第20話 わたしを、許す夜
谷の底は、星の光さえ届かない完全な闇だった。
息を呑むような静寂が広がっている。
世界から色も音も奪い去られたようで、空も、時間の流れさえも、そこには存在しないかのようだった。
だが――。
足元、湿った土の中に、わずかに光るものがある。
「……あ……」
目が慣れてくるにつれて、ようやくそれが“見えた”と気づいた。
足元の地面に、ところどころ、小さな透き通った石が点在している。
うっすらと輝き、藍と銀のあいだをゆらゆらと揺れる光が、石の奥に宿っていた。
「……魔力感知石」
エリセは、つぶやくように言葉を漏らした。
「崖にも、これがあったかも……だからあの時――」
思い出す。
谷底から突如吹き上がった《風の刃》。
それはきっと、これらの石がグレゴリー様の魔力を察知したせいだったのだ。
そう納得するように、エリセはもう一度小さくうなずいた。
その声は、ほとんど自分自身に言い聞かせるような響きだった。
隣でロープを巻き直していた先生は、顔を上げることはなかった。
黙々と、確かな手つきで手元の作業を続けている。
泥で汚れた靴。
膝の裏にはまだ震えが残っている。
さっきまで先生にしがみついて、泣きそうになっていた自分の姿を思い出して、思わず唇を噛む。
「……ご、ごめんなさい……もう、歩ける……」
自分に言い聞かせるような、情けない声だった。
それでも、まるで気にする様子もなく――
先生は、恐るべき言葉を吐いた。
「いや、降下に時間をとりすぎた。ここからは走るぞ」
「――っえ!?」
思わず声が裏返ったが、返事はなかった。
先生はもう走り出していた。
最初は軽いジョギングのようだったはずだ。
けれどそれは、ほんの数歩だけ。
すぐに、速度を上げていく。
(ちょ、待って、ちょっと待って!?)
エリセも慌てて駆け出す。
だが足元はぬかるんだ砂利。
まともに踏み込めば滑り、跳べば沈む。
その不安定な地面を、先生は音もなく駆け抜けていく。
まるで、地面の不安定さすら計算に入れているような、無駄のない動きだった。
(無理、無理、速すぎる! 足元見えないよーーーー!!)
エリセは全力疾走だった。
心臓が喉を突き破りそうで、肺が火を噴きそう。
それでも、前を行く背中を見失わないように必死に足を動かした。
しかも――
先生の足元が、一瞬だけ光っては消えている。
それが、まるであたしへの道しるべのように残っていく。
(何してんの、先生!? 見えてるの? なんでそんなに正確に!?)
混乱するエリセに、先生の背からひと言。
「お前は、よほど“うまそう”に見えるらしい」
「は?」
何を言っているのかわからなかった。
でもすぐに、背後に迫り来る気配がそれを理解させた。
《感情の抜け殻たち》が、迫ってきている。
その、氷のように冷えた指先がエリセの腕に触れかけた――その瞬間。
「――っ!」
反対の手首を、強く引かれた。
先生の手だ。
そのまま、風を裂くような加速。
もはや走っているのではない。
跳ぶように、滑るように、重力を振り切るかのような――異次元のスピードだった。
ついていくのが精一杯。
足が千切れそうで、肺が破れそうで、限界なんて遥か後ろに置き去りにしていた。
「ここから川を渡るぞ」
先生の声が聞こえた。
「川……って……!」
「死者は船でしか水を超えられん。恋人達に最後の別れの挨拶でもしておくか?」
「……え?」
理解が追いつかない。
だが、そのときにはもう、足元に濁流が迫っていた。
次の瞬間、先生がエリセの腕を引いたまま――川へと飛び込んだ。
水が冷たい、という感覚さえ一瞬で麻痺するほどの衝撃。
身体が巻き込まれ、ぐるぐると回転していく。
どちらが上かも、何が自分かもわからない。
そんな中、ふいに見えた。
先生の右手の先から、閃光がほとばしる。
放たれた数十もの白銀の輝きが、空気を切り裂いていく――
《双刃の輪》。
その巨大な魔力を追うように、谷底から無数の風の刃が一斉に吹き上がった。
それらは一つの意思を持つかのように、《感情の抜け殻たち》の群れを容赦なく貫き、
大地を鋭くえぐりながら、次々に突き刺さっていく。
――ドドドドドドドッ!!
ズガガガガガガッッーー!!!
轟音が谷間を震わせ、衝撃波が一帯を叩きつける。
崖の一部が砕け落ち、巻き上がる砂煙が水面を覆い尽くした。
爆風は奔流の水面にまで波紋を描き、エリセたちの身体ごと、容赦なく飲み込んでいく。
視界が白く染まり、音も、感覚も、すべてが遠のいていく。
そして――闇の底に引きずり込まれるように、エリセの意識は沈んでいった。
冷たい。
身体の感覚が、ようやく水面近くへ戻ってきた頃だった。
エリセの背が、何か柔らかいものに押された。
――ぐっ、と。
水をかく感触。
そのまま、岸辺の斜面に、そっと押し上げられた。
ばしゃり、と音を立てて、水から顔を出した瞬間。
「ごほっ、げほっ……!」
肺の奥から水を吐き出しながら、エリセは仰向けに倒れ込んだ。
冷たさと咳で涙が滲む。
頭がガンガンする。
だが、意識は確かだった。
そのとき、視界の隅――
川辺の草むらの向こうに、黒く、しなやかな影が動いた気がした。
――蛇?
心臓が一瞬きゅっと縮まる。
エリセにとって蛇は、この世で一番おぞましいものだった。
その姿を見るだけで背筋が凍り、呼吸すら浅くなるほどに。
けれどその黒い影は、すぐにぬるりと水中に消えていった。
幻だったのかもしれない。
なのに――どうしてだろう。
今はまるで、怖くなかった。
おかしいな、と自分でも思う。
それでも、心の奥底で何かがふっと、ほどけるような気がした。
気がつくと、エリセは川岸に一人、横たわっていた。
川のせせらぎが、まるで子守唄のように耳をくすぐる。
ゆっくりと起き上がり、対岸を見やる。
――対岸には、もう、かつての崖は存在していなかった。
岩肌は粉々に砕け、地面は深く裂け、抉れたような大穴が点在している。
破壊の痕跡。
轟音と共に崩れた地形。
さっきまでいた場所が、完全に消え去っている。
(……すご……)
言葉にならないまま、エリセはその光景を見つめた。
ふと、空を仰ぐ。
――霧が、消えていた。
あれほど重く、息苦しいほどに垂れ込めていた霧が、まるで嘘のように跡形もない。
代わりに広がっていたのは、透き通った夜空。
その深い藍色の空に、満天の星が、ひとつ残らずきらめいている。
瞬く星々は、どこまでも澄んで、美しくて、冷たくて――けれど不思議と、あたたかかった。
この谷にたまっていた魔力も、魂も、何もかも、空っぽになったのだとわかる。
あの人が、全部、吹き飛ばしたから。
エリセは、笑いそうになった。
最初は息をつくように。
ふふ。
ふふふっ。
そして――
「あは、あははっ、あははははっ……!」
身体の奥から、なにかがほどけるように、笑いがあふれて止まらなかった。
川に飲まれる直前、ほんの一瞬だけ見えたのだ。
あの、《感情の抜け殻》たち。
――かつての恋人たちの姿を模した、あの忌まわしい亡霊たちが。
崖の崩落に巻き込まれ、押し潰され、音もなく消えていく様子を。
それは残酷で、悲惨で、破滅的だったはずなのに――
エリセの胸の奥底に澱んでいたものが、まるで春の雪のように、溶けていくのを感じた。
もう、重荷じゃない。
あの声も、あの眼差しも、あの別れも。
全部、流れていった。
「……つらかったなぁ……」
ぽつりと漏れたその言葉は、誰に向けたものでもない。
たぶん、過去の自分自身に対してだった。
生きることが、ただ苦しかった。
誰かを愛するほどに、誰かに縋るほどに、自分が壊れていく気がしていた。
そんな想いで――
でたらめな力に手を伸ばした。
それが何かなんて、考えもせずに。
亡霊たちは、本来ならば、ただの影だった。
岩に潰されて消えるような存在ではない。
だが――
あの男。
先生が放った《双刃の輪》の魔力は、尋常ではなかった。
幽咲の谷に充満する膨大な魔力とぶつかり合い、谷全体を巻き込む“魔力反響層”との自傷的フィードバックが生じた。
それが、あの崩壊現象を引き起こした。
――でも、そんなことはどうでもよかった。
エリセにとっては、そんな理屈よりも、今の静けさのほうが大事だった。
「……あとは、登るだけか」
呟いて、立ち上がる。
身体は重い。髪も服も濡れている。
けれど、もう進める。
気がつけば――先生の姿は、そばになかった。
けれど、不思議と不安にはならなかった。
きっと、谷を登りきれば――
先生は、あたしを見つけてくれる。
そう思ったら、なんだか心が温かくなった。
あれほど怖かったはずの、彼らの声も。
もう、何ひとつ怖くなかった。




