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第46話  黒蝶貝の瞳に胸の奥がぎゅっとなる──恋? いいえ、反射です

久しく呼んでいなかった呼び名が、震える唇から零れ落ちる。

声はかすかで、ほとんど息の音に混じっていた。

艶やかな黒髪は短くスパイラルを刻み、光を受けて流れる絹糸のようにしなやかだった。

けれどそのしなやかさを打ち消すように、怜悧な眼差しがひとたび射抜けば、眩しさは痛みに変わった。

鼓動は速すぎて数えられず、体の奥からせり上がる熱が喉を塞ぎ、ただ震える呼吸だけが彼女の存在を辛うじてつなぎとめていた。

すると、白金の髪を揺らす小さな風のような魔力の波がエリセを包み込む。

セラフィスだ。

「慌てるでない……ここは星域――ナトの工房じゃ。

互いに本気の攻撃ではないわ」

「いや無理無理無理、あれ喰らったら普通に死ぬやつでしょ!

あたしの常識が崩れるんだけど!?」

エリセは再びラゼルに、そしてツィグナトへ視線を戻す。

「よく見てみよ。お前を連れ無断で工房に押し入った無礼をたしなめているだけじゃ」

床が鳴動する。


ラゼル=ネイムの足元の影から黒い鎖が伸び、蛇のようにラゼルの足元を絡め取ろうとする。

空中からゴウと音を立てて炎の槍が十数本、空間を裂く。

矢継ぎ早に放たれたそれらは、狙いを逸らすことなくラゼルの急所を射抜かんと迫る。

「っと――危ないな」

ラゼルは腰のケースから銀色の円環を弾き飛ばした。

それは瞬時に膨張し、展開された半透明の障壁が炎の槍を次々に受け流し、砕け散らせた。

「全然窘めてる 、なんてほのぼのした状況じゃ――!」 

叫んだ瞬間、ラゼルの周囲が白く霞み、微細な結晶が舞いはじめる。

まるで星屑が瞬くような美しい光景――だが、彼の髪や肩には氷が張り、手足まで凍りつつあるのが見えた。

天窓からは煌めく星々がラゼルを押し潰さんと降り注ぐ。


「ぎゃ……、やめて!

そんなの、普通に死ぬってば――!

センセ何してんの!

信じらんない、意味わかんない!

窘めるなら言葉にしよう!」

思わず声を張り上げたエリセの叫びに、ツィグナトは無言のまま、肩がかすかに動くだけだった。


「凍死は趣味じゃないんだ……」

凍りつく唇から無理やり軽口を吐きながら、かすかに息を乱す。

ラゼルは凍える体を軋ませて 、氷の膜が張り付いた魔術具を操作する。

固まりつつある体を無理やりねじり、空中から迫る流星群を弾き返す。

氷の膜をまとった手足がぎりぎりの防御を支えていた。


数瞬で攻撃は止み、空気は静寂に包まれる。

まるで計算尽くされた余裕のように。

不意に――冷たい黒蝶貝の瞳が一瞬だけエリセを捕らえた。


眩いほどに整った彼の顔立ちに、心臓が跳ねる。

呼吸は震え、手のひらに冷たい汗がにじむ――思わず体を硬くする。


しかしその直後、ツィグナトは再びラゼルに向けて魔法を放つ。

黒い鎖が魔術具を絡め取り、手元が暴れ、ラゼルの表情は硬直した。

必死に力を込めるが、鎖は無慈悲に食い込み、まるで獲物を逃がすまいと締め上げる蛇のようだ。

ラゼルの焦りが、エリセの目にもはっきりと映った。


「……ここは人に馴染まん。

 重い空気は、人の身を削り、心を蝕むと分かっていながら――」


ツィグナトの声は低く、冷たく、それでも一瞬だけエリセの方をかすめた。

それは責めではなく、理そのものを告げる響き。


「二度と連れて来る気など起こさんことだ」


鎖がきしみ、節を打つように蠢いた。

ラゼルの体をさらに締めつけ、骨のきしむ音すら紛れ込む。

「うわっ、まず……!」

ラゼルの唇がわずかに震える。


手元の魔術具が暴れるたび、鎖は生き物のように逆巻き、鞭打つ蛇の群れのごとく彼を絡め取っていった。

エリセは思わず一歩後ずさる。

血の奥がひゅっと引きつる感覚が走り、体が小刻みに震える。

息を吐くことも忘れ、目の前で繰り広げられる光景に心がざわめいた。

(見た……先生、今、あたしの方見たよね?)

どういうこと?

(なんで攻撃やめてくれないの?)

(あたし、忘れられてる?)

――心配と悔しさと、凄惨な攻撃への恐怖が喉を焼く。

(そりゃ、あたしは記憶に残るような美女じゃないけど!)

(先生みたいに、見るだけで息が止まりそうなほど整った顔立ちしてないし!)

(全身から滲む冷たく研ぎ澄まされた存在感もないし!)

(一度話したら忘れられない性格なんてしてないけど!)

「あんなとんでもない旅を一緒にして、まだ何日も経ってないのに!」

思わず声に出ていることにエリセは気づかない。

「ネイムさん……あの鎖、絶対痛い……!」

隣の少女は涼しい顔で彼らを見守っていた

そしてまた、彼女はラゼルが弾き飛ばしたツィグナトの魔力を音もなく消す。


エリセは自身の靴に手をかけ、ツィグナトを見据えた。

「!!!」

(ネイムさんゴメン!靴の一つでもぶっつけてやりたいのに、先生は眩しすぎて!)

怒りと戸惑い、焦燥とくやしさが入り混じり、胸の奥で何かが熱く膨れ上がる。


(ああ、どうしてあんなに不愛想で無慈悲なのに、

あたしの心が揺れるんだろう……!

まぶしすぎて、胸までぎゅっと痛い……手まで震えちゃう……)

それでも、視界の端にラゼルが巧みに防御と攻撃を織り交ぜている姿を見つけ、呼吸を整えようと胸に手を当てる。


(……そうだ、ここにいるのは知った二人だ。

 いつまでもひるんでたら、ネイムさんがボロ雑巾になっちゃう!)

エリセは胸に力を込め、心の奥で湧き上がる焦燥と恐怖をどうにか押さえつけながら、ラゼルの動きを追った。

少しずつ意識が現実へ戻り、視界が落ち着いてくる。

なんとか心を奮い起こし、文句のひとつでも言おうとした瞬間、

ツィグナトの低く冷たい声が工房中に凛と響いた。


「……なぜここに来た。答えるのはおまえだ、エリセ」

その声音は静かでありながら、工房の空気を容赦なく切り裂く刃のように鋭かった。

「この大気はおまえには過負荷だ。長く居れば確実に体を壊す」

冷徹な言葉の奥に、かすかな気遣いの色が混ざる――その微細さを、セラフィスは視線の端で感じ取った。

ラゼルもまた、唇をわずかに引き締め、普段のツィグナトなら決して言わない言葉のニュアンスに気づく。

二人はほとんど無意識のうちに、エリセに対するナトの、想像以上の庇護の気配を察した。

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