第43話 銀環が裂く異界の扉
へたりと床に座り込み、肩を落としたラゼルは、青ざめた顔のまま、それでもどこか嬉しそうににやけていた。
「でもまあ……見事だよ、エリセ」
その言葉に、エリセの胸の奥では、さっきまで跳ね続けていた心臓が少しずつ落ち着きを取り戻す。
指先は赤く焼けていた。爛れたように。
「あぁ、指先、ちょっと貸してみ?」
不意にラゼルが彼女の手を取った。
優しい動きに、抗う間もなかった。
手の甲に軽くキスが落ちる。
――そして、ぱくり。
「へっ……な、なにす――」
ぱくり。
ぱくり。
ぱくり。
「えっ、う……うわっっ!? ちょっ、離してっ!」
咄嗟に身を引こうとするも遅かった。
ラゼルはエリセの両手、親指と人差し指を順番に咥えていく。
少し楽しそうに笑いながら。
ひやりとした感触が皮膚を這った。
そして指が解放されたその瞬間――
彼の笑みがふと静まり、真っ直ぐに彼女を見た。
「ありがとう……君がいてよかった。さすがに百年あの状態とか、ぞっとするしね?」
耳元で、熱を帯びた声がささやかれる。
ふざけてるのか本気なのか――よくわからない。
でも、どこか告白めいた響きがあった。
「よっ……よくわかんないけど! あたしは今、ゾワッてしたっ!!」
耳を押さえて跳ねるように距離をとろうとするも、ラゼルの手ががっしりと腕をつかむ。
大して離れられない。
「あはは、あんまり遠くに離れない方がいいよ」
ラゼルが、どこか悪戯っぽく笑う。
「ここは“風の障り”でつながった監禁空間だからさ。はぐれたら、戻ってこれないかも」
「“さわり”……って?」
「すっかり忘れてたけど、僕にはエンリルの“障り”があってさ」
ラゼルは視線を泳がせ、淡く輝く床をつま先でこつんと蹴る。
その足元に広がるのは、霧のように霞んだ幻想的な空間――どこまでも落ちていきそうな。
「……エンリルの魔力と、僕の術式が混ざると、こうやって風の檻に“ご招待”されるんだよね。君はたぶん……巻き込まれた」
ぶつぶつ文句を言いながらも、エリセはラゼルの腕を力づくで振りほどいたりはしなかった。
こんな空間ではぐれるのは、確かに怖い。
さっきまでの緊張もあって、体はすっかり重たかった。
そして、気づけば――
赤く焼けていた指先の痛みは、不思議と跡形もなく消えていた。
少しの沈黙のあと、ラゼルがぽつりと漏らす。
「……それにしても、よくあの数の細い神具を素手で処理したね」
ラゼルが感心したように言った。
「君、正規の術規研究員じゃないでしょ? うちの訓練生じゃ、あれは無理だなあ」
「前は、魔術具を調べるより遺跡に潜って探す方が好きだったの。だから嘱託止まり。でも、神具や古代魔術具にはよく触ってたから、それなりに慣れてるのよ」
エリセが唇を尖らせる。
「……でもね、制服は正規研究員の方が断然かっこよかったの。残念だったなあ」
ラゼルが小さく笑う。
「服なんて好きなの着たらいいじゃない?」
「制服は別格なの! ネイムさんは着ないなんてもったいないよね。高位魔術具開発局の深藍に白銀の装飾――すっごくかっこよくて、みんな目を奪われて、忘れられないんだから!」
エリセは目を輝かせ、両手を軽く握りしめ、じっとラゼルを見つめていた。
「僕のはちょっと配色が違うんだ。君の想像とは違うかも」
「えっ!? 何色!? 形も違うの!? うわ、気になるー! ルザリオにいる間に一度は見せてほしいな!」
声を弾ませ、思わず身を乗り出したエリセは、両手をモジモジさせながら、食い下がるように頼んだ。
「入れ込みすぎだよ。――君、まさか制服フェチ?」
ラゼルは微笑みながらも、エリセの小刻みに揺れる姿を見て、まるで宝物を見せてもらう子供のようだな、と感じていた。だが、どこか違和感も覚え…。
「まさか!そんな変な趣味じゃないってば!これはあくまで常識の範囲内の話だよ!」
エリセは即座に否定し、胸を張った。
「ただね……袖口から手首にかけての色の差とか、手首の骨の出っ張り、耳の後ろのくぼみに落ちる柔らかい影とか、そういう細かいところには当然目が行くでしょ?そうしたら制服の色って視覚的にかなり重要で……」
「いやいや、それ全部フェチのセリフだろ!」
ラゼルが割り込んだ。
「ちがう!違うってば!これは“観察力”が高いだけ!みんな普通に見てるところなんだから!」
エリセは焦って言い返す。
「観察力じゃなくて、間違いなくフェチの思考だよ、これ」
ラゼルはにやりと笑って一歩踏み込む。
「フェチじゃない!あくまで常識よ!ルザリオの女の子たちの間じゃ、制服との色合いの話は、熱心に語り合う“文化”の一部なんだから!」
ぷくっと頬を膨らませて、まるで子どもみたいに必死な表情。
「例えば赤い上着にオレンジ色のズボン合わせるのはないよね、ってくらい常識レベル!」
エリセは譲らず、真剣に訴えるように断言した。
「文化か……なるほど、それなら納得しよう。でも次からは“常識フェチ”って言うからな」
ラゼルが含み笑いを浮かべると、エリセは顔を両手で覆って違う違うと小さく繰り返している。
耳が段々真っ赤になっていくのを目にしたラゼルは、くすっと口元を緩め、少し目を細めてから、じっとエリセの顔を見つめた。
その視線は、からかいを含んだ、生暖かいものだった。ゆっくりと目を逸らしながら、微かな笑みが残った。
「――さてと」
ラゼルが急に立ち上がった。さっきまでのからかいモードが嘘のように、伸びをしながら軽く埃を払う。
「助けてもらったし、僕も少しはいいとこ見せなきゃね」
ふっと右手を振ると、ラゼルの手の中に一つの銀環が現れた。
金属のようでいて、表面はゆるやかに揺れている。角度を変えるたび、星雲のような粒子が滲んでは沈み、まるで夜空の一片を輪に閉じ込めたようだった。
「《歪曲工の環》。エンリルの歯車が歪めた空間にも干渉できる神器さ。どこに出るかは読めないけど――じっと待ってるよりマシでしょ」
環の中心が青白く脈打ち、ラゼルが指先でなぞると――空間が裂けた。
“ヒュゥン”という風音とともに、いくつもの歪んだ〈穴〉が開く。
それぞれの向こうには、まるで別の世界が広がっていた。
ある穴の先には赤黒く煙る戦場。
またある穴の先には異形の影がねばつく糸を引く地下迷宮。
黄金の雫が永遠に降り続く天空の図書館。
首だけの鐘が無音で揺れる灰色の旧王都の大聖堂。
凍てついた波が空へと打ちあがる裏返った海の浜辺。
天蓋のごとく木々の枝が絡み合い、下草さえ眠る原始の森。
夢の断片のような光景たち。どの空間も現実とはかけ離れていた。
「ん――、どれもいまいち……お?」
ラゼルが片眉を上げる。
その空間の向こうには、整然と並ぶ魔術棚と、不規則に浮かぶ幾何構造。
ちらりと見えた黒衣の人影が、何かを読みながら振り返る。
工房のような景色だった。
「わおっ、マジか!超ラッキー!!」
ラゼルの声が弾けると、彼は迷いなくその穴へ手を伸ばした。
同時に――エリセの腰をぐいと抱え上げる。
「なっ、ちょ、ちょっと!? ネイムさん、何――」
「ナト!引き上げてよッ!!」
空間の先、ちらりと映った影へ向けてラゼルが叫んだ。
その瞬間、彼の腕が宙を切り、風が爆ぜた。
視界が歪み、光が弾ける。
重力の感覚がどこかへ溶けていく気配を感じた次の刹那、エリセの身体がふわりと浮き上がった。
地面が離れ、風の渦が全身をなでると足元の感覚が消える。
「――ひ、ひゃああっっ!?」
クラリ、と世界が反転した。
目の前にあるのは、さっきまで確かにここになかった〈星界の断片〉。
銀細工のように静謐で、どこか懐かしい機械仕掛けの匂いが鼻をかすめる。
クラリと意識が遠のいていく耳元で、ラゼルの息の熱さだけを感じた。
「大丈夫、僕を信じて――あそこなら、まだマシだから」




