第21話 蹂躙は続くよどこまでも
――今、エリセは深刻に困っていた。
……《灯》が、ない。
あの命がけの奔流にもまれて、腰に結びつけていたロープが外れてしまったらしい。
心臓が早鐘のように打ち、手のひらには冷たい汗が滲んでいた。
頼みの綱の魔術具を失くした。
ど素人の少女の末路とは――。
(いや、縁起でもない。やめよう、そういうの)
「先生は、探すの手伝ってくれるかな……」
所有者が未熟だからって容赦なく回収しようとするんだから、自分が作った魔術具にはそれなりに愛着があるはず。
でももし壊れてたら……?
…………………。
あの人、無言でスルーしそうだな。
――そんなぐるぐる思考を巡らせながら、ふと目に入ったのは、岩肌がむき出しの斜面。
「あれ……ここ、登りやすそう?」
岩が削れたばかりのような跡。
対岸だけが崩れたと思っていたが、こちら側も爆風の余波で地形が変わっていたらしい。
――もしかして、ここから登れるかも。
なら、行くしかない。
先生に合流して、《灯》を探させ――いや、お願いして、一緒に探そう。
エリセは遠くを見ないようにして、視線を低く落とす。
一歩、一歩。
崖に爪を立てるように、慎重に登り始めた。
◆◇◆
一方その頃、エリセが登りはじめた崖の対岸側では――
ひとりの男が、静まり返った谷に立っていた。
彼の周囲では、破壊の余韻がなお空気を焼いている。
足元には、深く口を開けた亀裂。
まるで谷が呻いた傷跡のようだった。
無言のまま、《理想収斂の灯》をひと振り掲げる。
そして、そのまま底知れぬ亀裂へと、音もなく降りていった。
この谷には、明らかに“仕掛け”がある――男は確信していた。
不自然なほど澄みきった魔力、常軌を逸した生物や植生、
どれもこれも、偶然ではない。
しばらく進むと、岩の裂け目は明らかに人工物の中へと変わっていく。
荒削りな岩肌には、動物を模した装飾が彫られていた。
牛、鹿、猿、狐、鳥――
そして最後に、ひときわ大きな『蛇』。
(……なるほど、神の化身とされる生き物たちか)
男は眉一つ動かさず、静かに考える。
この谷に満ちていた、異様なほど澄んだ魔力の正体。
随分と覚えがある魔力だった。
「……あいつの残滓を勝手に回路に組み込み流用している、ということか」
さもなくば、たかが賢者ごときに
これほど魔力が潤沢な境界の地を築くことは不可能だっただろう。
淡々と呟いたその時、足元が突如として崩れはじめた。
「おっと」
何の前触れもない古典的な罠。
その場から数歩、無駄なく下がる。
「……面倒 だな」
男はため息交じりに呟いた。
「さっさと、終うか」
右手を、まるで塵を払うようにわずかに振る。
その指先から、ひと筋の閃光が迸った。
「――《星輪崩壊》」
空間が震える。
その瞬間、天井から床まで、世界の構造そのものが裁断され始めた。
無数の《双刃の輪》が空中に浮かび、呼吸の合間ほどの一瞬で分裂する。
まるで天体の運行のような完璧な軌道で、回転し、交差し、軋みながら走る。
天井が、
壁が、
床が、
空間が、
歴史が、
すべてが沈黙のうちに、断ち割られていく――。
ザンッ!
ドンッ!!
ドゴッ、ドカドカドカ――ッ!!!
音は遅れてやってきた。
崩れゆく構造物は、まるで神殿が自ら命を絶ったかのような静けさを保ち、
最期に悲鳴のような轟音を残して、崩壊した。
ただし、男の立っていた一点だけを除いて。
そこには、塵一つ落ちず、裂け目すら届かない静謐な円環が残されていた。
――と、そのとき。
瓦礫の余波の中に、ふと流れ出した気配があった。
誰の足も踏み入れたことのない深い森を思わせる、
澄んだ風。
それが、まるで幻だったかのように霧散した。
男はわずかに目を細める。
「……偽装か」
天井も、壁も、床も。
ほんの少し前まで清らかな空間を装っていたその構造は、
今やただの石くれにすぎなかった。
妖精の目には楽園に見えていたその空間は――
完全に、消えていた。
「……妖精の檻、ねぇ」
男は淡々と呟き、足元の瓦礫をつま先で崩す。
その中には、術式の刻まれた石片が散らばっていた。
捕らえられた妖精が、気づかぬうちに魔力を搾り取られる。
それは、古くから伝わる陳腐な構文――
だが、この術式に囚われていたものは、ただの妖精ではなかった。
そして、崩壊の中心――
空間が焼け、岩が砕け、構造が塵へと還るただ中で、
“それ”が、声を放つ。
「……い、いたたたたっ……っ!!」
軽薄な呻き声がこだまし、
続いて、荘厳な威厳が空気を貫いた。
「――無礼なることよ」
それは声ではない。
雷鳴のように重く、地鳴りのように深く、時の奔流そのものが言葉を紡いでいた。
「ここは余が眠る聖域」
空気が震える。
魔力がその場に凝結し、霊的な重力が場を圧する。
「踏み入りし者よ。汝が魂、千年の闇に彷徨わんことを」
それは祝詞ではなかった。
魂を狙う“呪詛”――この地を穢す者に下される、神域の審判。
逃れる術も抗う力もなく、ただ沈むほかない。
言葉が発された瞬間、周囲の時が、ひと息に凍結した。
霊的な波動が奔り、男の周囲に黒い影が滲んだ。
空間に穿たれた見えない奈落。
魂を引きずり込もうとする“闇”が、確かに応じていた。
**この世界に属さぬ“格”**の何か。
ただそこにいるだけで、周囲の理が、重力が、時が、次々と膝を折る。
熱が消え、風が止まり、音が凍る。
焼け焦げた闇を裂いて、砂塵の向こうに“それ”が姿を現した。
まず、眼だった。
黄金にして、神々の焰。
覗き込んだだけで魂が焼かれるような、絶対の光。
その視線が注がれた瞬間、
空間が膝を屈した。
大気が沈黙し、法則が震え、重力さえ不穏に軋んだ。
神域の気配――などという言葉では足りない。
これは、神の“化身”ではない。
神そのものが、目を覚ました瞬間だった。
次の刹那。
男の足元に蠢いていた黒い呪詛が、
まるで見えない手で払いのけられたかのように、風もなく、音もなく、弾けて霧散した。
黒煙のような影が逆流し、まばたきの間に掻き消える。
破滅の波動だったはずのそれが、“主の前で跪くように”、沈黙して消えた。
神の金瞳が男に注がれたまま動かない。
男は、わずかに眉をひそめた。
「……本体かよ」
そして、何事もなかったかのように呟いた。
「――聖光の煌めき”セラフィス”、ここで何をしていた」
まるで、コンビニにでも寄るような気軽さで神域に足を踏み入れた。
――そしてその頃、同じ谷の、遠く崖を挟んだ向こう側では。
命がけで崖をよじ登る、一人の少女がいた。




