し、蛇となって足もとを埋め尽くす。
代筆を頼めば、今度は文字がばらばらに千切れ、蠢く黒光りの昆虫へと変わる。
呻き声、ざわめき、羽音。
インクの匂いに混じって漂うのは、悍ましい生臭さ。
「ひっ、いやぁあああ!」
サラは泣き叫びながらペンを放り投げた。
だが、掌に刻まれた痣は消えない。
赤黒く脈打つその印は、彼女の胸の奥底に一つの真実を囁き続ける。
『――余のものを世に放つな、と』
世界のイケメンランキング525年春号、サラ・ヴェルグラント……(第30話 世界のイケメンランキング525年春号~技術でも魔術でもなく、顔でした~)




