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第57話 《断罪の椿》イリディア・フォーンの祈り

――五百年と少し前のことだった。

教会の鐘が街に鳴り響くと、人々は祈りにひざまずき、魔術師たちは地下に身を潜めた。

当時の教義は揺るぎなく、教会は『魔術によって世界は穢れた』と宣言していた。

魔術師は神から切り離された不浄の民とされ、教会は世界を清める使命を帯びていた。

その力を具現するのが、宗教騎士団――武力をもって神の意志を執行する者たちである。

最前線で魔術師を狩る剣のひとりに、イリディア・フォーンの名はあった。

腰まで流れるカメリア色の髪は戦場で炎のように揺れ、《断罪の椿》と呼ばれた。

その剣はたしかに神に仕える刃であり、教会の意志を代弁するように鋭かった。

彼女はすでに剣聖の域にあり、敵を屠る姿は信仰そのものの化身だった。

だが、ただひとり。

イリディアは胸の奥で疑問を抱いていた。

――本当に魔術は“穢れ”なのか。

戦場で散った魔術師たちの眼には、神に祈る者と変わらぬ光が宿っていた。

それを打ち砕くたび、心のどこかがわずかに軋んだ。

そして、運命の日。

イリディアは隊を率い、一人の魔術師を討つべく赴く。

名は知らなかった。

黒髪に、黒いローブを羽織る男。

その魔術の才は、まるで伝説のように語られていた。


追手を次々と返り討ちにしてきた――

そう噂されるほどの存在だった。

完璧な包囲を敷き、策を張り巡らすイリディアだったが、彼の姿を目にした瞬間、その全てが無意味に思えた。

――あまりに美しかった。

血と煙にまみれた戦場に立つその男は、神殿の奥に置かれる像のごとく清澄だった。

髪は夜の闇を吸い込み、眼差しは深淵をたたえてなお澄みわたり、

纏う気配は戦士というより祭祀者のそれだった。

イリディアの罠は、彼が軽く手を(かざ)すだけで無に帰した。

剣を交えるたび、刃先から伝わる重圧に、空気さえ揺れる。

彼女は理解した――これは人ではない。

背後に広がるのは、神気。

それは神殿の祈りで感じたどの加護よりも濃密で、清らかで、荘厳だった。

(数百年を経た後に知ることになるが、腰の革袋には二柱の神――セラフィスとネクレオスの双蛇が潜み、

その神気が彼を“神に最も近しいもの”として映し出していたのだ。)

イリディアは剣を砕かれ、信仰を揺るがされ、地に倒れた。

血の味を感じながらも、心は震えていた。

――この方こそ、神意を映す存在。

――なぜ教会は彼を“穢れ”と呼ぶのか。

矛盾。

絶対に信じてきたものが、今まさに崩れていく。

けれど、その崩壊は恐怖ではなく、むしろ安らぎに近かった。

命が尽きゆく刹那、イリディアは祈った。

(どうか……あの人を見届けたい)

(魔術師でありながら、神を宿すその姿を。

どこへ行き、何を成すのかを――)

胸に去来する矛盾に、心は恐怖ではなく安らぎを覚えた。


信じ続けたものが崩れる刹那、

その祈りは死の際に星の理へと拾い上げられた。


《朱の剣星》



夜空に刻まれた新たな星座は、彼女の名を冠し輝いた。

それは「殺した相手をなお愛する」という矛盾の極みであり、

祈りの純粋さが証明した奇跡だった。

――だが、その魂は安らぎに至ることはなかった。

ラゼル・ネイム。

若きマイスターは、瀕死のイリディアの剣を拾い上げた。

『強烈な未練を持つ魂』

それは彼が求めていた、世界初の自立型魔術具の素材だった。

魂を剣のつかに縫いとめる術式は成功し、

イリディアは“魔術具”として蘇った。

それからの彼女は、忠実な護衛としてラゼルの傍らに立つ。

だが、その心の奥底には、ただ一つの矛盾が燃え続けた――

――ツィグナトを愛し、ツィグナトに殺され、なおツィグナトを離れられない。

ラゼルはその矛盾に微笑んだ。

「どうして殺した相手を愛せるんだろう?」

「その執着はどこまで続くんだろう?」

彼女は護衛であると同時に、ラゼルにとって最大の研究対象となった。

ツィグナトを愛する魂は、滑稽で、そして何よりも――美しかった。

その滑稽さと美しさの裏で、ラゼルの中に芽生えた好奇心は、

かつてのツィグナトへの強い執着や憧れさえも上回るほどだった。

科学者としての知的欲求だけが、無言のままイリディアを追い続ける。

その目は冷徹でありながら、観察者としての好奇心に満ちていた。

イリディア自身が抱える矛盾――愛と執着の狭間――を見定めることこそ、

ラゼルにとって何よりも面白く、価値ある試みだった。

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