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第37話 嫉妬と骨とソファの上で

──時はまだ、《エンリルの歯車》が創られる遥か昔。

月が、世界のすべてを青白く染め上げる深夜のことだった。

風神エンリルが棲まう神殿は、星々が生まれる霧のような空域――《ネビュリス》にあった。

柱は天に伸びるように白く滑らかで、

床には誰の足音も残さない絹のような風が走る。

天井はなく、代わりに風そのものが渦を巻き、夜空と一体化していた。

天蓋のように揺れる帳、香のように漂う風。

全てが流動的で、全てが柔らかく、美しかった。

神域の中央、琥珀色の灯りに照らされた雲の形のソファの上。

そこには、女神と“彼”がいた。

「ツィグナト様……やっぱり、貴方は素敵」

エンリルの指先が、静かにツィグナトの鎖骨をなぞっていた。

ゆるく結われた銀の髪が、彼の胸元にかかるたび、さらさらと風の音を立てる。

空気の触れ方さえ官能的に思えるほど、その指の動きは繊細だった。

ツィグナトの上着は、片側だけ肩から滑り落ちている。

広くなった襟元から覗く素肌に、女神のしなやかな手が這い、

淡く光る肌をまるで秘宝でも扱うように撫でていく。

「風の神格、肌に触れてみて」

囁きながら、エンリルは上半身の衣を脱ぎ捨てた。

淡い光に浮かぶ肢体が、月の雫のように艶やかに輝く。

そのまま、風に身を預けるようにして――

女神は、ツィグナトの上にゆっくりと身を重ねる。

「……おとなしく酒も飲めないのか?」

低くくぐもった声。

けれどその響きには、怒りも驚きもない。

ただ、深く息を吐くような、あまりにも慣れた諦めがあった。

「……勝手にしろ」

声は冷えきっていた。だが、拒絶の響きはない。

身じろぎひとつしないその姿が、何よりの“許容”を示していた。

押し倒されたままのツィグナトは、反発も拒絶もせず、

ただエンリルの柔らかな髪を指先でよけた。

女神の体温が、風よりも確かに感じられる距離にあるのに、

彼の瞳はどこか遠く、まるで月の裏を見ているようだった。

そして、エンリルは気づいていない。

この男の“色気”とは、肌でも筋でもなく――

抗わず、拒まず、すべてを静かに受け流す、

その懐の深さこそが女神をも惑わせる源であることに。

「風が……気持ちいい夜ね」

エンリルが耳元に唇を寄せた、その瞬間だった。

しゅるり――

神殿の柱の陰から、風に紛れて何かが現れる。

音もなく近づいたその影は、静かに指を伸ばし、なんの前触れもなく――


「ずぼっ」


神域が揺れた。


神の女体が震えた。

「──はがぁっっ!?」

叫んだのは、上にいたエンリル。

何が起きたか分からず目を見開く女神の横には、

いつの間にか、肋骨を掲げる男が一人立っていた。

「えっ? ああ、ごめん。ちょうど良さそうな骨だったから」

涼しい顔で答えたのは、ラゼルネイムだった。

彼はエンリルから抜き取った肋骨をひょいと持ち上げ、

光に透かして感心したように頷いている。

「この骨、風の通りが完璧。ね? 守護結界にぴったりの素材だ。ありがと、神様」

「ありがと、じゃないっ!!」

呻きながら自らの胸を押さえて床を転げまわるエンリルの横で、

ラゼルはすでに別の作業に取りかかっていた。

──ツィグナトの服の、着せ直しである。

「ほんっと、どこ行ってもすぐ押し倒されてるじゃないですか……

 ……ナトって、断るって選択肢ないんですか?」

ツィグナトは微かに首を傾け、方眉をわずかに上げた。

「……騒ぐな。勝手に割り込むな」

感情のない声だった。責める調子も、咎める色もない。

それがかえって、

『……そこまで干渉される理由がどこにあるのか』

と首を傾げるようでもあった。

淡々と返しながら、ツィグナトはラゼルに身を預け続けていた。

外套を整えられ、シャツの前を留められ、首元を直されても、

抵抗することなく、ただその手際を見下ろしている。

無関心にも似たその態度は、まるで――

自分はただ、何かに巻き込まれているだけの存在だとでも言いたげだった。

「ちょっと皺になってるな……だめだめ、ナトがこんな格好じゃ、神格の威厳ががが」

ぶつぶつ文句を言いながらも、指の動きはどこまでも丁寧で、

懐から何か魔術具めいたアイテムを取り出しては、

「はいはい、襟元に風の痕、消しまーす。……はぁ、まったく、なんで毎回そうなるのかな、僕に説明してもらえます?」

などと呟いて、ツィグナトの首元に触れたエンリルの“痕跡”すら消去していた。

その顔はどこかむくれている。

だが手は止まらず、袖口を整え、腰のベルトを締め、

最終的に肩に外套をふわりとかけてやった頃には、

ツィグナトはいつもの“完全無欠な彼”に戻っていた。

「……ネクレオスにここにお前を近づけさせるな、と言ってあったんだがな」

「ネクレオスならセラフィスに制圧されてるよ。

あなたが誰かに押し倒されるのが我慢ならないってゆう点で彼女と僕は気が合うんだ」

「……やれやれ」

ラゼルはくすりと笑って、エンリルの転げまわる姿を見やりながら、

そっと骨を背中のポーチに滑り込ませる。

「って、ちょっ……!? なに!? なに勝手に持ってってんのよぉぉおおお!!」

エンリルが上半身裸で絶叫し、ツィグナトが軽く目を逸らす。

ラゼルはふっと笑い、肩をすくめた。

「ていうか──ナトに色目使うのやめてもらえます?

困ってたじゃないですか、この人真面目だから」

「待って!? そこ!?」

「ええ、そこです。あと、神なら神らしく布くらい着ててくださいよ。目のやり場に困るんですから」

「骨抜いたやつに言われたくないっ!!

そもそも、お前は目のやり場にも困ってなかろう!」

「いやぁ、ごめん。ナトの素肌見た後だと、どうしてもかすんじゃうよね」

ブチン、と音を立てて何かが切れた。

神域に神気が膨れ上がり、風神の呪詛がこだまする。

「その身に刻め、風の神罰──汝が奪いしは風の身、風の理、風の色香!」

「えっ? 色香は元から足りてないんじゃ──」

(キ――――――ッッ)

地団駄を踏むエンリルと、くるくる金属環を指で回すラゼル。

「ねじれろ、《等式》」

──だが、神の呪はすでに接触していた。

「我が風がそなたの術式に触れた時──

我が風の檻に、百年沈みて孤に喘ぐがよい」

「どんな呪いだよっ!?

ちょっ、なんか今“にゅる”って入ってきた!!」

次の瞬間、胸の奥にぞぶりと沈むような感触が走った。

それは内側から冷たく、粘ついた何かが染みこんでくるようだった。

風のない空間で衣が揺れ、術式回路の根がひとりでに軋んだ。

ラゼルの指先に、見覚えのない細紋が浮かび上がる。

式でも刻印でもない――誰かの“感情の痕”のようなもの。

「……これ、ぜったい後引くやつじゃん……」

くすくすと笑う女神は、風のざわめきを残して消えた。

呪いは完全に断ち切れず、術式の底に澱のように沈み込む。

まるで忘却を待つかのように。

「セラフィスより質悪いんちゃうか?」

いつの間にか、ツィグナトの傍らにはネクレオスとセラフィスが両手を前に押し出し立っていた。

《静謐なる領域》が展開され、呪いの余波は完全に遮断されている。

こうして──その夜、《エンリルの歯車》の設計が始まった。

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