第3話 そんな音、聞きたくなかったのに──何よりも先生が想定外。
「……なんか、音、しない?」
草がざわめくのとは違う、何かが這うような――そんな音が。
エリセは足を止め、耳を澄ませる。
濃い霧に包まれた忘却の庭。
その静寂のなかに――
かすかに、唸り声のようなものが混じっていた。
湿った空気を這うような、ぐぐ、と重たい音。
獣の、息づかいにも似たそれが、じわじわと近づいてくる。
「風の音だ」
前を歩く“先生”は、振り返らずに答える。
声はいつもどおり、冷静でぶっきらぼうだった。
「気にするな。歩け」
……でも、気になる。
風の音って、こんなにどろどろしてる?
さっきまで、こんな音――してた?
「せんせ……」
ダメだ、また声をかけちゃった。
何度も話しかけたら、うるさいって思われる。
うっとおしいって、思われる。
――そしたらきっと、置いてかれる。
そんなの、いやだ。
胸がぎゅっとなって、エリセは黙って足を動かす。
一歩、また一歩。
緊張して足が、重い。
息が、しにくい。
でも、でも。
――びしゃっ。
変な感触。
水たまりでも踏んだような、ぬるっとした――
エリセは、ぎょっとして足元を見下ろした。
「……え?」
地面のあちこちから、黒い“水”がにじみ出している。
粘つくような黒い液体が、地の底から這い上がるように広がっていく。
その中心で、何かが――うごめいた。
「ギャッッ?」
一歩、後ずさる。
だが、遅かった。
ぐず、と音を立てて――
黒い“それ”が、地面から這い出してきた。
ぬるりと現れたのは、まるで骨だけで形づくられた、異形の獣。
……いや、獣?
違う。
牙はないのに、代わりに無数の“手”が生えていた。
頭蓋に似た構造の中央に、ぎらりと光る穴。
――それは、目じゃない。穴だ。空虚な、ただの穴。
それなのに、見られている。ぞっとするほど、確かに。
「……!」
息をのむ間もなく、黒い影が地面を蹴って跳ね上がった。
瞬間、身体が勝手に動いた。
エリセは腕を振る。
燻んだ金属の輪に埋め込まれた紅玉が、きらりと光を放つ。
――火属性の攻撃魔術具《紅蓮の牙》が、唸る。
炎をまとった長槍が、赤い魔法陣の中心からせり上がるように召喚される。
空気が一気に熱を帯びる。
「はっ、はっ……っ!」
短く何度も息を吐く。
喉が、焼けつくように痛む。
いつも、そうだった。
隣にいた誰かの背中を、追いかけて――
旅もしたし、戦場に立ったことだってあった。
「やれる……!」
震える声と同時に、右手を突き出す。
魔法陣が展開する――けれど、遅い。
黒い影の跳躍のほうが早い。
息を呑む暇もなく、死が迫る。
(こわい。こわい、けど……っ)
(お願い……せめて、一発だけでも当たれば状況が変わる)
――焼け。突け。吹き飛ばせ。
「っ、く――!」
魔力が走る。
けれど、獣の跳躍のほうが早い。
黒い影が、口を裂いてエリセめがけて迫る。
そのときだった。
「動くな」
声が、真横で囁いた。
「えっ――」
その一瞬、世界が切り替わった。
びゅう、と風が巻いた。
空気を切り裂くような鋭い音が、耳をかすめる。
次の瞬間――
スパンッッ
獣の巨体が、綺麗な斜め線を描いて崩れ落ちる。
断面からは血も肉も出ず、ただ泥のように溶けていった。
あっけにとられるエリセの目の前を、黒い外套がすり抜けていく。
彼はすでにその先へと歩き出していた。
「……あ」
何が起きたのか、正確にはわからなかった。
ただ、息を呑むことしかできなかった。
気づけば、先生の指先で、淡く輝く二重の輪――《銀環》がゆるやかに回転していた。
大小ふたつの環が、ぴたりと重なりながら、逆方向に滑るように回っている。
それは銀でもなく、光でもない。
ひどく無機質で――なのに、目を逸らせない、不思議な質感。
空間がわずかに揺れ、その回転の軌跡に沿って、空気の色が微かに変わっていく。
まるで、見えない何かがそこに線を描いたかのようだった。
やがて輪は、ふっと銀の光をまといながら収束し、先生の指に巻きつくようにして静止する。
ほんの一瞬――
それだけで、すべては終わっていた。
(魔術具……? )
……こんな魔術具、見たことない。
起動速度も、破壊力も、桁違い……。
ううん、でも――どこかの本で見たような……あのフォルム、なんだったっけ?
地面に落ちた黒い液体が、じゅ、と音を立てて消えていく。
エリセは、構えた腕をゆっくりと下ろした。
ただ呆然と、その背中を見つめる。
目の前にいるのに、――ずっと遠い、
得体のしれない存在のようで……。
「……人喰いの記録体だ。生き物じゃない。
誰かの“最期の記憶”が魔獣化したものだ」
先生の声が静かに響く。
「こういう場所では、死んだ奴の思念が化ける。
足元には気をつけろと言っただろう」
「そんなこと言われても、あたし……!」
震える声が、怒りと情けなさで滲んだ。
「……怖いもんは、怖いじゃない……!」
膝が、笑っていた。
左手で握りしめた《灯》は、
光ることも、揺れることも、歌うこともなかった。
さっき見た“影”の残像が、まぶたの裏にこびりついて離れない。
そっと、《灯》を顔の前に持ち上げる。
「ねえ……シアが好きなのって、ほんとにこの人?」
かすかに震えながら、《灯》を左右に揺らす。
「強さとか、冷たさとか、そういうのが……本当に“好き”なの?
あたしのことなんか、もう、どうでもいいの?」
返事はない。
「ねえ……戻ってきてよ、お願いだから……」
それでも《灯》は、黙ったままだった。
「……」
先生は近づく。
エリセの肩に手を置いて、目線を合わせないまま、ぼそりと呟いた。
「立て」
「……でも、また来たら……」
「来る前に、殺す」
(……この人に、 “怖い”とか“助けたい”とか、そんな感情はたぶんない )
あまりにも当然のように言ってのけるので、エリセはぽかんとしてしまう。
「……そんな、あっさり……」
「事実だ。
動け。立ち止まるほど、敵は増える 」
その瞳に、迷いはなかった。
ただの冷酷じゃない。どこまでも徹底している。
「想定外など存在しない。俺がいる以上な 」
くす、と口元が動いた。
それが冗談なのか本気なのか、まったくわからない。
でも、なぜだか――少しだけ、胸の奥がゆるんだ。
納得なんてできないのに、ほんの少し、息がしやすくなった気がした。
「……なんなの、もう」
「………」
先生はそれ以上、何も言わず、くるりと背を向けて歩き出した。
その背中を、黙って追いかける。
一歩ずつ。膝の震えをだましながら。
まだ怖い。
でも……
ほんの少しだけ、あたしの足は前に出せた。