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第56話 街角の午後、無傷の奇跡

展示会の準備から一日だけ解放され、エリセは宿舎近くの通りを歩いていた。

午後の光が石畳に落ち、行き交う人々の声がほどよいざわめきをつくる。

香辛料の匂いが鼻をくすぐり、ようやく緊張の糸を解いた彼女は小さく息をついた。

胸元の革袋をそっと撫でる。中には魔術具《理想収斂(りそうしゅうれん)(ともしび)》。

今も沈黙したまま、それでも彼女は毎晩のように磨き、ツィグナトの話を聞かせてやるのだった。

(……イリディアさんみたいに木っ端みじんにされたら困るから、シアはほどほどにね……)

苦笑しながら革袋を押さえ直した。その時だった。

道の向こうで、車輪のきしむ音と誰かの叫びが重なる。

荷車が横倒しになり、積み荷が転がって火花を散らす。次の瞬間、轟音とともに白煙が爆ぜた。

近くの人々が悲鳴を上げ、押し合うように逃げ惑う。

エリセは反射的に目をつぶった。身体に衝撃が走るはずだった。

……けれど、熱も、痛みも、なかった。

恐る恐る目を開ければ、すぐ傍らの石畳には煤の跡がくっきり残っているのに、自分の服も髪も無傷のまま。

まるで煙が彼女を避けて流れていったかのようだった。

「……《(シア)》が?」

呆然とつぶやき、革袋を胸に抱きしめる。

偶然か、あるいは沈黙したはずの魔術具がまだ自分を守ってくれているのか――彼女はそう信じ込んだ。

だが、庇護の正体を彼女は知らない。

理想収斂の《灯》を初期化されたあの日、ツィグナトがひそかに施した覆いが、今も絶えず彼女を包んでいることを。

群衆が散り、石畳の通りに静けさが戻る。

その陰から、金色の髪の青年が肩をすくめた。

「……ナトの庇護、えげつないな。

人って、なんでああも気づかないんだろ。鈍すぎない?」

呆れたようにつぶやいたラゼルの隣で、黒髪の少年が露骨に顔をしかめる。

「いや、なんでオレ連れ歩くん? 

買い食いくらい一人で行けや」

「お前の愛するご主人様が、僕の護衛をバラしたからだろ。

仕方ないじゃん」

「……あぁ、イリディアの嬢ちゃんか」

ネクレオスは鼻を鳴らし、睨みつける。

「今度組み立てる時は、もーちょいマシな性格にしたれや」

「いやぁ、それがさぁ――」

ラゼルは楽しげに目を細めた。

「何回作り直しても、ナトに過剰な恋慕を持っちゃうんだよ。

おかしいよね。自分を殺した男なのにさ」

軽やかな笑い声が石畳のざわめきに溶け、二人の姿もまた雑踏に紛れて消えていった。

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