第5話 ちょっと、先生!?いまのって助けてくれたんですよね!?
……そして、数刻後。
「先生、あれ、洞窟ですよね?」
歩き続けた先で、道の脇にぽっかりと口を開ける大きな岩の裂け目を見つけた。
中からは涼しい空気が流れてくる。
暑くなってきた体には、ちょっとしたご褒美みたいに心地よくて――
「たぶん……この手の場所って、ヒカリゴケが生えてるんじゃなかった?」
軽い気持ちで、そんな話題を投げてみた。
……うん、自然な会話。すごく普通!こういうのでいいの!
先生がちらりと振り向いた。
あたしは思わず、期待を込めてじっと見つめる。
(返事、出ろっ、出ろっ、出ろってば!)
返してくれた言葉は――
「……光を蓄える苔なら、地下に群生することがある」
(出た!やったっ、返事もらえた!)
あたしは、いわゆる“勝負に勝ったぜ☆”的な気分になって、ちょっとテンションが上がった。
単純なのよ、ゴメンなさいね――
「ですよね! あたし、明かりって《灯》しか持ってきてないんです。
使えないと不便だから……もしヒカリゴケあるなら、集めておきたいなーって!」
ちょっと期待を込めて笑いかけると、先生は洞窟の入り口に目をやって、
「……行くならひとりで行け」
そう言いながら、岩の平たいところに静かに腰を下ろす。
マントの裾が、地面をさらりと払った。
鞄から取り出した銀の器具を、火も使わずにぽん、と置く。
ふわりと湯気が立ち始める。
魔力式の小さな湯沸かし台だった。
ただ淡々と、手慣れた所作で茶の準備を始めていた。
それを見て、あたしは――
……うん?
OKってこと?
そっかー、これがこの人なりの、許可の出し方なんだ。
「はいっ、行ってきます!」
にこっと笑って手を振ると、先生は目を閉じたまま、静かに湯気の立つ茶器を見つめていた。
返事はなかったけど、それでもあたしは嬉しかった。
小さな袋を手に、軽い足取りで洞窟の中へと踏み込んだ。
*
洞窟の中は、静かで、ひんやりしていて。
壁にところどころ、青白い光が宿っていた。
目的のヒカリゴケだ。
掌でそっと撫でると、かすかにぬめりがあって、ほんのり温かい。
このときのあたしは、もしかしたら――
グレゴリー様の覚醒に浮かれてたのと、先生と少しずつ会話が増えてきたのがうれしくて、
ちょっと調子に乗ってたのかもしれない。
こんな得体の知れない土地で、気を抜いてたのかもしれない。
苔を拾い集めるうちに、気づけばどんどん奥へ奥へと進んでしまっていた。
不意に、風の流れが変わったことに気づく。
――風? いや、違う。
やばっ、ちょっと奥に来すぎたかも。
急いで引き返そうとした、その時だった。
足元に、天井に、ふわり、ふわり。
光だった。
小さな光が、浮かんでいる。
まるで、夜の星が降りてきたみたいに。
ゆらめき、旋回し、空間を舞っている。
それが数を増すたび、足音を殺して、あたしは奥へと引き寄せられた。
やがて、ぽっかりと開けた空間に出た。
そこは、幻想の底だった。
無数の光が宙を泳ぎ、天井や壁に生えた水晶が、光を反射してきらめいている。
水に濡れた石肌は鏡のように輝き、まるで数千、数万の星空のなかを歩いているみたい。
「……すごい……」
言葉がこぼれた、そのとき。
光のひとつが、あたしの頬をかすめた。
羽音。小さく、濁った振動。
ふと見ると、ヒカリゴケを詰めた布袋に、三つ、四つの光がまとわりついている。
「え……?」
ふわ、と袋が動いた。違う、這ったんだ。
無数の小さな、光のようなものが。
目を凝らすと、それは―― 虫だった。
透明な翅、淡い発光。
だがその顔は、細く、鋭く、蟻とも蜂とも違う、不気味な構造をしている。
《星蟲》……!
光に反応し、魔力を帯びた物質に群がる、幻想種の害虫。
それが、あたしの腰に吊るしたシアに群がり始めた。
「や、やばい、やばいって、これ…… 」
パニックになる。
走り出そうとした瞬間、背中が、チクッとした。
何かが触れた――その瞬間、足がもつれて、あたしは転んだ。
無数の光の群れがあたしの全身に降りかかる寸前、思わず叫んだ。
「ぎゃあああああっっっ!!」
悲鳴が響いた。
そのとき、音がすべて止まった。
空間に、重い沈黙が降りた。
光が揺れ、空気が圧縮される。
振り返ると、洞窟の入り口にいたはずの先生が立っていた。
冷たい目をして 、無言だった。
そのまま、先生は歩を進め、あたしの前で止まる。
右手をひと振り、空間にかざす。
「―― 虚無の鏡面」
ささやくような声とともに、空間がたわんだ。
右手の先に、水面に透明な膜を張ったような歪みが生まれる。
「焼却の圧力 ―― 」
続けてささやき、左手が宙をなぞる。
今度は、先生の左前方の地面が熱で波打ち、まばゆい赤光が立ち上がった。
空気が震えるような、熱。
なのに燃えない、まるで幻の炎のようだった 。
ふたつの魔術が一筋の空間を挟むように展開される。
《星蟲》の群れは、左右に広がる異質な気配に気づいたのだろう。
敏感な翅が反応し、本能的に“そこに近づいてはならない”と察知する。
そして――中央の、歪みも熱もない細い空間へと、数万の《星蟲》が一斉に飛び込んだ。
それは、あまりにも自然な誘導だった。
――そして群れの先端が、“そこ”へと飛び込んだ瞬間。
先生は、ただパチンと、静かに両手を打ち合わせた。
その一拍のあと。
左右に広がっていた魔力の壁が、ゆっくりと、正確に閉じ合わさった。
重なったのは空間そのものだった。
まるで世界の一部が、静かに畳まれてしまったかのように。
光はなかった。
音も、爆発もなかった。
でも――そこにいたはずのものが、すべて消えていた。
羽音も、きらめく翅も、無数の小さな命も、血も、肉片すらも。
なにも残っていなかった。
空間がそのまま、ごっそり削り取られたように。
あたしは目の前の光景を理解しようとするけれど、うまくいかない。
ただ、ぽっかりと空いた“何もない”場所が、そこにあった。
なにも、残っていなかった。
先生は、手を下ろす。
振り返り、あたしの方へ歩いてくる。
その歩調は、《星蟲》が現れる前とまったく変わらない。
「せ、先生……、
……いまの、なに……?」
がたがた震えながら、ようやく絞り出したあたしの声に、先生は答えない。
ただ、あたしのそばまで来て、無言でしゃがみこんだ。
手が差し出される。
その手を、あたしは思わず掴んだ。
そして、引き寄せられるように、立ち上がる。
「……あの。先生」
「なんだ?」
「……今のって、助けてくれたんですよね?」
先生は、少しだけ目を細めた。
でも、それ以上何も言わず、ただ、ゆっくりと来た道を戻り始めた。
あたしはその後ろを追いながら、まだ少し――
手のぬくもりを忘れられずにいた。
けれど。
あたしの足が、一瞬、止まった。
「――え、道、こんなだったっけ?」
来たときにはなかった水音が、どこからともなく聞こえてくる。
帰り道のはずなのに、足元がしっとり濡れていた。
進むほどに岩の隙間からじんわりと染み出す水が増えていき――
気づけば、視界の先には、鏡みたいに静かな水面が広がっていた。