第42話 風の檻と救いの手
「……あの、ネイムさん?」
耳に残っていた声に、ラゼルは視線だけを動かした。淡い光の中、控えめに袖を引いていたのはエリセだった。
「――エリセ? 君も一緒に取り込まれたのかい?」
目を丸くしてラゼルを見る彼女の姿に、ラゼルはため息交じりに苦笑した。
「“孤に喘げ”って言っといて、こんなかわいい女の子を一緒に放り込むなんて……ね。神様も冗談が過ぎるな」
エリセは不安げにラゼルの全身を見つめた。
「ここって……どこなの? それと……それ、すっごく痛そうなんだけど」
ラゼルの身体には――くるぶし、膝、太腿、腹、胸、肘、肩、首筋に至るまで――淡い光を放つ、無数の“針”が突き立っていた。その数は三十を超える。
まるで風が瞬間的に結晶化したような、細く鋭い透明な針たちが。衣の上からだけでなく、肌に直接刺さっているものもある。
針はラゼルの肉体を床へと縫い留め、“ここから逃がさぬ”という意思を形にしていた。
「……まあ、説明すると長くなるけどさ――」
ラゼルは動かぬ首のまま苦笑する。
「ここは“風の檻”。風神エンリルが僕に用意してくれた、百年コースの監禁空間みたいなやつだね。――ああ、正確には、《エンリルの歯車》が自動展開する“保護空間”の一部、って思うけど。」
ラゼルは周囲を見回そうとして首が動かなかったことに、少し眉をひそめた。
「あっ、ごめん! そんな悠長なこと言ってる場合じゃなかったよね!
ちょっと引き抜いてみるから、死ぬほど痛かったら言って!」
エリセはラゼルの横に膝をつき、腕の一本に刺さった針にそっと指を伸ばした。
けれど――
彼女の手は、そこにあるはずの針をまるで風の幻のようにすり抜けた。
「……ダメ、触れない。これ、何かの魔術具なの?」
「うーん……魔術具っていうより神具だね。」
とんでもない状況のはずなのに、ラゼルは軽い調子で肩をすくめ――たかったが、肩も動かず、首も回らず、眉が少し寄った。
「……ねえ、ネイムさん。ほんとは、すっごく痛いんでしょ?」
エリセの声がふいに低くなった。目を伏せるようにしてラゼルの顔を覗き込む。
「さっきから顔色悪いし、指先も冷たいし……この針、抜く方法知ってたら教えて」
沈黙が落ちた。
針が風の中でキィンとわずかに震える音がする。
やがてラゼルは目を閉じ、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「……痛いに決まってるじゃん。バカだな、神具に触ると君だって――」
「わかった! こっちはダミーね、影に刺さってるのが本体」
ラゼルの言葉を遮るように、エリセが床にうっすら映る影をじっと見下ろす。
「ネイムさんと同じ箇所に……刺さってる。これって影ごと縫い止めてる?」
まるで影そのものを、極細の風の針で地面に縫い付けたようだった。
「……っ痛っ」
そっと指を伸ばし、影に刺さった一本に触れたエリセは反射的に手を引っ込めた。
じんわり赤くなっている。
(風神の神具なのに、熱いなんて――不思議)
それでも、手応えはあった。
すう、とひと息。呼吸を整え、
「……よし」
エリセは影に刺さった針に両手を添え、思いきり引き抜いた。
「っつ!」
顔をしかめるラゼルの横顔をチラリと確認。
(生きてる、大丈夫。問題なし。)
二本目、三本目、四本目――
「うわっ」
「ちょっ」
「痛っ」
「待って」
「お願いっ」
「休憩っ」
「ってば……っ」
小声で必死に抗議するラゼルを無視して、エリセは止まらなかった。
それは、ラゼルのためでも、使命感でもない。
ただ――針を掴む指先が痛すぎて。
止まったら、きっともう続けられなくなると思ったから。
迷う暇があるなら、痛みを越えてしまったほうがいい。
彼女は、ただそれだけで手を動かし続けた。
針を抜くたび、風が鳴いた。
――どこかで、くすくすと笑う女神の声が木霊した気がした。
胸、腹、腿、肩、首元。
三十を超える針を彼女は一気に抜ききった。
そして最後の一本を抜いた――そのときだった。
パァンッ!!
甲高い音が空間を切り裂く。
床に縫い止められていたラゼルの影がふっとほどけた。
逆流する風に部屋の空気が揺れ、同時に彼を貫いていたすべての針が一斉に弾け飛ぶ。
光の粒子となり、消えていった。
「おおぉ……助かったぁ……いてて、痺れた……エンリルの呪い、マジで性質わるぅ……」




