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第47話 “にゅる”っと煤けた呪いで千年越しの大混乱

床に膝をつきつつも、膝の高さを生かして体勢を柔軟に変え、

攻撃と防御を巧みに織り交ぜるラゼルを横目で確認する。

エリセは、ついに訪れた自分のターンに、震える口を開いた。

(……よし、ここでちゃんと答えなきゃ。

でも、あたしを見て話しかけながら、ネイムさんへの攻撃の手は緩めていないって……

どれだけ器用なのよ、センセ!)

「こ……、ここ…こ、ここへ来た理由は……

たぶん、風の檻から繋がった脱出先の中で、ここが一番安全だったからだと思うの。

選んだのはネイムさんだけど、間違いないって思う。

あたしが見ても、不穏な景色ばっかりだったから。

だけど――思い違いだったみたいね……」

視線はちらりとツィグナトを捉えるが、すぐに逸らす。

言いたいことの半分も口に出せず、苛立ちとためらいが胸にひっかかる。

「……金色の雨が降ってた図書館の方がよかったかも」

小さな吐息に混ざったのは、ラゼルへの心の声であり、ツィグナトには届かぬ非難。

それでも、願いははっきりと口にする。

「まぁ――、何にしてもちょうどよかった!

あたし……先生に会いたかったの。

紅蓮の牙グレゴリー》様に刻んだ封印術式の――あの図案を変えてほしくて……」


「お願い……!!」

石造りの工房の奥まで声が響き渡り、まるで鐘の音が反響するかのようだった。

――その瞬間、

ラゼルの手袋の下から黒い靄のような悍ましい気配がじわりと染み出す。

「っ……!?」

ラゼルの顔から血の気が引き、目は虚ろに見開かれた。

同時に、エリセの周りで光の粒子がふわりと舞い上がる。

それは粉雪のように繊細で、小さな星の欠片が弾けるように煌めいた。

だが美しさの奥に、世界そのものがぞっとするような冷厳な力を孕んでいた。

工房の空気は一変し、重く沈む。

遠い過去から鐘のような声が蘇る。


――定命の声を、たったひとつ拾いあげ、星の摂理にて叶えるべし――

エリセは「えっ」と目を見開いた。

黒い靄は床を這うように広がり、光の粒と絡み合いながら渦を巻く。

エリセの体が恐怖に強張った。

足が地面に張り付いたように動かない。

(えっ……な、何これ!? 誰の声!? どこから!?)

――選べず、拒めず、猶予もならぬ。

その願い、成されるまで、“呪”は解けぬぞ――

言葉は、摂理そのものが響かせたものだった。

冷厳な宣告が、工房の空気に深く刻まれる。

エリセは、何が起きているのか理解できなかった。

けれど、その声がこの場にいる四人のものではなく、決して“人の喉から洩れる”声でもないことだけは直感でわかった。

それは畏れを超えた感覚――

まるで世界の根底に眠る真理が、直接胸の奥に囁きかけてきたようだった。

想像をはるかに超える現象に、ただ身を固くして立ち尽くす。

小さく息をのむ音さえ、冒涜のように思えてならなかった。

鼓動は高鳴り、耳にまで響き、胸を打ち震わせる。

まるで大気そのものが重く、聖域に足を踏み入れたかのように――世界がひととき、異なる相貌を見せていた。


ツィグナトは表情を変えず、セラフィスへ視線を向ける。

いつの間にか《双刃の輪(シグナスリング)》を手にしていた。

「コイツの煤けた片手を落とせば、なかったことになるか?」

ギョッと目を見開いたセラフィスは、壊れた人形のように左右に首を何度も振る。

無言で、必死に。

ツィグナトは深く面倒そうに溜息をつき、次にラゼルを横目で見ながら尋ねる。

「セラフィス、賭け不履行の対価は何だ?」

煤けた片手を握るラゼルは蒼白な顔を伏せ、呻くように呟いた。

「セラフィス、履行不能のペナルティ……、何だっけ……?」

首をさらに早く左右に振るセラフィス。

まるで歯車が外れかけた古びた機械人形のようだ。

『覚えてないな』

二人の男――ツィグナトとラゼルが同時に目を細め、セラフィスを睨む。

だが当然とも言えた。

何せ千年も昔の遊戯のルールだ。

――軽い賭けのはずだった。

まさか、こんなことになるとは。


ツィグナトが編む術式の紋様は、すべて彼自身の星図の一部を表している。

変更など誰にもできない――ツィグナト本人にさえ。

万が一にも歪められれば、星座そのものが堕ち、

名を刻まれた存在は世界から消滅するだろう。


ただ一人、場違いな声でエリセが呟いた。

「蛇、変えられないの?」

その小さな声が、人外魔境の館を支配する沈黙にひどく痛々しく響いた。

ツィグナトは淡々と、ひとつの扉を指差した。

「とにかく用がないなら帰れ。

……傷一つ付けず確実に送れ、セラフィス。」

それは叱責でも、同情でもなく――ただ切り分けの宣言だった。

自分の紋章が絡んでいようと、星の摂理に介入する気など毛頭ない。

あくまでペナルティを背負うのは賭けの敗者ラゼル一人。その線引きは、もはや決定事項のように揺らぎもしない。

しかし、思いがけず口から零れ落ちる。

「間違っても天空の図書館に立ち寄らせるな」

その声音には、本人すら気づかぬほど微かな揺れが混じっていた。

ただの命令にしては、どこか響きが引っかかる。

耳を澄ます者だけが察する――理由の見えない違和感。

「何で余が! ――」

と声を荒げかけたセラフィスは、己の立場を悟って言葉を飲み込む。

「先生!まだ話終わってない……!」

食い下がるエリセの声も、ツィグナトの耳にはただの雑音のように流れていった。

ラゼルは返事もせず、ただエリセの腕を掴んで、とぼとぼと歩き出す。

普段の陽気さの欠片もなく、背中にまとわりつくのは敗者の影。

彼が心の中で、諸悪の根源としてエンリルの名を何度も呪っていたのは言うまでもない。

(こんなことなら肋骨1本どころか、24本まとめてへし折っとくんだった……)


三人が去った後、工房に残されたのは、わずかに揺れる空気だけだった。

燃え盛る炎の熱も、氷の尖塔も、空を蠢いた闇の鎖も、すでに跡形もない。


ツィグナトは無言で棚に並んだ漆黒の砂時計のひとつを取り上げ、静かに上下を反転させる。

ザァーッ、と黒い霧が立ちこめ、数分後には荒れ果てた工房が、ラゼルらが足を踏み入れる前の混沌とした姿へと戻っていた。


やがて霧が晴れると、そこに広がるのは重く張りつめた静寂。

無駄のない空間に余計な声も動きもなく、ただ棚の上の工具や書物が、持ち主の理知そのものを映すように整然と並んでいた。

その沈黙の中、黒蛇の姿がにゅるるんと床を這って現れる。

「……あれ? もう帰してしもたんか。こんな場所まで偶然たどり着くやなんて、あの子、もっとるなぁ」

赤い舌をチロチロ見せながら、ネクレオスは小さな声で笑う。

工房の奥に残るツィグナトの庇護の気配を敏感に感じ取ったようだ。

誰も声を出さず、静かに息をひそめる世界で、ただひとつ、黒い瞳が好奇と感嘆で揺れている。




しかし、静寂は束の間だった。


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