表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/81

第3話 黒い影と、紅玉の初火。極寒の背中にちょっと泣きそうなアタシ

濃い霧に包まれた静寂のなか――、

かすかに、唸り声のようなものが混じっていた。

 

湿った空気を這うような、ぐぐ、と重たい音。

獣の、息づかいにも似たそれが、じわじわと近づいてくる。

 

「風の音だ」

 

前を歩く“先生”は、振り返らずに答える。

声はいつもどおり、冷静でぶっきらぼうだった。

 

「気にするな。歩け」

 

……でも、気になる。

風の音って、こんなにどろどろしてる?

さっきまで、こんな音――してた?

 

「せんせ……」

 

ダメだ、また声をかけちゃった。

うるさいって思われたら、置いてかれる。

 

そんなの、いやだ。

 

胸がぎゅっとなって、エリセは黙って足を動かす。

一歩、また一歩。

緊張して足が、重い。

息が、しにくい。

でも、でも。

 

――びしゃっ。

 

変な感触。

水たまりでも踏んだような、ぬるっとした――

 

エリセは、ぎょっとして足元を見下ろした。

 

「……え?」

 

地面のあちこちから、黒い“水”がにじみ出している。

粘つくような黒い液体が、地の底から這い上がるように広がっていく。

 

その中心で、何かが――うごめいた。

 

「ギャッッ?」

 

一歩、後ずさる

だが、遅かった。

 

ぐず、と音を立てて――

黒い“それ”が、地面から這い出してきた。

 

ぬるりと現れたのは、まるで骨だけで形づくられた、異形の獣。

……いや、獣?

違う。

牙はないのに、代わりに無数の“手”が生えていた。

頭蓋に似た構造の中央に、ぎらりと光る穴。

――それは目じゃない。ただの空虚な穴。

なのに、視線のようなものが突き刺さる。

首筋の産毛が逆立ち、背中を冷たいものが這った。

 

「……!」

 

黒い影が跳躍する。

迫る“死”に、喉が凍りついた――けれど。

「……やれる。やれるんだから、あたしだって!」


声を震わせながら、右手首に巻いた腕輪型魔術具《紅蓮の牙》に意識を込めた。

少し魔力効率は悪いけれど、護身用の炎をまとった長槍を召喚できる――燻んだ金属に埋まった紅玉が、小さなチャームポイント。


左手の《ランプ》は、手汗で滑りそうになりながらも必死に握り直す。

(お願い、応えて……!)

胸の奥で、ふっと熱が芽吹いた気がした。

次の瞬間、紅玉がかすかに明滅する。

――行ける! そう思った、その瞬間。

「……っ!」

刹那、目の前で獣が牙をむいた。

ぞわりと全身を駆け上がる恐怖に、意識がぶれた。

魔力の流れが途切れ、紅玉の光はしぼむように消えた。

「なんで……っ!」

叫んだ声が、草原に空しく散った。

黒い影の爪がエリセめがけて振り下ろされる――。


そのときだった。

 

「動くな」

その一言で、世界が切り替わった。

びゅう、と風が巻き、耳の横を鋭くかすめる。

そして次の瞬間――スパンッッ

斜めに綺麗な線を描いて、獣の巨体が崩れ落ちる。

断面からは肉も血も出ず、泥のように溶けていった。

目の前を濃灰色の外套がすり抜け、彼はもう先へ歩き出している。

何が起きたかはわからない。ただ――息を呑むしかなかった。

気づけば、先生の指先で、淡く輝く二重の輪――《銀環》がゆるやかに回転していた。

大小ふたつの環が、ぴたりと重なりながら、逆方向に滑るように回っている。


それは銀でもなく、光でもない。

ひどく無機質で――なのに、目を逸らせない、不思議な質感。

空間がわずかに揺れ、その回転の軌跡に沿って、空気の色が微かに変わっていく。

まるで、見えない何かがそこに線を描いたかのようだった。

やがて輪は、ふっと銀の光をまといながら収束し、先生の指に巻きつくようにして静止する。


ほんの一瞬――

それだけで、すべては終わっていた。

(魔術具……? )


……こんな魔術具、見たことない。

起動速度も、破壊力も、桁違い……。

ううん、でも――どこかの本で見たような……あのフォルム、なんだったっけ?


地面に落ちた黒い液体が、じゅ、と音を立てて消えていく。

エリセは、構えた腕をゆっくりと下ろした。


ただ呆然と、その背中を見つめる。

目の前にいるのに、――ずっと遠い、 

得体のしれない存在のようで……。


 

「……人喰いの記録体だ」

それだけで十分、と言わんばかりに先生は短く切った。

「生き物じゃない。死者の記憶が化けただけだ」

(記録体? 最期の記憶? そんなの、どうして――)

エリセの頭は、すぐには追いつかなかった。


先生の声が静かに響く。

 

「こういう場所では、死んだ奴の思念が化ける。

足元には気をつけろと言っただろう」

 

「そんなこと言われても、あたし……!」

 

震える声が、怒りと情けなさで滲んだ。

 

「……怖いもんは、怖いじゃない……!」

 

膝が、笑っていた。

左手で握りしめた《ランプ》は、いつものように光ることも、揺れることもなかった。

頼れるはずの温もりはなく、ただ冷たいガラス玉のように、重く沈黙しているだけ。

あれほど心を支えてくれた存在なのに――今は、何ひとつ返してくれない。

さっき見た“影”の残像が、まぶたの裏にこびりついて離れない。

エリセは、思わず《ランプ》を顔の前に持ち上げる。


「ねえ……シアが好きなのって、ほんとにこの人?」

一瞬、光が揺れた気がした――でも、錯覚だった。


かすかに震えながら、《ランプ》を左右に揺らす。

「強さとか、冷たいのが好きだったの?

たしかに頼りにはなるけど――極寒だよ?

容赦ないし、共感力ゼロだし……。」

声が震えて、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。

小さく、唇が震える。

「そんな人の背中ばっかり見てれば満足なの?

この人さえいれば、他は全部いらないってわけ……?」

涙がにじむ。

でも、まだ叫びたい。伝えたい。

ランプ》を握りしめた手が、わずかに震えて揺れる。

返事はない。

《灯》は、ただ黙ったまま、冷たく手の中に沈んでいた。

「……」

先生は近づく。

エリセの肩に手を置いて、目線を合わせないまま、ぼそりと呟いた。

「立て」

 

「……でも、また来たら……」

 

「来る前に、殺す」

あまりにも当然のように言ってのけるので、エリセは口をぱくぱくさせた。

怖いのに、なんかずるいくらい安心する。

「……いや、もうちょっと言い方あったでしょ!? “守ってやる”とか”大丈夫だ”とか安心ワード !」

 

「事実だ。

動け。立ち止まるほど、敵は増える 」

「うわー!こわっ !! そういうとこだよ、先生っ!」

 

彼はいつものようにくるりと背を向ける。

それを見て、エリセはちょっとだけ笑ってしまった。


(納得なんてできないのに、不思議と息がしやすくなった気がした。

「……なんなの、もう」

「………」

先生はそれ以上、何も言わない。

その背中を、黙って追いかける。

一歩ずつ。膝の震えをだましながら。

まだ怖い。

でも……

ほんの少しだけ、あたしの足は前に出せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ