第45話 降り注ぐ星々の光と魔術の轟撃
魔術具保管庫の前では、異様な沈黙が落ちていた。
《エンリルの歯車》が軋むような音を響かせ、いくつもの細い光を纏い回っていた。
その中にエリセ・ノアリスとラゼル=ネイムの姿が飲み込まれ、次の瞬間には影も形もなくなっていた。
「――ラゼル=ネイム!」
誰かの叫びが、遅れて爆ぜるように広間を満たす。
押し寄せた光が収まり、ただ巨大な魔術具の中心に歪みの残滓だけが揺らめいていた。
目を凝らしても、人影はどこにもない。
ヴァレクシアの研究員が慌ただしく走り回る。
制御陣を調べる者、残留する魔力を測定する者、混乱のまま命令を叫ぶ者。
「……待て、消失か? それとも転送か?!」
「残滓の波長が安定していない、解析不能です!」
「技術班はどこだ、早く――!」
「それが、……オルディアの連中と言い争いをしていた時から姿が見えなくて……」
「なんだと? 早く探してこいっ!」
――残念なことに、ラゼル=ネイムが織りあげた歪曲空間の中に彼らがいることを、ここで知る者は一人もいなかった。
様々な声は飛び交うが、焦燥と責任を押し付け合う気配しか残らない。
そこへ、責任者格の声が響いた。
「全員、冷静に動け! これは――これは事故だ。まずは証言を記録しろ!」
だが空気は重い。
この場にいた全員が理解していた。事故では片づけられない、と。
星界回帰派の影。
隣国ヴァレクシアから持ち込まれた魔術具。
オルディアの監察官ヴィステ=ゼルハイム。
すべてが不穏に絡みついていた。
「……消えたのか? 二人とも?」
囁くように問う者に、誰も答えられなかった。
広間を満たすのは、焦燥と、罪を押し付け合うような視線。
やがて誰かが口にした。
「オルディアの監察官を連れてくるんだ……」
――その喧騒のただ中で、イリディア=フォーンだけは動揺を示さなかった。
瞳に誰の姿も映さず、まるで定められた手順を反復する機械のように。
剣を床に突き立てる。
刃が石床を貫いた瞬間、足元から光輪が広がっていった。
星々の刻印が連なるそれは、失われた彼が帰還するために必要な座標を示す回路。
――それは、彼女に組み込まれた行動規範。
不測の事態が発生した際、停止も妨害も許されず、必ず実行されるべきBCP。
――その頃。
星々の光が降り注ぐ工房では、別の戦いが幕を開けようとしていた。
◇◇◆◇
――ふと、柔らかな毛布の感触が肌を包んでいることにエリセは気づいた。
どこか遠い場所へ落ちていくような意識の底で、誰かに抱きかかえられ、ソファに横たえられた記憶がかすかに残っている。
かすかな香と温かな手のぬくもり。
耳元で、柔らかくも凛とした声が囁く――
「安心するがよい、忌々しき娘よ……お前を包む意思に免じ、余がお前の身を保証してやる。無論、命じられたゆえ、致し方なくじゃ! 」
その声は、甘く愛らしくも、どこか神々しい光を帯びていて、エリセの鼓動を静かに揺らした。
しかし、彼女にはその“意思”が誰のものか、ついぞ理解できなかった。
その部屋の真ん中には――
一つの天球儀と、みっつのカップが置かれた小さなワゴンがあった。
部屋の壁は二面が本で埋まり、もう一面は鈍く煌めく工具や魔術具で埋め尽くされ、最後の壁にはどこかへ続く扉がひとつだけあった。
床には書き散らされた羊皮紙やパピルス、削りかけの木材や錆びた金具が無秩序に散らばり、足の踏み場を探すのが難しいほどだ。
光源は、天井に穿たれた丸窓から降り注ぐ星々の光だった。
窓の向こうに広がるのはただの夜空ではない。
幾千の星辰が近く瞬き、まるで大地のすぐ上に天穹が垂れ込めているかのようだった。
その星明りはときに紙束を照らし、工具の刃に冷たいきらめきを与え、ときに散らかった羊皮紙の上に意味を持たぬはずの模様を描き出した。
さらに壁際には、小瓶に封じられた微小な星が並び、かすかな燐光を放っていた。
書物や道具が呼吸するかのように光は脈動し、部屋全体に神秘的な揺らぎを作り出す。
――その揺らぎの中、突然、轟く爆裂音が壁を震わせ、細かな紙片や羊皮紙が宙を舞った。
エリセは毛布を押しのけ、上体を起こす。
重たい頭を手で押さえた途端、真上を灼熱の火球が弾丸のように駆け抜け――
頭頂で髪先がチリリと焦げた。
鼻腔を刺す焦げ臭さに心臓が跳ね上がる。
「えっ……!?」
振り返れば、工房であったそこは戦場と化していた。
床を這う黒光りの鎖はうねりながら天井に絡みつき、天井からは鋭利な氷柱が降り注ぐ。
壁際では赤々とした炎の花弁が次々に咲き、散るたびに余熱が皮膚を焦がす。
空気そのものが振動し、魔力の余波が容赦なく部屋を押し広げる。
「な、なんで僕だけ……! ナト! 話せば――ぐっ、やめ……っ!」
ラゼルの悲鳴混じりの声は火花と爆音にかき消される。
対するツィグナトは無言。
冷ややかな眼差しで双極の魔法を重ねるその姿は、怒りではなく儀礼の厳粛さを帯び、星光に照らされた背後には裁きを司る神の影が重なって見える。
炎と氷、光と闇の鎖が彼の指先からほとばしり、複雑に絡み合いながらラゼルを呑み込もうと迫る。
轟きと閃光が交錯し、工房の空気そのものが裂けるようだった。
ラゼルは片手に握った魔術具を精密に展開し、瞬間ごとに対応する。
燃え盛る火線を切り裂き、氷刃を砕き、闇の鎖を逆に絡め取り、炸裂する光球を弾き飛ばす。
一歩でも誤れば焼かれ、凍り、絡め取られ、貫かれる――そんな猛攻を、彼は一歩も退かず受け流していた。
爆裂の余波が紙片を宙に舞わせ、床石をひび割らせても、彼の指先は盤面上を疾走し続ける。
まるで怒涛の魔術そのものを旋律に変えて奏でるかのように。
その額を汗が伝い、口端には皮肉めいた笑みさえ浮かんでいた。
――その時。
「……起きたか、――星々の下で暮らす者たちの世界の子よ」
耳元に、澄んだ声。
振り返れば、白金の髪に金の瞳を持つ幼い少女――セラフィスが立っていた。
彼女は片手を軽く振るだけで、すさまじい勢いで飛来した光球も炎槍も氷塊も、音もなく宙に溶かしていく。
その手で、小さな銀のカップを差し出しながら。
「余の祝福を受けた蜜と雪解け水じゃ。ここの空気は人の子には重い。飲めば少しは楽になろう」
かいがいしく世話を焼く姿は十歳の娘そのものなのに、その金の瞳には悠遠な威厳が宿っていた。
しかしエリセにはもてなされる余裕はない。
工房の中央ではラゼルが、連続して襲い掛かってくる火球、氷刃、光と闇の鎖を、まるで高精度の旋律を奏でるかのように次々と受け流していた。
彼は小さな魔術具を操り、炎や氷の軌跡を正確に切り裂いていく。
汗が額を伝い、唇には必死の皮肉が浮かんでいた。
「ネ……!」
名前を呼びかけたエリセは、唇を噛み、声を飲む。
不用意に声をかければ、ラゼルの集中を乱しかねない。
そして――攻撃を仕掛ける張本人の姿が、天井の丸窓から降り注ぐ星の光に浮かび上がった瞬間、エリセの肺から空気が抜け落ちた。
星の輝きに縁取られたその姿は、記憶に刻んだ面影よりもはるかに鮮やかで、目に映しただけで胸の奥を灼く。
「……せん、せい……!」




