第36話 エンリルの歯車
そんな騒ぎの渦中、展示室の片隅にある整備ブース で――
当の本人はといえば、飄々とした態度で再調整中の魔術具に手を伸ばしていた。
先日、ルザリオ騎士の不手際で破損した展示用魔術具――
その復元作業を、他の技術者たちと共に進めていたのだ。
展示室の一角。
金属製の作業台の上には、修復用の器具が散らばっている。
周囲には魔力解析用の装置が並び、淡く明滅するランプが、静かな緊張感を室内に染み込ませていた。だがその空間の中で、ラゼル=ネイムだけは別だ。
まるで無関係のように、軽やかに、そして正確に、指先を動かしていた。
薄い防音幕越しにも、空気の張り詰め方は伝わってくる。
ヴァレクシアとオルディアの技術者たちが通路で言い争う声には、もはや苛立ちと疲労が色濃く滲んでいた。
緊張――というには生ぬるい。
あれは、何かが一つ引き金になれば爆ぜてしまいそうな、火薬の山だった。
「いつまでやるんだよ、あいつら」
「本気で俺たちが《エンリルの歯車》盗んだって思ってんのか?」
「ずっと機密扱いにしてたんだろ? どんな魔術具だったんだろうね」
「それよりさ、あの人が来てるってさ。監査官のヴィステ=ゼルハイム」
「うっそ、展覧会当日に来る予定だったじゃん。早まったの!?」
「嫌味ったらしいんだよな、アイツ……ネイムさんを目の敵にしてるし」
「でもまあ、ネイムさんの暴走防止にはちょうどいいって思うが」
誰かが計器を乱暴に置いた音が響き、また誰かがそれをなだめる。
ざらついた空気が、場を覆っていた。
――ひゅるる、と細く長い風が吹き抜ける。
「ギィ……ギィィ……」と返すように、どこかで何かが軋む音がする。
ラゼルの手元の魔術具が、かすかに共鳴するように震えた。
――くだらない。
そう、ラゼルは思った。
だがその会話の中に、ひとつだけ聞き捨てならない単語が含まれていた。
盗まれた――。
《エンリルの歯車》。
ヴァレクシア南部の遺跡から出土し、同国が長年にわたり秘匿してきた“宝物”。
風神エンリルの名を冠するその魔術具には、古代の術式――
現代では解読不能な符式が埋め込まれている、らしい。
これはヴァレクシアの機密に等しかった。
だから他国――オルディアの人間が知れる情報など、たかが知れている。
――ひゅう、と風が通り抜けるたび、またどこかで「ギ……ギギィ……」と音がした。
周囲の誰にも聞こえていないのだろう。
だが、ラゼルには分かっていた。
(──あれは風神の骨を使ったから)
そこにあることが、彼にははっきりと分かったのだ。
飾っているだけなら知りようもないが、
これだけ近くで稼働していれば、魔力が乗った風と、
うるさいくらいに響く乾いた骨でできた歯車が軋む音――。
だが、それを悟られぬように。
ラゼルは、いつもの調子で言った。
「《エンリルの歯車》ってゆうのはさ、
風神エンリルの肋骨を素材にした……空間守護用の風属性魔術具だよ。
まぁ、創られた年代で言えば古代魔術具に分類されるけど、星界の遺産ってほどじゃない」
途端に、空気が凍りついた。
作業していたスタッフたちが、一斉に顔を上げる。
「……肋骨?」
「ネイムさん、それ……どこまで知ってるんですか……?」
動揺に満ちた声が、あちこちから漏れる。
「まさか、ヴァレクシアの保管庫を……隠れて見たんだな。お前、外交爆弾だもんな」
「機密情報じゃないのか、そーゆうのって……
いや、でも展示会に出すんだからもう機密でも何でもないか」
「結局、機密にするほどの技術じゃなかったってこと?」
「いや、欠陥品だったんじゃないか?」
誰かが眉をひそめ、誰かは目を逸らした。
ひときわ低い声が、ぽつりと落ちる。
「そんなことより、ネイムさん!!……さっきのってほんとの話、なんですか?」
ラゼルは答えなかった。
ただ、背後で歯車がきしむ音を聞きながら、肩をすくめるだけだった。
「お前はいつ、ヴァレクシアの機密に触れた?」
不意に響いた、低く硬い声。
展示室の出入口に 立っていたのは、誰よりも険しい顔の男――
ヴィステ=ゼルハイム。
オルディア監査官にして、ラゼルの“因縁”を背負う存在。
「……やはり、《エンリルの歯車》盗難事件の黒幕はお前か、ラゼル=ネイム」
「あのさあ……僕がそんな、手間のかかる真似をするような人間に見えるかい? 」
「余裕ぶっていられるのも、今のうちだ。ラゼル=ネイム」
やれやれ、とラゼルは肩をすくめる。
あくまでも自分は無関心――という態度を崩さず、だが、誰よりも核心を突く口調で。
「君は“監査”じゃなくて、“僕を犯人に仕立て上げ”に、わざわざ来たのかい?」
「……そんなわけないだろう」
ニヤリと笑ったヴィステが、口をつぐんだ。
──自分の仕事をこなせばいいのに、とラゼルは思う。
ヴィステがいれば、大抵の事態は穏便に収まる。
少なくとも、対外的には。
皮肉なものだ、とラゼルは思った。
十年前、ラゼルの論文一つでキャリアを潰されたはずの男。
その外交手腕を、他ならぬラゼルが今も最も高く買っている。
もっとも、その評価にどれほどの価値があるかなど、
ヴィステにしてみれば知ったことではないだろう。
どれほど認めていても、二人の関係が変わることはない。
むしろその評価こそが、ますます彼の怒りを逆撫でするだけだ。
「いいか、余計なことはするなよ。お前は展示品の監修だけしてればいい。……忘れたとは言わせない。お前の論文ひとつで、俺の十年が消えたんだ。何かあれば、容赦なく断罪する」
「今度は君が、僕の十年を灰にする番ってこと?」
にこりと笑うラゼル。
だがその瞳の奥では、《エンリルの歯車》の記憶が、静かに明滅していた。




